これは2015年か2016年。ちょっと長いですね。
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1 はじめに
以前、永井均先生の本で触れられていたので佐藤徹郎先生の「科学から哲学へ」という本を買った。
永井先生独特の、哲学は極めて私的な営みだという心構えを説明する文脈で紹介されていたので、そのように読み、そのように感銘を受けた。
その後、本棚に置いていた本になんとなく目が止まり、読み返し、この本の新たな魅力に気づいた。
この本が述べていることは、僕が今興味を持っている「哲学対話」との関係が深い。この本のテーマのひとつは「知識を伝達するとはどういうことなのか。」だ。それならば、相互伝達の場とも言える「対話」との関係が深いのは当然だろう。
この本では、知識を伝達するのはなかなか容易ではない、という方向に進んでいく。しかし、私の実感として、現に知識は伝達されているという実感がある。そこには、この本が語っていない何かがあるのではないか。
この文章では、この問題を中心にして、この本「科学から哲学へ」の第1章「科学的<知>の概念を超えて」と第2章「進歩の観念と宗教」について論じていきたい。
2 この本のあらすじ
この本は、現代科学のめざましい進歩について考察するところから始まる。進歩に必須の要件として「知識が同一のまま保存され、後から来る者に伝達されること」(p.10)を挙げ、科学の分野とその他の分野を対比し、前者には知識の「保存と蓄積のメカニズム」(p.14)があるから、進歩が成立しているとする。一方、後者については、「知識の核心的な部分が個人の経験と密接に結びついたものであり、その内容を所有者から切り離して人から人へと受け渡すことが困難」(p.14−15)だから、継続的進歩は困難であるとする。
そして、進歩についての分析を通じて、知識には二通りあることが示される。ひとつは科学の分野における、情報とでもいうべき、容易に共有でき、一人の専門家が獲得した知識が、全人類の知識としてみなされるような知識。そしてもうひとつが、その他の分野における、古の賢人の知恵のような、簡単に他人に譲り渡すことができない知識だ。これは、科学的知識とその他の知識の間には、知識の内容の違いがあるだけでなく、そもそもの知識観に違いがあることを示している。
この本は、この相違の発生の起源について、近代科学の成立以前における知識の概念と現代の科学的知識の概念を比較し、「科学的知識はそれぞれ細分化された一定の「内容」をもつのに対して、伝統的な知識の概念は、知恵や徳と同様に、本来は人間の精神の状態あるいは能力をあらわす概念であった」(p.20)とする。そして、科学的な進歩が当たり前になっている現代においては、前者のような知識観が当然となっているが、実は、古代から啓蒙主義までの長きにわたり、東西問わず、後者のような知識観が一般的であったことを指摘している。現代の科学的知識という例外を除き、知識とは「個人の向上と完成に至る道としての知識と学問の概念」(p.22)であったのだ。
そして、この歴史的な事実を踏まえ、科学的な進歩観の前提となっている、「いったん見出された知識は自動的に社会の所有物となって保存され、いつでも他人に伝達することができる」(p.16)という、保存と蓄積の知識観は、現代特有のものであり、フィクションであるとする。
なぜなら、科学的知識が専門化し、細分化している現代において、科学的知識が全人類共有の知識となるのは、定義としての取り決め、つまりフィクションにすぎないからだ。科学的知識の正統性は、科学的知識を承認する役割を担う専門家集団を維持する社会的システムや学会での発表を知識とみなす制度といった、偶然的な現代社会の特性により、実態として支えられているにすぎないのだ。
このことについて述べている、この本の記述を確認しておこう。
「新たに発見された知識は自動的に後の時代に受け継がれるように見えるのだが、その理由は、科学者が知識の認定について厳格な規約を定めているからである。それはすなわち第一に、他人に伝達できることがらだけを知識と認めることであり、第二に、専門家から成る学会や学術的出版物等で発表され、受け入れられたことだけを確立した知識と認めることであり、第三に、こうした学会等で発表されたことは、すべて既知の知識とみなすことである。つまり科学的知識の継承と蓄積のメカニズムが成り立つのは、事実の問題というよりも、むしろ科学的知識の概念がこのメカニズムに合わせて定義されているという理由による。もちろんこれらの規約は建前ではなく、学会や専門家集団といった社会的システムの整備と、個々の科学者の努力によって支えられている」(p.16)
そして、このようなフィクションとしての現代の科学的知識観に対比するものとして、第1章においてはウィトゲンシュタインの哲学観が提示され、そして第2章においては宗教が示される。これらは、科学的知識観とは別の知識のあり方を提示している。これは、科学的知識観から哲学的知識観への転換とも言える。
このようにして、タイトルにある「科学から哲学へ」という流れが成立している。これが、この本についての私の理解だ。
第1章と第2章だけなら100ページ程しかなく、文体も読みやすいので是非読んでいただきたいが、これから話を進めるうえで必要と思われる箇所を要約してみた。
