※ 3,500字くらいです。これで書きかけの文章はなくなったかな。スッキリ。

最近、つくづく僕はグイグイいきすぎで、受け身の態度が足りないと感じることがあった。そのことの一部は、昨日「過剰でいこう」(https://dialogue.135.jp/2025/05/31/kajou/)という文章を書くことで解消したけれど、まだ足りないところがあるので、そのことを書く。

ここで述べるのは、真に受動的であるために何が必要なのか、そして、その過程で問題となる「考える」という能動性に僕なりにどのように対処するか、といったことについての話である。(タイトルでネタバレしてますが。)

耐える

受動的であるためには、まずは耐える力が必要だろう。僕は、何かあったら、つい反応したくなってしまう性分だ。遠くで人だかりがあれば駆け寄って覗き込みたくなるし、相手に話しかけられれば、かぶせるように自分の話をしたくなってしまう。その、ついついの反応をしないよう、じっと耐えなければいけない。

正確な状況把握

では、耐えることでどのような良いことがあるかというと、まずは、お行儀がよいと評価してもらえるだろう。だが当然、耐えることのメリットの本質は、そういうことではない。

それは、じっと耐えることで、置かれた状況をより正確に把握できるというメリットである。人だかりに駆け寄るのを我慢することで、実は、そこで事件が起きていて、安易に近寄ったら危険だとわかるかもしれない。また、相手の話を我慢して最後まで聞くことで、相手の真意を誤解せずに済むかもしれない。耐えることで、より正確に状況を把握し、誤った判断をせずに済むのである。

対象に積極的に向き合う

それならば、耐える、我慢といった言葉を用いるのは不適切だろう。このような言葉には、人だかりや相手の話といった対象から目を逸らしてやり過ごすという感じが含まれてしまう。そうではなく、その対象に関心を持ち、向かい合うからこそ、より詳細に、より正確に把握できるのである。よく、傾聴が大事だと言われるけれど、きっと、そういうことなのだろう。

受動的であるとは、実は、対象に積極的に向かい合うことである。そのように捉え直すと、受動的でありたい、という言葉の意味合いが変わってくる。僕に足りないのは、対象に積極的に向き合う力なのである。

自分自身の変化

それでは、対象に積極的に向き合うとはどういうことだろうか。それはきっと、その対象から影響を受け、自分自身が変化することを恐れない、という態度なのではないか。

例えば、相手の「話」に積極的に向き合うとは、その話を正面から受け止め、自分自身を省みて、自分自身のあり方を見直すということである。

このような描写は、美しい景色や絵画に出会ったときなど、色々な場合に当てはまるだろう。

(ただし、人だかりに出会った場合のような、日常の些細な出来事の例だとうまくいかないように思える。人だかりに急いで駆け寄らず、その人だかりが自分に及ぼす変化を正面から受け止める、という描写が何を指すかが不明であるからだ。だが、このような日常の情景でも、自分自身を省みる微かなきっかけにはなるのかもしれない。日常の風景を俳句に詠むようにして。)

矛盾した態度

だが、ここで単純に「自分自身の変化」というように捉えてしまうと、最初の話に戻ってしまう。なぜなら、ただ散歩していた僕が人だかりを見て急に駆け寄ったり、ただ座っていた僕が相手の話に自分の話をかぶせたりするのは、自分自身の態度の大きな変化ではあるからだ。そのような自分自身の変化を追求することが、群衆や相手の話といった対象に積極的に向き合う態度である、というのはおかしい。

さらには、「自分自身の変化」を追求するとは、相手の話を悲しもうと努めたり、美しい景色に感動しようと努めたりすることにもつながってしまう。無理に自分自身の感情の変化を追求するような態度は間違っている。

きっと、対象に積極的に向き合うとは、自分自身の態度や感情を変化させることを含んではいるけれど、同時に、性急に変化させず、いったん立ち止まるということも含んでいる。立ち止まるという仕草が象徴するように、対象に積極的に向き合うとは、どこか受動的に向き合うということでもあるのだろう。

