連休の前半、フェスに行って楽しかったので文章を書いたのですが、意外と長くなってしまい、大事な連休のうち半日以上を費やしてしまいました・・・ということで8000字以上あります。

内と外という前提

僕は、哲学とは普遍性という特徴があると考えていますが、この文章では、あまり普遍性にこだわっていません。その意味で、この文章は哲学濃度は薄めです。

この文章が、なぜ普遍性がないかというと、「(自分の)内なる世界」と「外の世界」という対比を前提にして書いているからです。僕の哲学は、この前提が導かれるまでを普遍的に論じようとして苦労しているのですが、この文章は、そのあたりをざっくり省略し、大前提としています。

この文章は、それでも、まずは、この「内と外の対比」の重要性に共感し、とりあえずでも、話のスタート地点に共に立ってくれる、一部の人に向けて書いたものです。

きっと、このような前提に賛同してくれるのは、「内なる世界」にこだわりがある少数派の人たちだろうと思います。多くの人は、「内なる世界」を言葉として理解はするけれど、それほど、こだわりがない。いわば、「内なる世界」とは、「外の世界」に対する「おまけ」のようなものだと感じている。一方、少数の人は、そうではなく、「内なる世界」は「外の世界」と相並ぶものだと考えている。さらには、「内なる世界」こそがすべてで「外の世界」こそ「おまけ」なのかもしれないとすら感じている。僕は、そういう人に向けて、この文章を書いています。

(読み直して気づきましたが、この文章には、後ほど、「同時に二つのことはできない」というテーゼに賛同いただけるか、という、もうひとつの「読者の選別」も登場します。内と外という二分法と同時性のテーゼに賛同できそうな方だけに読み進めていただいたほうがいいと思います。)

ということで、この文章の読者ならば、「内」と「外」と書くだけで通じるだろうけれど、確かに、この世界は、「内」と「外」とに二分されたあり方をしています。そのような前提に立ったうえで、「どうしたら「内」と「外」という二分法に折り合いをつけていけるのか。」この問題について、僕が最近考えたことを書き残しておきます。

まず、「内だけしかない」または「外だけしかない」という極端な捉え方を排すならば、内と外には相互関係があるはずだろう。そして、相互関係があるということは、「内と外をつなぐ動的なベクトルがあるはずだ」ということになる。つまり「内から外」または「外から内」に向かうベクトルである。

なお、ここから、「このベクトルの正体は何か」という問題に進みたくなってしまうかもしれないが、それは普遍的な哲学の話になってしまうので、ここでは、この問題には立ち入らない。このベクトルを、とりあえず「力」と呼ぶことで満足しておこう。

(「内なる世界」と「外なる世界」を結びつけるベクトルとは、つまり、「内」と「外」を貫く「何か」であるはずだ。そうだとしたら、その「何か」こそが、「内」と「外」の対比以前の、この世界の基盤であることになる。といったことを考えるのは、「内」と「外」の対比以前の普遍を捉えようとする哲学の営みである。)

4つの力

まず、内と外の相互関係としての力は、「内から外への力」と「外から内への力」の二種類に分けて捉えることができるだろう。

僕はこれまで、単純にそう考えていたけれど、最近、さらに細分化できると気づいた。

「内から外への力」は「内からの力」と「外への力」というように細分化できるし、「外から内への力」は「外からの力」と「内への力」というように分けることができるのである。

なぜ、このように細分化するのかというと、内と外の両方を同時に注目することはできないからである。

例えば、熱いものに触ったとき、注意は自分の内面だけに向くし、圧倒されるような雄大な景色に出会ったとき、注意は外の世界だけに向く。そのとき、もう片方は注目されず背景に沈んでいる。

そのような特別な場面ではなくても、ビールを飲むとき、ビールの銘柄の確認と、ビールの喉ごしを味わうことは同時にはできない。いや同時にできると考えたくなるけれど、それは、二つのことを素速く(もしかしたら繰り返し)順序立てて行っているに過ぎない。

(これは時間論的には「同時に二つのことはできない」という同時性のテーゼだとも言える。例えば、中指と人差し指を同時に見ることはできるが、それは、二つの指を見るというひとつのことをしているだけ、と言い換えることができる。一方で、ビールのラベルを見ることとビールを味わうことは同時にはできない。仮に生理学的に可能だとしても、少なくとも、言語表現上は、同時にしたことにはならない。

これ以上は、この文章では説明できないので、同意できない方もいるかもしれません。)

(僕のテーゼに賛同いただけたとして)僕たちは、外の世界に目を向けるとき、自分の内面に目を向けることはできないし、その逆もまた然りである。よって、「内からの力」と「外への力」を「内から外への力」とまとめて捉えることはできないし、「外から内への力」についても同様である。