3 内在的知識・外在的知識
3−1 フィクションとしての科学的知識
私は、この本が述べている方向性は正しいと思う。指摘のように、人から切り離し保存と蓄積が可能という情報としての科学的知識観はフィクションなのだろう。
科学的知識がその知識を担う人格から独立して実在するならば、人類が死に絶え、文明も滅び、人類や、その後継者であるコンピュータか何かによる知的な営みが全く失われたとしても、図書館の科学書さえ残っていれば、科学は生き残ることになる。
そこまで極端でなくても、一時期、局所的に話題となった論文が、いつのまにか忘れられ、たまたま誰の目にも止まらなくなくなったとしても、誰かの本棚に論文が載った雑誌が眠っていれば、その科学的理論についての知識は失われていないことになる。
そんな訳はない。科学的知識においても、実際に、人間やロボットのような知的生命体により、その知識が知識として扱われることは必須であり、人格と知識は切り離せない。当たり前だが、忘れがちになってしまうこの事実を、この本は指摘している。
なお、この問題は、ある知識、例えばピタゴラスの定理は、ピタゴラスが発見するまで、この世界に存在しなかったのか、という問題とは異なる。当然、ピタゴラスが発見してもしなくても、ピタゴラスの定理が成立するかたちで世界は存在しただろう。恐竜が草原を歩く時代に、たまたま真っ直ぐな枝が3本、直角三角形のような形で地面に落ちたなら、その三角形の辺は、ピタゴラスの定理が成立するような関係性があるはずだ。
しかし、ここでの知識とは、この本の述べ方によれば進歩、そして私の関心で言えば対話に関わる知識だ。人から人への伝達という点を踏まえるなら、恐竜の時代に現に成立していただろうピタゴラスの法則は知識ではない。
3−2 知恵と常識
ここまで私は、科学的な知識と哲学や宗教についての賢人の知識という対比で、この本を紹介してきたが、実は、この本では、もう少し細かく知識を区分している。
この本では知識を三種類に分けて論じている。
「第一の種類は、たとえば個人の過去の体験の記憶のように、それを保存したり後の世代に伝承したりする習慣あるいは方法がない知識」(p.17)、「第二の種類に属するのは、言語、風俗、習慣、あるいは宗教や芸術のように、社会的文化的伝統に関する知識」(p.17)、「第三の種類に属するのが、現代の科学技術のように、たえず進歩することを基本的な使命とするような知識」(p.18)というように、三種類の知識があるとされる。
第一の種類に属する知識としては記憶が例として挙げられている。記憶と同じ次元の知識にあたるような候補は、私はクオリアくらいしか思いつかない。記憶にしてもクオリアにしても、哲学のかなり深いところに関わる概念であり、そもそも知識と読んでよいのか疑問があり、少なくとも他の知識と比較対象にしてよいか怪しい。この文章では、記憶やクオリアの問題に踏み込まず、別の方向で議論を進めたいので、この種の知識については考慮しないことにする。
第三の種類に属する知識は、まさに科学的知識だけにあてはまるものであり、科学的知識に等しいと考えてよいだろう。まさに先ほどのフィクションとしての科学的知識の話だ。その他にも、この本では、言語に関する知識のうち「文法の研究や音声学や辞書の編纂の技術」(p.14)といったものについては科学的知識と同様のものとしているが、これらは、言語について科学的に分析することであり、科学的知識に含まれると言ってよいだろう。
このように、第一と第三の種類について簡単に整理したうえで、第二の種類の知識に着目したい。ここでは、「言語、風俗、習慣、宗教、芸術」が列挙されている。この本では他に哲学も挙げられているので、このリストに哲学も加えると、第二の種類に含まれる知識は「言語、風俗、習慣、宗教、芸術、哲学」となる。
このリストを眺めると、ごく常識的に言って、哲学、宗教、芸術というような才能がある一部の人だけが理解できる知識と、言語、風俗、習慣というような、凡人であっても誰もが理解できるような知識とに区分できるように思われる。前者を賢人の知恵、後者を日常の常識と言い換えてもいいだろう。
しかし、この本では、賢人の知恵と日常の常識を特に区別せずに論じている。言語を話し、風俗・習慣を身につけることと、キリストやウィトゲンシュタインのような人が特別な知恵を持つということの差異が考慮されていないのだ。この点について考察してみたい。
3−3 内在的知識・外在的知識
ここで、回り道とはなるが、まずは、賢人の知恵と日常の常識の共通点に着目してみたい。
この本の区分のうち、記憶やクオリアのような第一の種類の知識を考慮外とし、賢人の知恵と日常の常識が含まれる第二の種類の知識と、科学的知識と等しいものとされた第三の種類の知識に着目してみよう。すると、第三の種類にあたる科学的知識は、社会的システムに支えられ、個々の人間から切り離された情報だが、第二の種類にあたる賢人の知恵と日常の常識は、いずれも、個々の人間の営みと結びついたものだ。その点で、賢人の知恵と日常の常識は共通点がある。
この本が述べていた賢人の知恵と日常の常識の共通点を確認し、科学的知識との対比を際立たせることが理解の第一歩となる。そして、この本が行っていた対比を、私なりに少しだけ拡張することで、より深い含意を引き出すことができると考える。
