※5,500字ちょっとです。先週やった哲学カフェで考えたことを発展させたものです。

1 昭和と令和

先日、哲学カフェを開催したのだけど、そこで、「幸せ」という言葉の扱い方の新しいアイディアを思いついた。哲学カフェの本題とはずれた話なので、こちらに記録しておく。(本題の記録は、哲学カフェのブログに残します。)

僕の思いつきを一言で述べるならば、「幸せ」という扱いが難しい言葉を扱いやすくするため、細分化してはどうか、というものである。

まず「幸せそのもの」から「幸せの条件」を切り離し、さらに「他者の幸せ」と「自分の幸せ」を区分する。そのように切り刻んでいくと、結果として「幸せ」という言葉をそのままで使える場面はほとんど残らない。それならば、「幸せ」という言葉は不用意に使わないほうがいいのではないか。

この文章では、そんな話をしていきたいのだけど、まずは、先日の哲学カフェでの話題を紹介するところから始めたい。

そこで出たのは、「ワーク・ライフ・バランスと仕事のやりがいが両立しない」という話だった。昭和の時代、職場の仲間と深夜まで仕事に没頭し、ひとつのプロジェクトを成し遂げ、その達成感を皆で分かち合うという体験があった。令和の今、ワーク・ライフ・バランスにより、時間の余裕はできたけれど、そんな貴重な機会が失われてしまったのではないか、という話だった。

もし、昭和的な達成感や職場の仲間との連帯感が「幸せ」につながり、そして、令和的な時間的余裕も「幸せ」につながっているならば、すべてを満たす完全な「幸せ」を手に入れようがないのではないか、参加者の話を聞きながら、僕はそんなことを考えこんでしまった。これが、この文章の話の入口である。

2 他者の幸せの条件

僕は哲学カフェで進行役をしながら少しの間考え込んでいたのだけど、そこで、あるアイディアが閃いた。

令和的な時間的余裕とは、「幸せ」そのものではなく、「幸せになるための条件」なのではないか。時間の他にも、お金や行動の自由(牢屋に入れられていないなど)といった条件がありうる。そのような条件をクリアしたうえで、はじめて達成感や連帯感といった「幸せそのもの」を追い求めることができるのではないだろうか。

普段、「幸せ」という言葉を使うとき、「幸せそのもの」と、幸せを求めるためのスタートラインに立つための最低限の条件となるものとを一緒くたにしてしまっているのではないか。時間やお金や自由といった幸せの条件を満たしてスタートラインに立ったうえで、はじめて達成感や連帯感といった幸せそのものを目指すことができる、という考え方である。

自分自身を振り返ってみても、僕の「幸せ」概念の使い方は混乱していたように思う。そこで思い出したのが、子供のことである。僕には娘が一人いるけれど、当然、僕は娘に幸せになってほしいと思っている。だけどそれは、達成感や連帯感こそが幸せだから、それらを手に入れてほしい、とまで言っているのではないはずだ。僕はあくまで、子供が幸せになるための条件として、時間やお金や行動の自由を確保できるよう、できるかぎりのことをしてあげるべきなのだ。

それなのに実際の僕は、子供に干渉して、独りよがりの価値観を押し付けてきてしまった。もっとチャレンジしたほうがいい、なんて、したり顔で言ったりして。

「幸せ」と「幸せの条件」を区分する視点から述べるならば、僕は、その両者を取り違えてしまっている。僕にできることは、せいぜい娘の「幸せの条件」を整えるところまでで、娘の「幸せそのもの」に関わることはできない。僕の娘は、僕には関与できないところで、彼女なりの幸せを目指していくしかない。

もしかしたら、僕の仕草や振る舞いや生き様が、間接的に彼女の「幸せ」に影響することはあるかもしれない。だが、それは僕がコントロールできるものではないし、それは彼女自身が自ら受け止め、選び取っていくものでしかない。(僕が投げかけた労りの言葉が、彼女を傷つけることだってあるかもしれない。)少なくとも、言葉で明確に捉えられるような何かを、「幸せそのもの」として、娘に直接届けることはできない。

それは親子関係に限らず一般化することができて、人は誰もが、他者の「幸せの条件」に関わることはできても、他者の「幸せ」そのものに関わることはできないのである。

この区分が曖昧だったために、従来の様々な「幸せ」を巡る言説は混乱してしまっていたのではないだろうか。ワーク・ライフ・バランスは本当に幸せなのか、はたして自由ならば人は幸せなのか、基本的人権の尊重は本当に幸せにつながるのか、などなど。これらの問題は一見、難題のように見えるけれど、すべて混乱が見かけ上の複雑さを招いたにすぎない。