つまり、対象に積極的に向き合うとは、変化させつつ、変化させないという、積極的かつ受動的な態度のことなのである。

これは矛盾した描写ではあるけれど、この矛盾が何を伝えようとしているかは、多くを述べなくても、読者に伝わるのではないだろうか。

表層と深層

だが、あえて詳述するならば、この矛盾は、表層と深層に振り分けることで、ある程度は緩和することができるだろう。つまり、受動的であるとは、あくまで表層的な態度として受け身であるということであり、深層では、自らが変化することも認めるという意味では極めて能動的なのである。そして、受動的であるとは、一見、受け身の態度で凪いでいるように見えて、奥底では激しい能動の力が蠢いているのである。

一方で、僕が陥っているような能動的な態度とは、表層では人だかりに駆け寄ったり、人の話に自分の話を被せたりと忙しいが、それは小手先の能動である。それに対し、実のところでは、心の奥底を固くガードし、変化を受け付けないような消極的な態度をとっているのではないか。

前者は、表層では凪いでいながら、深いところでは自らの変化も厭わず、その対象を受け止める一方で、後者は、浅いところで労力をかけずにその対象を小手先の能動で処理している。だから、深い受動性を発揮している前者を受動的と呼び、受動を早々に切り上げてすぐに能動に切り替えてしまうような後者を能動的と呼ぶのだろう。

僕に足りないのは、前者の、深い受動性を発揮するために必要な、人間の根底にあるべき積極的な力強さなのだと思う。

「考える」のではなく「ある」

さらに僕にとって、この問題が困難なものとなるのは、ここに「考える」という要素が加わってくるからである。「考える」こともひとつの能動的な行為だから、深い受動性を発揮するためには、「考える」ことさえも先延ばしにしなければならない。安易に「考える」のではなく、ただ深層で受け止め、自分自身の変化を触発してから、ようやく「考える」のでなくてはならない。

だが僕は、人よりも「考える」ことが好きだから、つい考えてしまうし、「考える」ことは何の準備も道具もなくてできるから、安易に「考える」という行為に飛びついてしまう側面もある。僕にとって、「考える」ことは身近にありすぎて、それをしないことが難しいほどである。例えば、「受動的であるためには『考える』ことを先延ばししなければならない」というアイディアさえ、僕はつい考えてしまう。

僕にとっての、真に受動的であるための最大の障壁は、多分、考えすぎてしまうことなのである。

考えるのでもなく、考えないのでもなく、ただそこに「ある」ということこそが、より深いところで受動的であるということなのだろう。(「ある」、「自然体でいる」などと言葉にしてしまえば、それがひとつの思考であり、能動にはなってしまうのだけど。)だが、「考える」でも「考えない(ということを考える)」のでもなく、ただそこに「ある」というのは、僕にとっては、極めて困難な作業である。

それでも、真に受動的であるためには、この困難に立ち向かい、「ある」に到達しなければならない。

「考える」の飽和攻撃

だが僕の性分からして、単に「考える」ことも「考えない(を考える)」ことも取りやめるような道を進むことは、現実問題として、なかなか難しい。

それならば、僕に残されているのは、「考える」を突き詰め、いわば「考える」の飽和攻撃を仕掛けるようなやり方しかないのかもしれない。「考える」に「考える」を重ねることで、いつか「考える」を崩壊させ、その先にある「考える」でも「考えない」でもない、ただ「ある」に到達するような道筋がある、僕はそう信じたい。

だから僕は、考えないことを考えたいし、考えることが考えないことにつながっている、ということを考えたい。そんな「考える」という作業の過剰さが「考える」ことの先につながっていることを願っている。それが、哲学者としても生活者としても、僕が進むべき道であり、そして哲学者としても生活者としても、僕にはそれしかできないのだろう。

(能動態でも受動態でもない中動態という道筋もあるけれど、そういう中間に逃れることは魅力的ではあるけれど、真の過剰さを削いでしまう妥協の道筋であるようにも思う。)