対比を拡張するにあたり、私は、この科学的知識について見出していた個々の人間から切り離されているという特徴を有する知識を外在的知識と呼び、日常の常識や賢人の知恵のような知識に見出していた個々の人間の営みに結びついているという特徴を有する知識を内在的知識と呼ぶことを提案したい。科学的知識とその他の知識という対比を、外在的知識と内在的知識の対比というかたちで捉え直したいのだ。
なお、この、外在的知識、内在的知識という用語は、ある人が知識を持っている状況について、その人から離れた客観的な視点から捕らえた場合、その知識は外在的に把握されると表現でき、また、その人自身の視点から捉えた場合、その知識は内在的に把握される、と表現できるだろう、というところから名づけている。
3-4 日常の常識、賢人の知恵、科学的知識
この、外在的知識と内在的知識という区分に基づき、日常の常識について考えてみる。
日常の常識には、例えば「注射は痛い」、「9×9=81」というような知識がある。このような知識を獲得する場面を考えてみよう。
注射が痛いことを知るためには現に注射を打たれなければならないし、九九を知識として手に入れるためには、九九を何度も暗唱しなければならない。このような知識は、外部から単に与えられるものではなく、私自身が現に体験したり、現に記憶したりして獲得されるものだ。
知識を獲得する場面に着目するならば、知識は、私自身の中において現に起こる出来事として捉えられ、自分の内面から捉えられるという意味で、内在的知識と呼ぶことに違和感はないのではないか。
一方、注射は痛いことや、9×9=81ということは、一旦、知識として成立してしまえば、当然の事実として扱われる。自分自身の体験や記憶とは切り離され、一つの独立した事実として扱われる。私が注射されなくても注射は痛いし、私が検算しなくても9×9=81だ。私や私以外の誰かにどう理解されているかなんて関係なく、知識として成立している。こう考えるなら、一旦成立した知識について外在的知識と呼ぶことにも違和感はないだろう。
この、獲得の場面での知識を内在的知識とし、成立後の場面での知識を外在的知識とするという対比は、賢人の知恵であっても同様に当てはまる。
賢人が、努力や才能により、現に悟りを開いたり、現に霊感を得たりして、宗教や哲学についての知識を獲得することは、努力や才能の違いを除けば、私のような凡人が、九九を現に習得したということとよく似ている。いずれも内在的な知識を獲得するプロセスだ。
また、賢人の知恵であっても、一旦知識として成立してしまえば、一つの独立した外在的な事実として扱われる。聖書は、キリストの知恵そのものであり、宗教的知識そのものとみなされる。
そして、科学的知識についても、同様に、内在的知識としての側面と、外在的知識としての側面がある。
ピタゴラスがピタゴラスの定理を思いついた時、その頭の中には内在的なひらめきがあり、知識を獲得したという実感があったに違いない。これは内在的な知識だ。そして、その知識が広まり、今や日本の中学生でもピタゴラスの定理を習い、たいていの人が名前くらいは知っているほど常識的なものとなっている。これは外在的な知識だ。科学者が現に獲得した知識は内在的知識であり、その知識が独立した事実として扱われれば外在的知識となる。
このように考えると、科学的知識とその他の知識というような単純な区分ができるのではなく、いずれの知識も、内在的知識としての側面と外在的知識としての側面があることがわかる。
3-5 内在的知識と外在的知識のギャップ
この本では、現代科学において専門化が進み、一部の専門家だけが所有する知識と、全人類が共有する知識との間のギャップが拡大し、科学的知識がフィクションとなったと論じている。
このギャップは、一部の専門家の内在的知識と、一般的な事実としての外在的知識のギャップのことだ。内在的知識と外在的知識のギャップは、科学の分野に限らず、賢人の宗教・哲学的知恵であっても、凡人の常識であっても生じている。
「絶対矛盾的自己同一」という概念は、西田幾多郎本人や西田幾多郎の研究者といった一部の哲学者だけが所有する知識であり、賢人が内在的に把握している知識だと言ってよい。私のような一般人は、その言葉は知っているが、内在的に把握し、理解してはいない。それでも、現に、この文章で「絶対矛盾的自己同一」という言葉を使ったように、西田幾多郎の内在的な知識から切り離されたところで言葉は流通している。ここには、「超ひも理論」のような、専門家だけが理解しているが、一般人もなんとなく理解せずに使うことがある科学的知識と同じギャップがある。
注射は痛いというような日常の常識でも同じことが起きている。誰かが実際に注射を打たれ、痛いという内在的知識を獲得することと、注射を打たれていない人が、わかったように使う、注射を打つと痛いという外在的知識との間にはギャップがある。私はインフルエンザの注射はほぼ毎年打っているが、筋肉注射の経験はない。しかし、インフルエンザの注射の経験から、ある程度、筋肉注射が痛いということは理解しているような気がしている。が、実際に筋肉注射を打たれたら、こんなふうに痛いとは思わなかった、となるかもしれない。これは内在的知識と外在的知識のギャップだ。