簡単に述べるならば、これらの問題に対する答えは、いずれもノーである。このような他者も含めて一般化できる話は、いずれも「幸せそのもの」には届かず、せいぜい「幸せの条件」にしかならない。ワーク・ライフ・バランス、自由、基本的人権といった概念が扱われる「幸せの条件」という議論の階層(レイヤー)は確かにある。だが実際に「幸せ」を捉えるためには、そのレイヤーを超えて、それぞれの人が、自らの手で「幸せ」を目指すしかない。

3 自分自身の幸せ

ここまで、他者と共有し、一般化できる話としては、「幸せの条件」は扱えても、「幸せそのもの」を捉えることはできない、という話をしてきた。

それならば、一般化できない存在、つまり自分自身についてならば、自分なりの「幸せそのもの」を捉えることができるのだろうか。

常識的に考えるならば、それは可能だ、と言っていいだろう。ある高齢の男性Aさんが、若い頃のことを思い出し、「あのとき、職場の仲間と深夜まで仕事に没頭したなあ。プロジェクトを成し遂げて、あの達成感を皆で分かち合ったのは幸せだったなあ。」と感慨にふけることは、誰も否定できないからだ。確かにAさんにとっては、それは「幸せそのもの」である。

だが、注意しなくてはならないのは、その「幸せそのもの」は誰とも共有できない、ということである。ちょうどその頃、ワンオペで育児をしていたAさんの奥さんは、Aさんに賛同しないかもしれないし、もしかしたら、Aさんの当時の同僚にとってだって、あのプロジェクトとは、単なる苦しい深夜残業の思い出でしかないかもしれない。

さらに考えを進めるなら、そんな奥さんや同僚の気持ちを知ってしまったら、Aさんにとってでさえ、あの頃の思い出は「幸せそのもの」ではなくなってしまうかもしれない。

ある時点までは、「幸せ」であったはずのものが、いつか「幸せ」でなくなってしまう、というのはよくある話だ。(軍国主義に染まって国への奉公こそ幸せと思っていた子供が、終戦後に後悔するなどという話もある。)

だから、確かに、自分自身であれば、ある時点においての「幸せそのもの」を捉えることはできうる。だがその「幸せそのもの」は他者とは共有できないし、過去や未来の自分自身とも共有できないかもしれない。確かなのは、「あのとき、私は幸せを感じていた」ということまでである。

4 哲学カフェでの「幸せ」というテーマの扱い

そのように考えるならば、哲学カフェで「幸せそのもの」について誰にも伝わるように話すことは不可能だろう。誰か別の他者と「幸せそのもの」を共有することはできないし、そもそも、その当人にとってでさえ、「幸せ」とは、後になって、実はそれは「幸せ」ではなかった、と気づくかたちで逃げていってしまうものだからだ。(逆に、実は「家にいた、あの鳥が幸せの青い鳥だった」と気づくこともありうる。)

だから「幸せ」のようなテーマは哲学カフェでは話がぶれやすくなって扱いにくいし、さらに述べるならば、素人同士の哲学カフェではなく、偉い哲学者の間での学術的な討論においても「幸せ」に対する問題意識を完全に共有し、議論することは不可能なのではないか、と僕は考えている。

一方で、「幸せの条件」であれば、その問題意識を参加者が共有し、哲学カフェで論じることは可能だろう。その条件は、はたして時間・お金・行動の自由だけでいいのか、いや、そもそも、お金は必須ではないのではないか、などといったかたちで。

なお、哲学カフェや哲学における「幸せの条件」の探求においても、目的地点もわからないままに、そこに到達するための条件を論じることはできないのではないか、という疑問はありうる。そもそも「幸せそのもの」というゴール地点がわからなければ、「幸せの条件」というスタートラインをどの向きに引いたらいいかわからない。

だから、僕は「幸せの条件」を哲学や哲学カフェを通じて簡単に発見できる、とまで言うつもりはない。だが、参加者が問題意識を共有できる、という意味で、「幸せそのもの」よりは扱いやすいとまでは言えるはずだ。

そのように言えるのは、「幸せの条件」とは、あくまで自分の娘のような他者にとっての「幸せの条件」である一方で、「幸せそのもの」とは自分自身にとってのものだからである。

他者にとっての問題でなければ、他者と論ずることはできない。

5 自分自身の「幸せの条件」

ここまでの話をまとめるならば、従来「幸せ」と呼ばれてきたものは、4つに大きく分けられ、その区分ごとに哲学上の扱いも異なることになる。

1 自分自身の「幸せそのもの」:哲学的には問題意識の共有困難

2 他者の「幸せそのもの」:哲学的な言葉での関与は不可能

3 自分自身の「幸せの条件」:???