こうして、内と外の相互関係としての力は、次の四種類に分類できることになる。

「外への力」、「内への力」、「外からの力」、「内からの力」である。

「外への力」 【始点:空欄、到達点:外】

ここまでの説明だけでは抽象的すぎるので、具体例を出すことにしよう。

「外への力」とは、例えば、仕事をしたり、家事をしたり、といった生活の場面で働く力である。パワーポイントで会議資料を作る、料理を作る、といった外の世界におけるアウトプットに集中する場面で、この力は働く。

このとき、この作業の好き嫌いや、僕にとっての意義などは考えない。つまり自分自身の心の内面には注意が払われない。ただ、作業に没頭している。

ここで働いている力は、力には始点と到達点があると捉えるならば【始点:空欄、到達点:外】の力と言ってもいいだろう。作業を意図するのは自分自身の内面であるという意味で、本来の始点である「内」に注意は向かず、ただ、「外」に注意が向いているから、「外への力」となる。それが、より純粋なかたちで行われ、作業がうまくいっているとき、フロー状態(ゾーン)に入るなんて言われることもある。

「内への力」 【始点:空欄、到達点:内】

次に、「内への力」だが、これは、例えば、ヨガや瞑想のような場面で働く力である。外界のことなど無関心に、ただ、内なる自分の世界へと向いていく力と言ってもいい。

なお、ヨガや瞑想を例に出したが、この力は、そのような特別な場面に限定されず、様々な場面で働いているだろう。プールで久しぶりに泳ごうとして体がうまく動かないとき、ジョギングの最中に疲れで足が動かなくなってきたとき、「外」と「内」をなじませようとして、僕の注意は、僕の力が及ばない「外」から離れ、比較的対処できそうな「内」へと向かう。他の例としては、ギタリストが自らの心が奏でる内面の音だけを頼りに即興のギターソロを弾き、陶芸家が指に伝わる土の感覚だけを頼りに壺の形を整えるときにも、この「内なる力」は働いているように思う。(僕はできないのでイマイチ説得力がないけれど。)外の世界が静まり、自分の内なる身体感覚のみに注意が向かう瞬間である。

これは、【始点:空欄、到達点:内】の力と言ってもいいだろう。あくまで外的世界からの身体の感覚器官に対する刺激であるという点で、本来の始点は「外」であるが、そこには注意が向かず、ただ、「内」に注意が向いているから、純粋な「内への力」となる。

「外からの力」 【始点:外、到達点:空欄】

三つ目の「外からの力」こそが、先日、ロックフェスに行ったときに気づいたものである。僕は、ひたすら音楽を浴びて、僕はチャージされた。この音楽の力が、「外からの力」である。この力に気づき、僕は、この文章を書くことにしたと言ってもいい。

と言っても、これだけでは伝わらないと思うので、もう少し具体的に書くべきだろう。

ロックフェスに行ったことがない方向けに書くと、例えば、僕が行った「アラバキロックフェス」では、大きめのステージだけで5つのステージがあり、端から端まで歩くと30分くらいかかる。そこでは、いつもどこかで、あっちではロックンロール、こっちではパンク、と、さまざまなジャンルのさまざまなバンドが四六時中、音楽を奏でていた。

僕は、音楽漬けで、どこかハイになって、うろうろステージを渡り歩き、聴き入ったり、踊ったりしていた。多くの観客がそうだったと思うけれど、僕は、何も考えず、ただ、音楽を受け取るだけの存在だった。

「何も考えない」というのが重要で、そのとき、僕は、ただ音楽の力を吸い込むだけのブラックホールになった気分だった。いや、「吸い込む」という言葉すら適切ではなく、僕は、何らかの能動的な作業をする存在ですらなかった。僕はただ黒く塗られた受動的な存在、いや、存在とすら言えない虚空(空欄)であり、その、何者でもない虚空に向けて、バンドマンは、ただ音楽を奏でていた。僕という虚空(空欄)において、ただ音楽が鳴っていた。

これは、【始点:外、到達点:空欄】の力と言ってもいいだろう。バンドマンという外だけが力の発生源として存在し、僕たち聴衆はその背景に退いているからである。

なお、僕の私的な経験談だけでは伝わらないかもしれないので、似た例を探すと、例えば、芝居や映画を観たり、本を読んだり、といった場合にも、この「外からの力」は働いているだろう。作者や演者という外だけが存在し、その作品世界への没入というかたちで自分が失われている。だから「外からの力」である。

「内からの力」 【始点:内、到達点:空欄】

最後の「内からの力」とは、創作活動における力と言ってもいいかもしれない。

創作活動とは、つまりインスピレーションの力である。当然、技術は必要だけど、それはあくまで手段であって、文章であれ絵画であれ音楽であれ、それが創作活動であるためには、内から湧き上がる力がなくてはならない。それが、いわゆる「降りてくる」という奴だったとしても、この「内なる世界」において、その「降りてくる」何かと共鳴し、「内」を始原とした力に変換する必要がある。