3−6 フィクション
この内在的知識と外在的知識のギャップはとても大きい。
どれほど大きいかと言えば、この本では、科学的知識のようなフィクションとしての知識とその他の実在する知識というかたちで対比されたほどの違いだ。私によって、その対比は、賢人の知恵、日常の常識、科学的知識を横断するものとして拡張され、科学的知識には科学者の知恵としての実在が引き入れられ、賢人の知恵、日常の常識にもフィクションが入り込んでしまった訳だが。
だから、今や、このギャップはいわゆる他我問題にもつながる。私の内在的な痛みについての知識は実在するが、他人の外在的な痛みについての知識はフィクションではないか。そういう問題にもつながる。
つまりは、賢人の知恵が凡人から隠されていることと、科学的知識が現代においては一部の専門家だけのものになっていることと、日常の知識に他我問題が隠されていることは、ある一面では、同じ問題を指しているのだ。
このように、この本が科学的知識とその他の知識というかたちで行っていた対比を、内在的知識と外在的知識との対比に置き換えることで、対比は様々なかたちで発展していく。
3−7 程度の違い
ここまでで、この本が問題としていた科学的知識とその他の知識の違い、そしてこの文章で当初想定していた日常の常識と賢人の知恵の違いという問題は組み替えられ、日常の常識、賢人の知恵、科学的知識には、通底した内在的知識と外在的知識の違いがあることが明らかとなった。この違いに比べれば、当初の日常の常識と賢人の知恵の違いというのは単なる程度の違いでしかないのだ。
念のため具体例により確認しておこう。
日常の常識の代表例として言語的知識を挙げ、そして、賢人の知恵の代表例として宗教的知識に着目し、内在的知識を獲得する場面を見てみよう。
内在的知識としての言語的知識の獲得、つまり言語の習得の場面で言えば、たいていの人は母語を当たり前に話すことができる。よって1カ国語についての言語的知識は常識と言ってもいいだろう。そして、現代の日本人であれば、二ヶ国語つまり、基礎的な英語の知識も常識と言えるだろう。「Pen」という言葉を知らない人はあまりいない。しかし、三カ国語、四カ国語と増やしていくと、徐々に常識的に知っているとは言えなくなってくる。たくさんの言語を使える人を賢人と言うのかどうかは知らないけれど、その人が有する知識は、ある種の特別な知識になっていく。例えば10カ国語を自由に使いこなせる人がいたら、その人は神話に出てくる賢人のように思えるのではないか。この一カ国語話者から10カ国語話者まで徐々に増やしていくという操作は、日常の常識から賢人の知恵に徐々に近づけるプロセスと言ってもよいだろう。
宗教的知識についても同様のことを考えることができる。親がキリスト教徒だから、なんとなくキリスト教を信じてるけど、ほとんど聖書も読んだことがない、という人が、聖書を読み、聖書について理解を深め、深くキリストの神を信じるようになっていくというプロセスは、キリスト教的常識しかない凡人が、徐々にキリスト教的知恵を獲得し、賢人になっていくプロセスだと言ってよいだろう。
いずれの場合も、賢人と凡人を区別する明確な境界はない。あるのは程度の違いだけだ。
比較的獲得が容易な知識を常識と呼び、常識しか獲得できていない人を凡人と呼ぶのだろう。そして、比較的獲得が難しい知識を知恵と呼び、知恵を獲得できた人を賢人と呼ぶのだろう。
そこにあるのは、内在的知識としての知識の獲得の難易度の違いでしかない。
4 触媒
4-1 内在的知識と外在的知識のギャップの埋め方
それでは、内在的知識と外在的知識のギャップを埋めることはできないのだろうか。これは明らかに困難な問題だ。なにしろ、このギャップを埋めるとは、実在する内在的知識と、フィクションである外在的知識を結びつけることを意味し、他我問題にまでつながる問題を解決しようとすることなのだから。
しかし一方で、現に私たちは、この内在的知識と外在的知識のギャップがない世界を生きている。注射は痛いことや、9×9=81が外在的にはフィクションだなんて考えずに生きている。
どのように私たちは内在的知識と外在的知識のギャップを埋めているのだろうか。
九九であれ「超ひも理論」であれ、内在的知識は知識の獲得時に見出され、外在的知識は知識の獲得後に見出されることを踏まえると、ギャップを埋めるということは、内在的知識と外在的知識が対等の立場でそれぞれ中間地点に歩み寄ることだったり、外在的知識から内在的知識に「なる」ことではないのは確かだ。
知識の獲得とその後という関係性を踏まえるなら、ギャップを埋めるとは、まず、ある人が獲得した内在的知識があり、その後、全人類が共有する外在的知識に「なる」ことのはずだ。
4−2 程度としての外在的知識(内在的知識も)
しかし、内在的知識が外在的知識に「なる」ためには、少なくとも二つの問題がある。一つ目は、この本でも指摘があった、外在的知識はフィクションであるという問題だ。実在する内在的知識がフィクションである外在的知識に「なる」とはどういうことなのか。「なる」の結果としてのフィクションである外在的知識を、実在しないのに、どう指し示すことができるのか。
