※1,300字くらいです。1日3本の文章をアップするということで、まさに過剰に書いてみました。
最近、自分が周囲から浮いているように感じる場面が何度かあった。多くの人は、もっとスマートに、もっと余白を大切にして生きているように思えるのに、僕はそれができなくて、ガツガツ生きているような感じがしたのだ。
たとえば、電車の中では、スマホでゲームをしたり、漫画を読んだりしている人がいる。僕もやるけれど、本当なら、もっとやるべきことがあるのに、無駄なことをやっているというような感覚がある。または、休息や気分転換のために必要な分だけやろう、という、楽しみきれない感覚もある。そこには、「やるべきこと」の順位付けがあり、「やるべきこと」に応じた時間の振り分けがあり、「やるべきこと」をやることの息苦しさがある。
多くの人がそうなのかな、となんとなく思っていたけれど、話してみると、どうもそうでもない。みんな、もっと純粋に、もっとゆるく、ゲーム・漫画・テレビドラマ・動画といったものを楽しんでいるようなのだ。
僕は詳しくないから、そういう話についていけず、自分が、あまり魅力的な人間ではないのかな、と感じた。だって、人生における、ちょっとしたものごとを楽しめるほうが、余白を味わえていて、素敵なような気がしたから。
僕は、そうした時間を削って、こういう文章を書いている。それはそれで重要なことだと思ってはいるけれど、どうも手慣れた、身近なものに逃げ込んでいるようにも感じる。こうして文章を書いている限り、僕は自分自身を特別な存在と感じ、優越感を抱きながら生きていける。それは習慣化し、定型化した行動への逃げなのかもしれない。
かといって、では努めてYouTubeで動画を見ようと心がけるのもおかしい話だ。そういうことは心がけたり、決心したりするようなものではない。そうではなく、もっと自然にやることだ。だからこそスマートでかっこいい。
さらに言えば、動画を見るのに比べて、こういう文章を書くのは受けがよくない。自己紹介で、哲学のブログを書いていると言っても、あんまりいいことはない。自意識過剰で変な人だと思われるのがオチだ。
そんなことを考え、ちょっと気分が落ちていたけれど、今日、いくつか文章を仕上げてみて思った。
これでいいんじゃないか。いや、これしかないんじゃないか。
これからも過剰でいこう。これが僕の持ち味だから。これからも語りたいことを熱く、過剰に語っていこう。そんな姿を面白いと思ってくれる人も少しはいるだろうし、そう思ってくれない人は、それはそれで仕方ない。僕にとって文章を書くとは、「やるべきこと」ではなく「やりたいこと」であり、より正確には「やるしかないこと」なのだ。
問題は、「やること」の順位付けや時間の振り分けに意識を向けすぎることだ。特に、順位付けをして、自分が高尚なことをしているという誤解をするのはまずい。そんなことは気にせず、ただ目の前にある「やりたいこと」や「やるしかないこと」をやっていこう。
そこに余白なんてなくていい。過剰でもいい。周囲など気にせず、心の赴くままにやっていくのだ。
ただ、もうちょっと、いろいろな人たちと話を合わせられるようになりたい気もするなあ。