4 他者の「幸せの条件」:哲学的には問題意識の共有可能

となる。

最後に残るのが、「3 自分自身の「幸せの条件」」は哲学的にどのように扱うことができるのか、つまり、哲学カフェの参加者が問題意識を共有して論ずることができるのか、という問題である。

まず、普通に考えるならば、自分自身だって人間の一人なのだから、他者にとっての「幸せの条件」があるならば、同じ人間である自分自身にだって、その条件は当てはまるはずだろう。もし、人間が幸せになるためには、お金があることが条件となったならば、自分自身だって当然そうだろう。当然、「他者の幸せの条件」とは「自分自身の幸せの条件」でもある。

だが、そうは言いたくない気持ちが僕の中にはある。確かに僕は、僕の娘に、色々な「幸せの条件」を整えてあげたい。博愛的に述べるならば、全人類、全生命が「幸せの条件」を満たすことができる世界になったらどんなにいいだろうと思う。

だが、僕自身に対して、「幸せの条件」なるものを適用し、その条件が満たされなければ幸せになれない、なんて考えることには拒否感がある。僕は、「幸せの条件」なんて関係なく「幸せそのもの」を掴み取りたい。

僕はステージ1の軽い胃がんになったのだけど、手術後、1日だけ集中治療室に入った。そのとき、なぜかすべてが苦しくて、こんなことが続くなら、僕は死んでしまいたいと思った。あのときの僕は、幸せから遠く離れたところにいた。

今後僕は老いていくなかで、いつかはきっと、少なくとも死ぬ直前には、あのときに似たような環境に置かれることもあるだろう。それまでに僕は、たとえ集中治療室のような極限状態に置かれたとしても「幸せの条件」なんて関係なく、「幸せそのもの」にアクセスできるようになっていたい。

そんな個人的な経験だけを根拠に、僕は「自分自身の幸せの条件」なんて蹴っ飛ばしてやりたい。これは、哲学的議論における共有可能性なんて無視した、実存的な叫びだと言ってもいい。

6 幸せを巡るひとつの言説

ここまで、「幸せ」を巡って色々と述べてきたけれど、僕が述べたかったのは、実は「幸せ」という概念に対する哲学の限界ではなく、哲学の可能性である。

僕は、先日の哲学カフェにおいて、「幸せ」のような大きな概念を、哲学カフェのような場で気軽に使うべきではない、と主張した。今回の考察で明らかになったように、「幸せ」という言葉は、「幸せそのもの」、「幸せの条件」、「自分自身の幸せ」、「他者の幸せ」といった様々な要素を含んでしまっている、複合的な概念だ。(この文章では行わなかったけれど、他にも「受動的な幸せ」、「能動的な幸せ」など、様々な要素に分解できるだろう。)

そんな大きな言葉を、前置きなく使ってしまえば、その概念を共有することができず、混乱が生じるだけだ。だから哲学カフェで扱うことは慎重になるべきだし、哲学カフェを離れても、コミュニケーションの場で気軽に使うべきじゃない。というような趣旨のことを先日の哲学カフェで発言した。(ここまで明確には言わなかったけれど。)

だが、今回、こうして書いてみて再確認したけれど、「幸せ」について考えるのは面白い。「幸せそのもの」と「幸せの条件」の違いを思いついたときは、我ながらハッとして楽しかった。

また、「幸せ」について考えることは、なんらかの意義があるという実感もあった。当然、「幸せ」とは何か、という問題に対して一足飛びに真実に到達することはありえない。だが、「幸せ」について考えることで、「自分自身」と「他者」の違いについて考えることにもつながったし、「問題意識の共有」や「条件」といった全く異なる概念について理解を深めることもできた。

哲学において、「幸せ」について語ることは、確かに、その語った結果だけ捉えるならば、真実に到達し得ないという意味で失敗が運命づけられている。だが、その語るプロセスに着目するならば、確かに何かを生み出している。

哲学カフェで「幸せ」をテーマにするべきじゃない、なんてことは全然ない。「幸せ」について話すことは確かに難しいけれど、だからこそ楽しくて愛おしい。そう訂正したくて、この文章を書いた、とも言える。

この幸せを巡るひとつの言説が、そのことを裏付けているといいな、と思う。