このフィクションの問題については、ここで論を進める限りにおいては、外在的知識、内在的知識という区分は程度の話だと解釈することで済ませたい。
これは、部屋が明るいというのは程度の問題だということと似ている。部屋が究極的に、完全に明るい状況というのはありえない。電球100個で照らしても、電球を101個で照らしたほうが明るいし、部屋の中で核融合を起こし、人口の太陽を設置しても、もう一個、人工太陽を設置したほうが、より明るい。どんな状況でも、より明るい状況がありうる。完全に部屋が明るいという状況はなく、部屋が明るいという描写は、程度としての明るさについての描写として可能となる。
これと同じことが外在的知識についても言える。究極的な外在的知識は確かにフィクションであり、指し示すことはできないが、より外在的な知識という程度の問題として捉えることは可能だ。
私が獲得したある内在的知識を、身内で話しただけでは、まだ外在的知識の度合いが低いが、ブログに載せたり学術誌に掲載したり専門書として発行したり教科書に載るようになったりテレビで取り上げられたりすることで、外在的知識としての度合いが高まっていく。
外在的知識とは、複数の人が同じ内在的知識を同じように持っている状況が、どれだけ広まっているかどうかを示す度合いのことなのだと考えてみよう。そのように考えるなら、突き詰めればフィクションでしかない外在的知識という概念も、使いようがある。
(なお、完全に暗いということがありえないことの比喩で、内在的知識についても程度の問題であることを示せる。完全に暗い状況では、視覚が効かず、視覚により暗さを判断することができないから完全に暗いことは描写できない。同じように究極的な内在的知識については語りえない。これは、私的言語の問題につながるが、ここでは、この方向で話を進めない。)
4−3 知識の伝達の成否
二つ目の問題は、「どのように内在的知識が外在的知識に「なる」のか。」という問題なのだが、第一の問題の解決方法を踏まえるなら、この問題は、「ある人が内在的に獲得した知識について、どのようにして、別の人が内在的知識として獲得するのか。」という問題として読み替えることができる。つまりは、知識の伝達、継承の問題だ。
この本における答えを見てみよう。
まず、知識の継承は「基本的には模倣と反復によるものである」(p.17)としている。ただ、この描写は不正確であり、別の箇所で、より個別具体的に、まず、日常の常識とも言える言語について、言語的な知識を受け継ぐためには「先人と同じ程度の時間や努力や才能を必要とする」(p.13)としている。
そして、宗教に関しては、アウグスティヌスと荻生徂徠を例に、アウグスティヌスについては「知識の獲得は本来人と人の間ではなく、神と人との間で成立する」(p.89)とし、荻生徂徠については、「教育を通じて伝えられるべき教えの核心は、具体的体験を通じて学ばれる」(p.91)としている。
また、哲学については、ウィトゲンシュタインを挙げ、「自分の著作が理解されるためには、自分の考えた思想を読者が受け入れるのではなく、読者がみずから同じ問題について考えることが必要であるという見解を彼は繰り返し強調している。」(p.64)としている。ウィトゲンシュタインによれば、読者が知識を獲得できるかどうかは、偶然にも読者が同じ問題を考えているかどうかにかかっているのだ。
知識の伝達の成否を分けるポイントは、言語ならば受け手の努力、宗教についてはアウグスティヌスによれば神、荻生徂徠によれば発信者の工夫、哲学ならばウィトゲンシュタインによれば偶然、とされている。
4−4 受信者の努力と発信者の工夫 〜他者〜
この点について、この本ではあまり整理がされていないように思えるので、整理してみたい。
この本が挙げる知識の伝達の成否を分けるポイントについて眺めてみよう。「受信者の努力、神、発信者の工夫、偶然」の四つが挙げられている。ここで、二つのグループに分けられることに気付くだろう。受信者の努力と発信者の工夫というグループと、神と偶然のグループだ。
まず、前者の受信者の努力と発信者の工夫に着目してみよう。
先ほど確認したとおり、知識の伝達の主役は、あくまで知識の受け手だ。知識の伝達の成否は、知識の発信者はさておき、あくまで受信者側が現に、知識を獲得できるかどうかにかかっている。すると、荻生徂徠の「発信者の努力」は分が悪い。発信者が関われるのは、あくまで受信者の能力を引き出すという限りで間接的に関わることしかできず、決定的なのは受信者の能力なのだ。
更に、この受信者という言葉に、もう少し別の意味を込めてみたい。
少し違う切り口で考えてみよう。一般的な意味で、私は、知識の伝達という出来事があることを知っている。しかし、その「知っている」とはどのようなかたちで知っているのだろうか。
それを考えるために、知識の伝達の場面に身をおいてみよう。
私は、発信者、受信者、第三者の三つの立場をとりうる。
まず、私が第三者であれば、私は、この知識の伝達とは関係がない。もし、ある人がある人に知識を伝達しているのを、横で聞いていたなら、私は、もう一人の受信者だ。また、無言のまま発信者の側に立っていたなら、一言も発しなくても発信者だ。なぜなら、私の代わりに別の人の口で説明をしていたに過ぎないからだ。私が全くの第三者であるとは、私が全くその話を聞いていないということだ。そのような意味で、第三者はこの伝達の場に登場しない。
