3000字ちょっとあります。当初は哲学カフェのサイトに載せようと思ったけど、意外ときれいにまとまったので、こっちに載せました。

1 はじめに

先日、僕が主催した哲学カフェでは「恋愛において対等ってどういうこと?」をテーマに対話をしたのだけど、面白かったので書き残しておく。

なお、この文章は、基本、当日の話し合いで実際に出た話を繋ぎ合わせるようにして書かれているけれど、順番などは入れ替えているし、僕の解釈でかなり言葉も足しているし、実際にこのとおりの話があった訳ではありません。

2 恋愛でなくても

「恋愛において対等ってどういうこと?」という問いでは、「恋愛において」という場面の限定が重要な役割を果たしている。だが、あえて恋愛に限定せずに、「大事な人との関係において(対等ってどういうこと?)」という程度で解釈したほうが話の広がりがある。だから、ここからの話は、職場の同僚のような浅い関係には当てはまらないけれど、恋愛関係に限らず、親子関係や(ある程度深い)友人関係でも当てはまる、ある程度普遍的な話だと思って読んでください。

3 パワーバランス

まず、「対等」という言葉からは、パワーバランスのようなものが連想される。例えば、夫婦間では、生活費を稼いでいるとか、家事を回しているとか、といった家庭への貢献度がパワーの源になるだろう。また、友人間では昔世話になったから頭が上がらない、といったパワーもあるかもしれない。そのようなパワーが一方に偏らず、パワーを有するAさんがもう一方のBさんを抑圧していないという状況が「対等」だという考えである。

そうだとするならば、パワーバランスを調整し、パワーを50対50にすれば対等になることができる、ということになる。

だが、それだけでは、(恋愛等の場面での)大事な人との対等、ということを十分に捉えきれていない気がする。赤の他人との一度限りの商取引における対等ならそれでもいい気がするけれど、フィフティー・フィフティーでは殺伐としすぎている。(正直、赤の他人との一度限りの商取引でもなんか嫌だ。)

4 信頼

そこで対話の中で出てきたのが、「信頼」というキーワードである。恋愛における(大事な人との)対等とは、その相手を信頼するということと密接に関係しているのではないか。

確かに、そう言われればそういう気もする。見ず知らずの赤の他人ではなく、恋人のような大事な人との対等を考えているのだから、そこに、大事な人への信頼は深く関わっている気がする。

5 自分自身の信頼

だが、「対等」と言うからには、信頼が二つあり、その二つの信頼が対等でなければならないはずである。(僕の夫婦関係を例として)一方が、僕から奥さんへの信頼だとするならば、もう一方の信頼とは何なのか。

普通に連想するならば、もうひとつの信頼とは、「奥さんから僕への信頼」となるだろう。だが、この哲学カフェでは、そう展開しなかったところがよかったと思う。

もうひとつの信頼とは、「僕から僕自身への信頼」なのではないか。「僕から奥さんへの信頼」と「僕から僕自身への信頼」が釣り合っているということが対等ということなのではないか。

この展開はなかなかすごいと思う。対等というと、どうしてもAさんやBさんという他者が入り込んでくるけれど、「僕から奥さんへの信頼」と「僕から僕自身への信頼」の対等というアイディアの中には、どこにも他者が登場しない。僕自身が対等であることの全責任を負っているのである。後者の「僕から僕自身への信頼」を自立と言い換えるならば、信頼と自立が対等に成立していることこそが、対等ということだと言ってもいい。

6 相互信頼

だが、やはり対等というからには、他者が登場せざるをえない。僕と奥さんの関係を例にするならば、奥さんは、僕から信頼されるに足る人でなければならないはずだ。もし、僕の奥さんが不誠実な人ならば、僕から奥さんへの信頼は、信頼ではなく、洗脳や妄信と呼ばれるものとなってしまうだろう。

では、信頼に足る人であるためには、奥さんはどういう人であればいいか。きっと、奥さんが信頼に足る人であるためには、奥さんも僕を信頼していることが必要だろう。そして、更には、奥さんも奥さん自身を信頼していることが必要だろう。

つまり、真に対等であるためには、自立した二人が互いに信頼することが必要なのだ、ということになる。

7 信頼の共鳴

当然、そんな領域にそう簡単に到達することはできない。(僕自身、信頼や自立からはほど遠いところにいる気がする。)

たいていの場合、恋愛初期においては、自立しきっていない二人が、互いに不十分な信頼を寄せるところから始まるのだろう。それでも、二人が、より自立し、より信頼しようとする方向を目指していることさえ共有していれば、いつかはともに成長し、真の対等に到達することができるはずだ。

方向性さえ共有していれば、互いの信頼が反響し、共鳴するようにして、より深いものに信頼を育てていくことができるはずなのである。

そのような意味で、対等とは、「僕から奥さんへの信頼」と「僕から僕自身への信頼」と「奥さんから僕への信頼」と「奥さんから奥さん自身への信頼」の四つの信頼が対等であること、といったように表層的に捉えることはできないだろう。

対等とは、僕が、僕自身を信頼してくれる奥さんを信頼することであり、そして、そのように奥さんが信頼してくれる僕自身を信頼することであり、奥さんが奥さん自身を信頼しているということを僕が信頼するということであり・・・というように、信頼が信頼を反響させ、全体として信頼が共鳴するようにして、真の対等は成立しているのである。

8 信頼の崩壊

当初、対等とはパワーバランスが50対50であることだ、という発想もあった。だが、そのパワーバランスの釣り合いが「信頼」についてのものである限り、バランスが40対60になるとか、20対80になるとかといった表現はあり得ない。なぜなら、80%信頼しているとか、60%信頼している、なんていうことはあり得ないからである。

互いが信頼と自立を育んでいこうと同じ方向を向いているという確信が、相互信頼として成立している限り、多少の我慢はあっても、それは信頼が釣り合っているということなのではないだろうか。そして、その確信が失われた時、一挙に信頼は崩壊する。信頼とは、成立しているか崩れてしまうかのどちらかなのだ。

9 日常生活とピュア

ここまで心構え的な精神面ばかり重視してきたが、当然、そこに、稼ぎや家事分担といったパワーバランスが全く影響しないはずはない。稼ぎや家事分担といった日常生活の問題と、信頼のような精神的な(ピュアな)問題は深く関わっているに違いない。日常生活において精神的なことに思いを巡らす余裕がなければ精神的な問題のスタートラインに立つことはできないし、日常生活の場面において過度に発言が制限されていたら、精神的な信頼を築くことはできない。

少なくとも、日常生活上のパワーバランスがある程度釣り合っていることは、精神的な(ピュアな)対等性を築くための前提条件ではあるだろう。だから、変化していく日常生活のパワーバランスの中で、いかに精神的な信頼関係を維持していくかが重要となる。

10 さいごに

以上が、僕が理解した限りでの、先日の哲学カフェでの「恋愛において対等ってどういうこと?」についての話だ。

読み返してみると、結構、僕自身が思いつき、発言したものも多いような気もしてきた。(少なくとも8節はそう。)だけど、場に触発され、思いつくことができた、という面だけをとっても、結構いい場だったと思う。参加者の皆さま、ありがとうございました。

まあ、ちょっといい話になりすぎな感じはあるけれど、かなりいい線いってると思うので書き残してみました。

(僕と奥さんを信頼の例としたけど、どこかの誰かの話ではなく、自分ごととして理解したくて、そう書いただけで、僕と奥さんがそういう関係になれている訳ではありません・・・)