2000字ないです。

僕はアメリカに行ったことがないし、アメリカ美術に詳しいわけでもないし、アメリカ文学も読まないし、そもそも小説をほとんど読まない。

そういう僕がアメリカについて書くのは、僕が思いついたことが多少は哲学につながっていると思うからだ。

だから、僕が書いていることのうち、アメリカに関する知識についての個所は、生暖かく見守ってください。

僕の奥さんは、ジョン・アーヴィングの小説が好きだ。文章の中に漂う空気感がいいらしい。僕は読んだことがないけど、(置いてある本を少し眺めたことはある。)多分、そこにあるのはアンドリュー・ワイエスの絵「クリスティーナの世界」にも共通するような、乾いて、どこか寒々しいような空気感だろう。

これは、アメリカが反知性主義の国であることとも関わっているように思う。反知性主義だからこういう空気感になったというよりは、このアメリカの風土に合っていたのが反知性主義なのだろう。

反知性主義とは何か、についてはきちんとした定義があるのだろうけれど、僕なりの理解では、反知性主義とは「あんまり深く考えすぎない」ことだと思う。

「くどくど考えるのではなく、まず一歩、足を踏み出せ。」反知性主義は、いやアメリカは、そう言っているように思う。

きっとアメリカはハードボイルドなのだ。「強くなくては生きてはいけない、優しくなければ生きる資格がない。」そう呟いて、疲れ切った体をひきずってでも、とりあえず前に進むのがアメリカなのだと思う。

当然僕は非アメリカ的人間だ。強さって何だろう、優しさって何だろうなんて、くどくど考えて、立ち止まってしまう。僕にとっては哲学的に重要だと思っているけれど、それでも、この立ち止まりは、単なる行動の先送りであることも知っている。

立ち止まって考えること、つまり哲学をすることは、ぬるま湯のようなもので、怠惰につながる麻薬でもある。

そういう訳で、僕は、非アメリカ的な哲学的人間だけど、僕の奥さんは、正反対で、アメリカ的な非哲学的人間だ。(当然、このアメリカ的とは、この文章におけるアメリカ的で、僕の奥さんが、チアリーダーだったり、英語がペラペラだったりする訳ではありません。)

きっと僕の奥さんはハードボイルドなのだ。考えるべきことと、考えなくていいこととの区別を知っている。強さって何だろう、優しさって何だろう、なんて考えず、ただ、強く、優しく生きている。(生きようとしている。)

彼女の中に広がっているのは、きっと、混沌としたカオスのような哲学的問題がない、という意味で、ドライな心象風景だろう。アーヴィングの、ワイエスの、乾いて、どこか寒々しい世界である。

僕は、哲学と非哲学(つまり生活)の関係性について最近考えているけれど、僕にとって、アメリカは非哲学の象徴である。アメリカで、哲学におけるある種の深さを否定するようなプラグマティズムという考え方が生まれたことは、これと無関係ではないと思う。(なお、僕は、アメリカの哲学を否定している訳ではなく、逆にとても興味がある。)

前にも書いた気がするけど、僕はThe Roostersの「GIRL FRIEND」という曲が好きだ。僕は、この曲に出てくるような女性がいいな、と昔から思ってたのだけど、その中に「そんなにかしこくないけど いろんなことがわかってる」という歌詞がある。

以前から、僕は、こんな女性がいいな、と思っていて、だけど、そう言うと「かしこくない女性が好きなんだ」なんて誤解を招いていた。

ようやく、うまく説明できそうなので書いておくけれど、僕がこの歌詞が好きなのは、この歌詞に言葉通りではない意味を読み込んでいるからなのだろう。「そんなにかしこくないけど いろんなことがわかってる」とは「哲学的なことを考えすぎないけれど、考えるべきことと、考えなくていいことの区別がわかっている」ということなのである。

僕は、立ち止まり、考えてしまいがちな僕の手をひっぱって、一緒に前に進んでくれるような人がいたらいいな、と思っているのだろう。それが甘えなら、せめて、僕の前で、ハードボイルドを実演し、きちんとに一歩ずつ歩を進めている姿を見せてくれる人が身近にいたらいいな、と思っているのだろう。(The Roostersの)大江慎也ならばギターを弾きながら、僕ならばパソコンで文章を書きながら、それを見守る。

けれど、僕の奥さんは、そんな甘えたこと言わないで、やるべきことをやれ、と言うだろう。実際、この文章も、奥さんから言われたことをやらず、先送りしながら書いている。そろそろやらなきゃ。