次に、私が受信者であったらどうだろう。受信者は、まだ知識を獲得していないのだから、知識の獲得、知識の伝達について言及することはできない。私が受信者の立場に立つならば、未だ知らない知識を、受信し、知識を獲得するという一連のプロセスを、受信者の立場から完全に描写することはできない。
とするならば、私は発信者の立場に立たざるを得ない。発信者の立場において、自分は既に獲得している知識が、伝達され、他者、つまり受信者により獲得されるのを観察するというかたちでしか、完全に知識の伝達の場面を描写することはできない。
だから、もし、私が、発信者、受信者、第三者のどれかに感情移入し、その立場に立つようにして伝達というものを理解するならば、私は、発信者の立場に立ち、他者が受信者として知識を獲得するのを観察するしかない。
このような意味で、受信者とは他者のことなのだと言いたい。
伝達の場面では、私は知識を発信する立場に立たざるを得えず、実際に知識を獲得する受信者はどこまでも他者であらざるを得ない。
そして、他者は、私が関与できないところにいる。私が関与できるならば、それは他者ではなく私だ。そんな、私の力が及ばない他者は、偶然か神が支配する領域にいるようにも思えるだろう。
このように、「受信者の努力、発信者の工夫」という知識の伝達の成否を分けるポイントを整理してみると、まず、発信者の工夫は否定され、そして、受信者は他者と読み替えられ、更に他者は偶然や神の領域に置かれてしまう。つまり、受信者の努力と発信者の工夫というグループは、神と偶然という後者のグループに、いわば還元されてしまうのだ。
4−5 神と偶然
そこで着目したいのは、神と偶然のグループだ。
これらについては、慎重に扱わなければならない。なぜなら、神や偶然だけが知識伝達の成否を決めるならば、伝達という営み自体が成立しないことになるからだ。
いくらアウグスティヌスやウィトゲンシュタインが本を書いて、読者に読ませても、そこに神や偶然による働きかけがなければ、その本を通じて伝えようとした知識は読者に伝わらない。一方、本など読まなくても、神や偶然が微笑みさえすれば、読者でさえないその人は、本が伝えようとした知識をなぜか獲得してしまう。これはもはや知識の伝達とは言えず、霊感か何かとしか言えない事態だろう。極めて宗教的であり、また、ウィトゲンシュタインが霊感を大事にし、この本での現代科学的な意味での伝達を否定したこととも重なる。宗教については神が、哲学においては偶然が、知識伝達の成否を分ける要因となることは、アウグスティヌスやウィトゲンシュタインも想定していたことであり、知識の伝達という営みは成立しないという展開になりそうだ。。
しかし、私はもう少し踏みとどまりたい。アウグスティヌスやウィトゲンシュタインは、偶然や神だけに頼らず、現に自ら本を書いている。これは全く無意味なことをしていたのか。
少なくとも、ウィトゲンシュタインはこの無意味さを知っていたのだろう。だから、すでに近いところにいる友人たちだけに向け、投げ捨てられるべき梯子としての文章を残した。これは、本による知識の伝達ということに根本的な疑念があったことの現れだろう。
しかし、いくら控えめに書き残したとしても、全く無意味なことをしていたとは思えない。そこには、この本で捉えていない別の知識のあり方があるのではないか。
4−6 触媒
私は、外在的知識、内在的知識といった、これまで登場した知識とは別に、受信者による知識の獲得を補助する、触媒とでもいうべき知識があると考える。
確かに、ある人の頭の中において、ある知識を獲得するという化学反応が起きるかどうかは、最終的には神の導きか偶然によっているのかもしれない。しかし、その化学反応が起きやすくする知識というものがあるのではないだろうか。
スポーツを上達したいときには、スポーツのhowto本を読む。これは、スポーツについての知識を獲得する際に、全く自力で試行錯誤するよりも、体の使い方や心構えなどを解説した本を読むことで、スポーツについての知識を獲得しやすくするためだ。
本に書いてあるバッターのボールの打ち方についての知識と、実際にボールを打つことで身に付ける体の使い方についての知識とは別のものだが、関連はある。この関連性により、前者の知識が、後者の知識を獲得する際の触媒の働きをする。
これと同様の働きが、アウグスティヌスやウィトゲンシュタインの本にはあるのではないだろうか。だから、彼らの努力は無駄ではない。
そして、荻生徂徠が挙げた、発信者の工夫もここで復活する。発信者の工夫とは、よい触媒を作成する工夫のことなのだ。また、受信者の努力、才能という捉え方についても、この触媒を活用する能力という限りでは復活する。なぜなら、この触媒は、発信者と受信者の間にあり、全くの他者である受信者の領域だけにあるものではないからだ。
4−7 草刈り
なお、ある知識が、触媒として関連する知識の獲得を促すのは、その触媒としての知識が、ある知識を獲得するかどうかの選択を迫るからだろう。
