※2,300字くらいです。今日は書きかけの文章を一気にアップする日でした。

(これは神と人間の対比から、永井の独在性につなげる話です。)

『技術の哲学』(村田純一著)という本を読んでいたら、中世末の神学者ニクラス・クザーヌスが、「無限の技術としての神の技術と有限な技術としての人間の技術を比較」するという話があった。(p.101)

それを読んで、より正確には、人間の技術は可算無限であり、神の技術は非可算無限ではないのか、という考えが浮かんだ。とは言っても、僕は数学が得意ではないので、ここでは、可算無限とは自然数を指し、非可算無限とは実数を指している、という程度の意味である。つまり、人間の技術は自然数を1、2、3と数えるように断続的であり、神の技術は1と2の間に無限の数があるように連続的であると言えるのではないだろうか。

ちょっとわかりにくいかもしれないので、色を例としてみよう。色の比喩によるならば、人間は、赤や黄色といった色を技術により制作できる。一方で、神は、赤と黄色の間にある名もない色も含めた無限のグラデーションも技術により制作できるのである。色相環を、赤、黄色と断続的に捉えるのが人間であり、完全に連続した円環と捉えるのが神なのである。

当然、人間の技術で制作する色は、赤や黄色ばかりではない。絵の具を混ぜ、名もない新たな色を制作することができる。だが、その色は、制作された途端、微笑むモナリザの頬の色、というように名指しされてしまう。これは、赤と黄色の間に、もうひとつ新たな色を断続的に配置したにすぎない。

この名差しという側面を強調するならば、人間の技術は言語的で、神の技術は非言語的と言ってもいいだろう。

では、可算無限・言語と人間が結び付けられ、非可算無限・非言語と神が結び付けられるということが何を示しているのだろうか。それは、(入不二的に言うならば、)神は「潜在」を捉えていることを含意している。

人間は、1、2、3という自然数や、赤、黄色といった色しか捉えることができない。これは、顕在化した数や色しか捉えることができない、と言い換えることもできる。当然、その間に、1.5や√2や「微笑むモナリザの頬の色」があってもいい。だがそれらも、そのように表現された途端、それは顕在化した数や色となってしまう。

一方の神は、その顕在化以前にあるはずの、無限の潜在した数や色を捉えることができる。捉えるという言葉が神様っぽくないと感じるならば、神は無限の潜在した数や色を創造した、と言ってもいい。すでに潜在したかたちで神により創造されているからこそ、その数や色は人間が顕在化できるのである。

なお、僕がここで話しているのは、願いを叶えてくれるような神様ではなく、この世界の創造神のような神様についての話である。神という言葉が誤解を生むならば、神という言葉を取り払い、世界そのものと言ってもいい。文脈によっては、自然と言い換えてもいいだろう。創造神であれ、世界であれ、自然であれ、人間と対極にある最も偉大な存在は、非可算無限的で非言語的な圧倒的な存在であるはずだ。少なくとも、そうでなければならない。この文章では、我々人間ではない圧倒的な存在のことを神と呼んでいる。

それでは、人間には独自の役割がないのかというと、「ない」とも言えるし、「ある」とも言えそうだ。

なぜ「ない」かというと、人間も被創造物のひとつであり、世界や自然の一部だからだ。そう考えるならば、人間の技術により行う制作は、神の下請けでしかない。

一方で、なぜ「ある」かというと、人間とは、(永井的に言うならば)この「私の実存」であり、「私の実存」だけは神には創造できないからである。永井は、誰かとして名指し可能な「私」ならばいくらでも創造できるが、名指し不可能な、この「私」だけは創造できないと論じる。もしそうならば、そのような「私の実存」としての人間は、神とは別に、なんらかの役割を担っているはずである。

その役割とは、非可算無限を可算無限に減算し、非言語を言語に減算するという役割であろう。減算とは、例えば、連続した実無限の色相環の中から赤や黄色といった可算無限の色を名指しするような行為である。

そのうえで、なぜ、人間に減算の役割を割り振るかというと、神には、そう簡単には減算ができないだろうからである。

なぜ神による減算が困難かというと、減算とは不可能を意味し、全能であるはずの神にとって、減算、つまり何かを不可能とすることには大きな問題があるからである。

非可算無限から可算無限への減算とは、つまり、非可算無限を捉えられなくなることであり、同様に、非言語から言語への減算とは、つまり、非言語を捉えられなくなることである。それならば、全能であるはずの神が「減算」つまり「不可能」という能力を持つことには問題があるのではないか。

だが、それでも、現に、この世界には減算があるのだから、唯一、神の力が及ばないところにいる人間が、減算つまり「不可能」という否定性を担うしかない。言い換えれば、神はどこまでも肯定的であるしかないのだから、否定は人間が担うしかないのである。


神が、「私の実存」としての人間を創造できるのだとすれば、神は、非可算無限から可算無限への減算や、非言語から言語への減算もできるのでなければならない。一方で、神が、「私の実存」としての人間を創造できないのだとすれば、これらの減算は神ではなく、人間だけができるのでなければならない。この分岐点において僕は、ここまで述べたような理由から後者の道を選ぶ。

これが、クザーヌスの言葉から連想するようにして思いついた、僕なりの永井の独在論を補強する議論である。