※2,500字ちょっとあります。『現実性の極北』が出る前にアップしないと、と思って書きました。

※この文章は、入不二基義の現実論を知っている前提で書いています。「円環モデル」「現実性」「潜在性」「マテリアル」「ギャップ」といった用語については『現実性の問題』か、そろそろ出版される『現実性の極北』を読んでください。

単純な要素で構成された数式の美しさ

以前ブログにも書いた「チ。―地球の運動について―」という漫画を読んで気付いたことだけど、地動説の魅力は、天動説の複雑さに比べ、単純な円によって惑星の軌道を美しく説明できるという点にあったようだ。

(以前の文章はhttps://dialogue.135.jp/2025/04/13/rekagaku/

だから、観測結果に基づくと、どうやら惑星の軌道は真円ではなく楕円らしい、ということが問題となる。最も美しい真円よりも美しさが劣る楕円というのは、どこかおかしい、というわけだ。

だが、その後に発見されたニュートン力学により、地動説の美しさは、円という図形の美しさではなく、惑星の初速と太陽の重力という単純な要素で構成された数式の美しさに拠っていることが明らかになった。

つまりここには、図形の美しさから数式の美しさへという「美の居場所」の推移があったのである。

さらに、美しいからこそ真である、と考えるならば、この「美の居場所」とは「真の居場所」であると呼び直すこともできる。真らしさは、図形としての美しさではなく、数式の単純さに宿っているのである。

円環モデルの円運動

なぜ、こんな話をするかというと、入不二の円環モデルについて検討したいからである。入不二の円環モデルは、その名のとおり、真円で描かれ、円としての構造の美しさにひとつの魅力がある。

だが、地動説の類比で考えるならば、本当の真らしさの根源はそこではなく、どれほど少ない要素で、その円運動の軌跡を説明できるかにかかっているはずだろう。そのような方向で、入不二の円環モデルについて捉え直してみたい。

潜在性

入不二によれば、この円環モデルを駆動するのは現実性の力である。つまり、ただひとつの力がそこにはある。

だが、力がひとつならば、その軌跡は直線となるはずである。円環モデルが円であるためには、それを繋ぎとめる重力のような、もう一つの力が必要となるのではないか。

入不二はそのもうひとつの力に関して明言していないから、考えなければならない。

まず、考えるべきは、そのもうひとつの力が、いわゆる力のようなあり方をしていない可能性である。僕は科学に詳しくないけれど、一般相対性理論によれば、重力とは力ではなく、質量による時空の歪みであると捉えられるらしい。同様に、円環モデル自体に質量があり、その歪みにより、現実性の力が円運動を行うと捉えることもできるのではないか。

そのようなことも念頭に置き、現実性の力ともうひとつの力の候補を探してみたい。

思いつくのが、入不二の現実論における「マテリアルとしての潜在性」である。潜在性の質量が時空を歪め、現実性の力の向きを変え、円軌道を描かせると考えてみるのである。

円運動とする二つの道筋

そうだとして、問題は、なぜちょうど円を描くのか、である。ひとつの答えは、何らかの理由により、現実性の力の大きさと潜在性の質量がちょうど釣り合っているから円運動となる、というものである。

もうひとつは、実は円運動をしていないが、それを円運動と見做そうとしている、というものである。

僕は、入不二は両方を肯定するのではないかと思う。

まず、前者の釣り合いを導く考えとしては、マテリアルとしての潜在性も実は現実性の力によって成立しているという捉え方がありうる。それならば、同じ現実性の力が、あるときには力そのものとして、またある時にはマテリアルとして現れるということになる。

もともとが同じものならば、ちょうど釣り合うことも、そうおかしくはないだろう。

なお、これは入不二自身の述べ方ではないが、僕は、このような方向で、入不二の現実論を、現実性一元論として解釈することが可能なのではないかと考えている。

また後者の、円環モデルは実は円運動をしていないというアイディアについては、入不二の円環モデルにはギャップがある、ということがその根拠となっている。これは入不二自身の記述にあるが、入不二の円環モデルを時計にたとえるならば、完全に潜在する12時の地点と、始発点として顕在する0時の地点の間にはギャップがあるのである。

つまり、入不二の円環モデルは、ギャップにより円運動をしていないものを、無理やり円形に捉えようとしているのである。

潜在性の不思議

この二つの道筋のどちらなのか答えを出すことにはあまり意味がないだろう。重要なのは、どちらの道筋にせよ、マテリアルとしての潜在性が深く関わっているということである。前者は、マテリアルとしての潜在性も実は現実性の力である、というかたちで。そして、後者は、完全な潜在から顕在への始発点のギャップとして。

また、そもそも、地動説における太陽の重力のような役割は、円環モデルにおいては、潜在性が担っている。すべてが潜在性というあり方につながっている。

入不二の円環モデルにおいては、地動説における太陽のように、潜在性がその中心に構えているのである。

入不二の現実論においては、どちらかというと、主な関心は現実性のほうに向けられているが、ここには解き明かされるべき、潜在性の不思議があると思う。

蛇足:独在から潜在へ

ところで僕は、入不二基義のファンだが、永井均も好きだ。

だが、永井の独在論は天動説のようなものだと思う。〈私〉が中心にあり、その周囲を世界が回っているのである。僕は、その構造に賛同することができない。

比喩的に述べるならば、地球中心の天動説から太陽中心の地動説へと移行したように、〈私〉中心の天動説から、潜在性中心の地動説へと移行するべきなのではないだろうか。つまり、永井の独在論から入不二の円環モデルへの移行である。

だが、天文学において、太陽中心の地動説から、更に壮大な宇宙モデルに発展したように、潜在性中心の地動説(入不二の円環モデル)も、更に壮大な形而上学モデルへと発展していくのだろう。それを可能とするのが、入不二が捉えようとしている現実性の力であり、その先にあるのが、円環モデルに留まらない、入不二の現実論なのだろう。