「バッターはボールを打つとき、ボールから目を離してはならない。」という文章を読んだならば、その記述に従い、ボールから目を離さないように努めるか、またはその記述を無視するかのどちらかしかできない。その文章を読む前ならば、ボールを打つ時の視線の動きは全く気にせず、筋力をアップしたり、ピッチャーとの星占いの相性を気にしたり、といった試行錯誤をする自由があったが、一旦文章を読んでしまったら、視線の動きという問題意識を受け入れるか、拒否するかの二者択一を迫られる。意識が視線の動きという問題にフォーカスされると言ってもいい。だから、本の記述は、知識の獲得の触媒となりうるのだ。
このことは、文章が問いかけてくる、と言ってもいい。ウィトゲンシュタインの本を読んだなら、ウィトゲンシュタインのこんな声が聞こえてくる。「私はこの問題について、このように考える。君はどうなんだ。」と。そして読者はウィトゲンシュタインの問題に絡め取られる。これが、ウィトゲンシュタインの本が哲学的に役立つということだ。
だから、文章を書くことは、山を登りながら、後に続く人が歩きやすいように、山道の草を刈っておくことと同じ作業だと言ってもよい。
後に続く人は来ないかもしれないし、来ても、道を逸れ、好きな方向に進んでいくかもしれない。それでも、もしかしたら、自分と同じ道を歩みたい人がいるかもしれないと思い、草を刈っておく。そんな作業なのではないだろうか。
4−8 必要な勘違い〜楽観〜
ウィトゲンシュタインは、「この書物を理解してくれるのは、ここに表現されている思想 ーまたはそれに似通った思想ーを、すでに自分で考えたことがある人だけかもしれない。」(p.51)とするなど、ごく少数の「友人たち」(p.52)だけに、自らが書く文章が意味を持ちうるとしていた。だから、「自分の手を握ってくれる人」(p.54)としか語り合うことができないのだ。
これは、ここまで述べたことに即して解釈するなら、せっかく山道の草を刈っても、後に続いてくれる人は少ないことを知っていた、ということを意味する。
しかし、さらに言うならば、ここには「必要な勘違い」があるように思える。
本来、山で草を刈り、道を作っても、その道を使ってくれるひとがいるどうかわからないはずだ。
しかし、ウィトゲンシュタインは、あたかも、たとえ少数であっても、自分の思想を理解してくれる人がいると知っていたように思える。ウィトゲンシュタインは草を刈りながら振り返り、後ろに人がついてきているのを確認しているのだ。
これは、たとえ、少数の人に対してであっても、現に知識の伝達がうまくいったことを確認し、そのことをもって、遡るようにして、自分の文章に意味を持たせていたということだ。
この、発信者Aが、他者である受信者Bに対する伝達の成否を確認できる、ということが「必要な勘違い」なのだ。
発信者Aが伝達と名がつく行為をするためには、この確認ができることが必要だ。しかし、他者である受信者Bが発信者Aに伝達が成功したことを伝えるためには、立場を変え、再度、伝達が行われなければならない。伝達が伝達として成立したことを確認するためには、別の伝達の成立が必要なのだ。だから、ほんとうなら、この作業には終わりがなく、本質的に成し遂げることがありえない。だから、楽天的に伝達がなされたと思い込むことは、伝達を成し遂げるために必要ではあるが、やはり勘違いなのだ。
この「必要な勘違い」という楽天さは、ウィトゲンシュタインが「論考」を書く真の目的が「語りえないものを暗示する」(p.59)ことにあったことともつながる。
「暗示」という行為は言葉にしたとたん、暗示ではなくなり、暗示でしか伝えることのできない微細さが失われる。
ウィトゲンシュタインは、文章を書く前から、既に、ごく少数の「友人たち」に対して、語りえない次元において一致し「語りえないもの」についての知識についての伝達が成立していると信じているからこそ、語りえないものを暗示するような文章を書くことができたのだ。
「論考」における投げ捨てられる梯子は、すでに語りえない次元において一致している「友人たち」の模倣というか再確認を助ける触媒なのだ。
これは、書く前から、既にごく少数の人しかわかってくれないことを知っているという点で悲観的だが、ごく少数の人がわかってくれると思っている点で楽観的だ。この楽天さと、「必要な勘違い」をした楽天さは同じものだ。
自分の理解者は限られているという悲観と、少しでもいるという楽観との狭間に、読者の心を揺り動かす触媒としての文章が存在する余地があるのではないか。
5 メタ知識の未来
5−1 メタ知識
科学においても、少しでも後進の者たちが知識を獲得できるよう、科学書や論文といった形で、触媒とでも言うべき、補助的な知識が蓄積されている。人は哲学であっても、科学であっても、先人の文章を触媒とし、知識の獲得を助けられながら、内在的知識を獲得する。
社会的な仮定である外在的知識を科学的知識として認定するという誤りさえ取り除けば、科学の分野においても、そこには、こんなあたりまえの知識の伝達の営みがあるだけなのだ。
それでは、現代において、科学的知識だけがうまく蓄積され、飛躍的な進歩をとげているのはなぜなのか。
その要因のひとつとしては、科学の分野において、たまたま、媒体としての補助的知識の記述のルールが知識の蓄積に適していたから、ということがあるだろう。