そして、その力は、一旦生じてしまったら、それがどこに向かうものであろうと、とりあえずは表出し、発散するしかない。運良く、出版してもらえたり、大きなステージを準備してもらえたりしたら、それはありがたいことだけど、そんなものがなくても、書き、描き、奏でるしかない。そのような意味で、創作活動の力は、到達点であるはずの「外」に全く無関心である。

そのような意味で、これは【始点:内、到達点:空欄】の力と言ってもいいだろう。

区分の恣意性

このように、四つの力をできる限り具体的に描写してみたが、完全には納得がいかなかったかもしれない。だが、それは当然のことだろう。

なぜなら、「内から外への力」と「外から内への力」という二つの力であるはずのものを、無理に二つずつに分解し、四つに仕立てたにすぎないからだ。この無理やりの区分は、どうしても恣意的なものになってしまっている。

まず、創作活動としての「内からの力」と、生活の場における仕事や家事などの「外への力」との境界はあいまいなのは当然で、どちらも、能動的な活動としての「内から外への力」の一面を捉えているに過ぎない。だから、作家が文章を書くことは創作活動であると同時に仕事でもあるはずだし、家族のための日々の料理の中にも創作性が宿ることになる。

また、ロックフェスでの音楽の「外からの力」と、ヨガや瞑想での「内への力」も、受動的な活動としての「外から内への力」の一面の描写にすぎない。だから、どうしても、その境界はあいまいなものとなる。つまり、ロックフェスでの音楽や映画を味わうためには、バンドの演奏や映画の制作・上映だけでなく、聴衆としての僕自身の心の内面での受け止めも必要となる。

要するに、能動的な「内から外への力」と受動的な「外から内への力」について、その始点と到達点のいずれに着目するかによって、恣意的に、四種類の力に分類しているにすぎない、と捉えることもできる。

空欄

だが、それでもあえて、このような分類を行ったのは、始点と到達点のいずれかに着目することで生じる、もう一方の「空欄」性に着目したかったからである。

述べたとおり、「外」と「内」を同時に着目し、両方に集中することはできない。だから、着目されなかった一方は「空欄」となる。そこに集中と空欄という強・弱、あえて言えば、有・無のギャップが生まれる。

その重要性に気付いたのが、先日のロックフェスだった。あのときのロックフェス会場では、バンドマンたちが奏でる音楽がすべてだった。そして、僕達は、音楽を受け取るだけの大いなる「空欄」だったのだ。

しかし、考えてみれば、実は、似たようなことは、僕が、哲学の文章を書くときにも起きている。そのとき、僕自身の内面から湧き出る力がすべてで、外の世界は、ただ受動的に書かれるだけの「空欄」だ。

また、瞑想においても同様だ。瞑想では、僕自身の内面の感覚に向かうものだけが全てだ。あえて怪しい言い方をするならば、自分自身の内面に向かう「気」だけがすべてと言ってもいい。外の世界は、ただ気を放出する輝く太陽のような存在であり、大いなる「空欄」として背景化している。

仕事におけるフロー状態も同様だ。フロー状態においては、資料作成のようなアウトプットへと向かう力だけが全てとなっていて、作業をする自分自身は背景化し、いわば「空欄」となっている。

フロー状態の例が最もわかりやすいかもしれないが、執筆、瞑想などなど、様々な場面で、背景化する大いなる「空欄」と「全面化」という対比が生じている。

つまり、次のように四つの場面それぞれで、(内または外の)全面化と、(もう一方の)空欄化(背景化)が生じているのである。

「外への力」 【始点:空欄、到達点:外】:フロー状態

「内への力」 【始点:空欄、到達点:内】:瞑想

「外からの力」 【始点:外、到達点:空欄】:ロックフェス

「内からの力」 【始点:内、到達点:空欄】:執筆・創作活動

僕は、そのうちの三つの場面については、以前から、なんとなく気づいていたけれど、ロックフェス会場で四つめの場面に気づき、最後のピースが嵌まったように感じたのだ。

力の均衡

まとめると、僕は、これまで、創作活動での「内からの力」、瞑想での「内への力」、仕事などでのフロー状態としての「外への力」については、その純化した姿を捉えることはできていた。そして、ついに、ロックフェス会場で、「外からの力」の純化した姿を音楽の力として捉えることができた。

このことは僕にとって大きな成果だった。

なぜなら、これで僕は、欠けていた「外からの力」を捉え、「外」と「内」の世界を巡る、力の循環の均衡を整えることができたと言えるからである。

これまでの僕は、哲学の文章を書き「内からの力」を放出し、日々の仕事をして「外への力」を放出することは得意だった。だけど、アウトプットだけでは燃料切れになってしまうから、瞑想をして「内への力」を取り込むようなこともしてきた。しかし、それだけでは足りなくて疲弊していた。

