※2000字くらいです。最近、お疲れ気味だったのでリハビリで書きました。

これは、「書くことで、考えていたことが失われる」という話である。

なぜ、こんな話を書くのかというと、知人に借りた、沢木耕太郎の『天路の旅人』という本を読んでいたら、そんなことが書かれていたからだ。

沢木耕太郎は、自身の旅行記である『深夜特急』と、西川一三の旅行記(旅と言うには壮絶すぎるけれど)である『秘境西域八年の潜行』に対して、次のように述べている。

「『深夜特急』を書き上げるまでは生々しく私の内部に存在していたあのときの旅が、本としてまとめられることによって希薄になってしまったような気がしてならなかった。西川も、『秘境西域八年の潜行』を書き上げてしまったことで、あの旅が体内から抜け出て、ほんの中にしか存在しなくなってしまっていたのかもしれない。」(文庫版『天路の旅人』(上)p.34)

これは、書くことで、書く前に抱いていたものが失われる感覚と言ってもいいだろう。この感覚は、僕も共有している。

こうしてブログに文章を書いていると、書く前には、僕の内部で、豊穣な何かが渦巻いていたはずだったのに、その何かが絞られ、削ぎ落とされ、一続きの文字列として出力されていく、という感覚を覚える。

それは、明瞭な形を与えられるという点では、出産にも似た出来事であり、いわば祝祭である。一方でそれは、削ぎ落とされた何かの中絶であり、葬送でもある。

書くことで、僕の思考は、僕の所有物ではなくなり、一つの作品として誕生する。それも、僕の中に渦巻いていた思考とはどこか異なるよそよそしい他者の、喪失を伴った誕生である。

沢木耕太郎にとっての『深夜特急』や、西川一三にとっての『秘境西域八年の潜行』とは、そのようなものだったのではないだろうか。

それは、書くという行為の限界であり、物書きにとっては、寂しく、厳しい現実である。だが、僕や沢木や西川を含めた多くの物書きは、そのことを、ただ受け入れるだけではなく、無意識にでも利用しているのではないか。

きっと、書くという行為は排泄なのだろう。

言葉を排泄することによってしか、物書きは身軽になることができない。

沢木耕太郎も、西川一三も、旅を文章にして自らの旅に決着をつけることで、ようやく、その続きの人生を生きることができたのではないか。当然、彼らの旅は、書くことですべてを排泄できるほど生易しいものではなかっただろう。それでも、書くことで、多少なりとも身軽になることができたのではないか。少なくとも、書くことで身軽になれるかもしれないと、心の奥底で願っていたのではないだろうか。

きっと、それは僕自身もそうである。

僕は、僕自身の思考が頭の中に渦巻いている状況に、耐え続けることはできない。だから、無理やりにでも思考を整え、文字列にして排泄したくなる。

例えば、10代の頃に僕に訪れた哲学的驚き(タウマゼイン)は、そう簡単に言葉にできるものではない。だから、僕は、この驚きを抱え、どうすることもできず、思考の内圧に苦しんでいた。

(一応、説明しておくと、僕の驚きとは、この世界が存在することへの驚きであり、かつ、この世界が存在することへの懐疑、といったものなのだが、当然、そのように簡単に描写してしまえば、あの驚きは取り逃がされてしまう。)

30代後半になり、ようやく、それを多少なりとも文章にして排泄するというやり方に気づき、こうしてブログに書くようになった。だが、すべてを出し切ることはできず、こうして50代になっても書き続けている。

それでも、書くことは、僕の中に渦巻く思考の内圧を、多少なりとも下げるのに役立っているように感じる。思考の内圧が上昇し、僕が破裂するような事態を避けることができているのは、書くことのおかげだと思う。

沢木耕太郎の旅も、西川一三の旅も、それがどれほど過酷で、どれほどドラマチックなものだったとしても、終りがある期間限定の旅であった。だから、書くことにより、すべてを排泄し、決着をつけることも可能だった。

だが、人生という旅には終わりがない。同様に、この僕の人生の大半を占めてきたとすら言える、この渦巻く思考にも、きっと終わりはないのだろう。それならば、とりあえず溜め込んだものを排泄しつつ、また溜め込む、という場当たり的な対応で、なんとか生き延びていくしかない。

この文章のタイトルは「旅と思考への決着のつけ方」だった。

けれど、ここで導かれた答えは、時限的な旅には決着をつけられても、この僕の人生を貫く思考に決着をつけることはできない、というものだったことになる。

だが、それでも僕は、決着を夢見て、生き、考え、そして書き続けていくのだろうし、きっと、そうしていくしかないのだろう。これは、諦めのように見えるかもしれないが、この態度自体がひとつの決着と言えなくもない。

しかし、これで、僕の中に渦巻いていたあの思考に決着がつけられたと本当に言えるのだろうか・・・

こんなふうにして、僕は、これからも、生き、考え、そして書き続けていくのだろうし、きっと、そうしていくしかないのだろう。