科学の分野においては、分野別に科学書や論文といった補助的知識がよく整理されているため、読者がどの文章を読むべきかが容易にわかる。また、どの科学書や論文が現時点で正しいとされ、有力で優先して読むべきかが、科学のルールに基づき判定され、優先順位がつけられている。後進の者は、哲学や宗教といった分野に比べ、自分のニーズに合った触媒となる補助的な知識に容易に出会えるようになっている。
これは、きちんと整理整頓された図書館で本を探すことと、物置に雑多に積まれた本の山から本を探すことの違いと似ている。図書館では、分野ごとに本が置かれ、また、人気がある本は倉庫の書架から出され、本棚に並べられている。科学的知識はそのようなアクセスが可能だ。一方、哲学的知識や宗教的知識は、どこに自分が必要とする触媒としての補助的知識があるか探すのが大変だ。見当違いの先人の知識しか見つけられず、一生勘違いすることだってありうる。
この補助的知識は、どの知識を習得したらよいかを示してくれる地図のようなメタ知識と言ってよいだろう。知識の習得を補助する触媒としての知識のなかには、このようなメタ知識というかたちで提示されるものがある。
科学的知識においては、メタ知識が機能しやすい構造があるのだ。
5−2 未来
しかし、科学以外の分野についても光明はある。
まず、将来、より知識の蓄積に適した整理の仕方が見出される可能性がある。
例えば、哲学は、今は知識が全く整理されていない状況だ。確かに科学哲学、美学、応用倫理学・・・というような分野の区分や、イギリス経験論、ドイツ観念論というような学派の区分はある。しかし、自分の問題意識に対して、どの知識が参考になるのかがわかりにくい。しかし、なんらかの別の整理の仕方により、より過去から蓄積された知識にアクセスしやすくなることはありうる。(私は、主張という切り口から分類するのではなく、疑問という切り口から整理することができないかと考えている。「無限とは何か?」という疑問がある人はこちら、というような案内ができないかということだ。)
これは哲学におけるメタ知識の発展といってもよい。
また、より大きな話としては、私は、科学技術の発達により、分類、整理とは別のメタ知識のあり方が見出されつつあるのではないかと思う。それは、現在既に達成されているものを例示すれば、google検索のようなあり方だ。うん十年前、検索はyahooカテゴリ検索だった。それが、人工知能のはしりとでもいうべきアルゴリズムを組み込んだキーワード検索に置き換わった。人は分類、整理によらずに、効率的に補助的知識にたどりつく術を見つけたのだ。
この進化の道には続きがあるだろう。ひとつが、この本も「コンピュータの言語能力は〜いずれ人間の能力を凌駕することが予想される。」(p.28)というかたちで触れているように、知識の担い手が人間からコンピュータに移るという道だ。
もし、すべての知識が、単一のコンピュータに収められたなら、知識の伝達の問題は消失する。
ウィトゲンシュタインの哲学とラッセルの哲学は一つのコンピュータの内在的知識として取り込まれ、私達が明日の天気のことを考えたり、今夜の晩ごはんについて考えたりするように、コンピュータは、適宜、ウィトゲンシュタインの哲学や、ラッセルの哲学を考えることができるようになる。そして、両方の哲学を、その背景となるウィトゲンシュタインやラッセルの人格全てを完全に理解し、両者を見渡した新しい視点から、別の哲学を考えだすこともできるようになる。
これは、知識の自動的な蓄積という、現在、科学的知識についてフィクションとして実現している理想的な進歩の仕組みが、哲学において現実に実現した状態だと言ってよいだろう。ここに至れば、ハードディスクを増設するようにして、どこまでも哲学を進歩させることが可能になるのだ。
もうひとつ、私達人間の脳をネットワーク化するという道もある。この道を歩んだとしても、知識の担い手が人間のままであるということを除いては、全く同じことが実現するだろう。
これは、啓蒙主義者の「正しい教育が普及すれば、あらゆる人が必要な知識を学んで身につけることができるだろうという将来に対する期待」(p.97)の少しグロテスクな実現でもある。
啓蒙主義の夢は、少し遅れてはしまったが、そろそろ実現するのではないか。
6 対話との関係
ここまで、「科学から哲学へ」を材料にして、私の「対話」に関する問題意識を踏まえ、知識を伝達するということについて検討してきた。
伝達とは、話し手だけが持っている内在的知識が、なぜか、聞き手にとっても同じ内在的知識となるということであり、その神や偶然が関わるとしか思えない不思議さを説明するために、伝達を補助する媒体という考え方を持ち出した。
それでも、不思議さは残る。
いくら媒体があり、聞き手が内在的知識の獲得を促されたとしても、その知識が話し手の内在的知識と同じものかどうかはわからない。聞き手の9×9=81と聞き手の9×9=81が同じものだという保障はない。
多分、この同一性は、この営みが、同じ人間、同じ知的生命体による、対等な双方向の対話であるということが保障しているのだろう。
伝達が、対話ではなく、内在的知識を持つ発信者から内在的知識を持たない受信者への、一方的で不均衡な一度限りの行為だとするなら、この同一性は成立しないはずだ。
そこに、「対話」ということの哲学的意義があるように思う。