僕に足りなかったのは、「外からの力」としての音楽の力であり、僕がするべきは、実はすでに触れていた音楽の力に改めて意識を向けることだったのだ。

ようやく僕は、能動的な「内から外への力」と受動的な「外から内への力」のバランスを整えられそうな気がする。

外の内からの力

ということで、一応、話はうまくまとまったけれど、ロックフェスで僕が気づいたことは、更にもう二つある。

まずひとつ目の気づきは、音楽を奏でているのは、バンドマンという「人間」である、ということである。

「内」と「外」という区分に基づくならば、音楽の力という「外からの力」を生んでいるのは、単なる「外」ではない。「人間」という、それぞれの「内」を宿す、いわば「外の内」とでも呼ぶべき存在である。

まず「外からの力」とは、人間が関わらなくても生じるだろうとは言える。雄大な景色に圧倒され、自分自身など無になってしまったように感じることもあるからである。

だが、その「外」が人間的なものであるとき、そこには特別な力が宿るように思う。僕と同じような「人間」が演奏してくれたから、僕はこの音楽を聴くことができる。そう感じるとき、聴こえる音は、自然に生じる風の音などとは違う特別さを帯びる。これはもう、音ではなくメッセージである。

これが「外からの内の力」である。

僕は、「外への力」、「内への力」、「外からの力」、「内からの力」という四つの力があるとした。このうち、「外からの力」にだけには、さらに「外の内からの力」という特別な力があるのではないか。

外の内への力

と、書いているうちに思いついたけれど、「外への力」にも「外の内への力」というべき特別な力があるのかもしれない。

「外への力」とは述べたとおり、仕事や家事でのフロー状態が典型例だが、その力が「人間」という「外の内」の存在に向かっている場合には、特別な力が宿るのではないか。

僕が思い浮かべた具体的な場面とは、「対話」の場面である。「対話」とは「人間」に向けてしか行うことができないという点で、まさに「外の内への力」である。僕は、哲学対話と呼ばれる活動をしているのだが、哲学対話の実践者の間は、対話の場において、しばしば「対話」のフロー状態が訪れ、その際に、ある独特の感じが生じる、と言われている。この独特な感じとは、「外の内への力」の特別さのことなのではないだろうか。そんなことを、今、思いついたのだ。(これも、創作活動としての「内からの力」が発揮された一例である。)

なお、パワーポイントでの資料の作成や昼ご飯の調理は、間接的には、会議の出席者や家族といった「人間」に向けた作業であると言えるだろう。だが、そのような作業でフロー状態になるとは、そのような間接性は捨象され、ただ眼の前の作業に向き合うことだから、「人間」という要素は失われてしまう。だから、資料作成や料理は「外の内への力」の一例にはなりにくいだろう。それよりは、「対話」のような直接的に「人間」に向かう行為のほうが、「外の内への力」に適している。

溶け合う

もうひとつ、ロックフェスで気付いたのは、ここまでの話の大前提となっていた「内」と「外」すらも溶け合って消失してしまう瞬間がある、ということである。

これは既出の話だと思われるかもしれない。確かに、これは、音楽という「外」が全面化し、自分自身という「内」が完全に背景に退くときの描写のようにも見える。同様に、フロー状態でも、資料作成という「外」が全面化するし、執筆活動でも創造性という「内」が全面化し、瞑想をしたなら、自分の感覚という「内」が全面化する。そして、その他は完全に背景に退く。そのような完全な全面化の場面では、内と外という既知の区分が有効に働かなくなるという意味で、「内」と「外」が溶け合うという表現すらしたくなる。

だが、僕がロックフェスで感じたことは、そのような全面化の一例には留まらないものがあるように思う。

なぜなら、音楽には、音楽自体が、まさに力の表象である、という特別さがあるからである。音楽には、それ自体に音圧という即物的な力があるし、時間経過に伴い変化する流れという動性もある。力を表すのに、音楽は極めて適しているのである。フロー状態や瞑想や執筆といった他の例のなかには、この両方を兼ね備えているものはない。(他にも、例えば「気功」はパワーと力動性を兼ね備えている。)

ロックフェスのあの会場で接したのが音楽だったからこそ、僕は、音楽の力によって、「内」と「外」の垣根をなくし、「内」と「外」が溶け合う瞬間を感じることができたのではないか。

この文章では、これまで、「内」と「外」という区分を前提とし、その両者を経巡る力について考えてきた。

だが、この溶け合いを考慮するならば、この経巡る力とは、例えば、音楽の力として表象されるような、より大きな力の一部なのかもしれない、と僕は感じた。

哲学の話をしないという当初の取り決めをあえて逸脱するならば、その「大いなる力」とは「生の力」ではないのか。