2000字ちょっとです。長文を書いたあとは、軽い文章を書きたくなります。バランスを取りたくなるのかな。

底なし沼の底

僕は、確かなもの、基盤となるものを探し求めて哲学をしてきた。

底なし沼の底を見つけ、そこを足がかりにして第一歩を踏み出したい、そう願ってきた。

もしそれが叶えば、僕は普通の人生を送ることができる、哲学的な問題に悩むことなく、皆と共通の価値を目指して、遊んだり、働いたり、全力でそういう日常的なものごとに没頭できる、そう考えてきた。

だけど、本当に、僕には、何も拠って立つものがなにもないのだろうか。僕は曲がりなりにも、50年以上生きてきた。平均寿命から逆算すれば、三分の二くらいは生きてきた勘定だ。それなのに、何も拠って立つものがないなんていうことがあるのだろうか。

もしかしたら、この50年以上生きてきた、ということこそが、拠って立つものなのではないだろうか。

そんなことを考え、この文章を書くことにした。

水面

底なし沼の底を探すという比喩を拡張するならば、僕がやってることは、海に潜り、深いところにある海底を探すようなものだと言っていいかもしれない。潜っても潜っても海はあまりにも深く、どこまで潜っても海底が見えない、という状況である。

僕はダイビングが好きなので、ちょっと喩えてみる。(空気ボンベを使ったスキューバダイビングだと結構潜れてしまうので、スキンダイビングのほうを想像してください。)

僕はウェットスーツを着て、マスクとシュノーケルとフィンを着け、水面に浮かびながら、深いところにぼんやりと茶色く見える海の底らしきところを眺め、狙いを定める。

僕は深呼吸をして息を止めて、頭を下にして潜っていく。けれど、すぐに海の底のように見えたのは、突き出た岩の頭であったことがわかる。岩の頭の脇は崖になり、どこまでも深く落ち込んでいる。

崖に沿って数メートル潜っていくけれど底は見えない。やがて息が続かなくなり、やむを得ず、頭を上にして浮上していく。そして、水面で大きく息を吸い込む。

僕がやっている哲学とはこういうものである。潜っても潜っても、ようやく見つけたと思った海の底らしきものは、実は岩に過ぎず、その先には更なる深淵が待っている。

僕は何十年もこういうことをやってきたけれど、ふと、海の底の他にも、もうひとつ基準となる場所があることに気づいた。それは、水面である。

僕は水面の上では呼吸ができるけれど、水面より下では呼吸ができない。だから潜る前には水面で深呼吸をし、潜っている間は息を止め、そして浮上して水面から顔を出したら再び深呼吸をする。

僕は、明らかに水面に拠って立って生きている。僕は、50年以上、水面に拠って立って生きてきた。僕は、海の底は発見できなかったけれど、水面という拠って立つ場所を見つけることができた。というか、気にも留めなかったけれど、実は、僕は、水面とともに生きてきたのだ。僕は、確かなもの、基盤となるものを探し求めてきたけれど、水面とは、僕にとっての、確かなもの、基盤となるものである。

スキンダイビングの比喩を離れるならば、この水面とは、生活の基盤となる、常識的な世界のあり方のことである。疑いようもなく、時空が広がり、因果律が成立し、僕と同じような他者が存在している。殺人は悪いことであり、約束を破ることは悪いことだけど、事情があれば情状酌量されることも、皆が疑いなく同意している。そういうことが成立しているのが、水面であり、海抜ゼロメートルである。

そのような常識的世界を基盤として生きてきたという実績の積み重ねが確かに僕にはある。

トビウオとカモメ

だが、仮に水面という常識的世界がある意味での基盤であることを認めたとしても、本当に僕は、スキンダイビングをする人間のような生き方をしてきただろうか。

よく考えると、僕は、どちらかというとトビウオのような生き方をしてきたような気もする。僕にとってのデフォルトの居場所は、水中で、そこから、何かあったときだけ、無理をして水面から飛び出すような生き方である。水中では自由に鰓呼吸ができるけれど、水面から飛び出している間は呼吸ができない。(魚の呼吸のことはわからないけれど、多分、鰓が乾くまでの間は普通に呼吸ができるのかな。だからトビウオが飛んでいる間は呼吸を止めるというのは人間と対比するためのフィクションということで。)

そうは言っても、僕は、週5日、8時間、30年くらい働いてきたし、奥さんがいて、子供もいるから、いわゆる常識的な時間を長らく過ごしてきた。トビウオにしては空中ばかり飛び回ってきた。だから、かなり飛ぶのがうまいトビウオだとは思う。だけど、それでも僕は水中に身を置く魚だ。

僕から見ると、世間のたいていの人はカモメのようだ。水中のことなど気にせず、空を飛び回っている。時折、餌を取るために水中に潜ることはあるけれど、それは必要最小限のものであり、用が済んだら、また水面に浮かび、やがて飛び立ってしまう。僕は、カモメのようになれたらいいなあ、と思う。

実は、トビウオとカモメの差はわずかである。カモメは水面に浮かび、トビウオは水面近くを泳いでいる。その差は、わずか数十センチかもしれない。だが、その間には、水面が横たわっている。水面上と水面下の違いは大きい。カモメにとっては水面とはたまに気にする程度のものだけど、トビウオにとっては常に自らを制限する限界である。

それならば、哲学者とは皆トビウオであり、哲学とは、はるか下の海底を探すことではなく、水面を挟んだ、わずか数十センチの違いに意識を向けることなのかもしれない。

だけど、そうは言っても、できれば僕も、ユーステノプテロンのような肺魚になって、更にイクチオステガのような両生類になって、肺呼吸ができるようになれたらいいなあ。

僕が何十年も願ってきたのは、そういうことなのかもしれない。