※ 6,000字弱です。最近、疲れやすくて困ってるので書いてみました。あんま哲学じゃないです。
1 はじめに
最近、村上春樹の『走ることについて語るときに僕の語ること』というエッセイを読み返した。
村上春樹はマラソンを趣味としている。(というか、趣味とは言えないほどのめりこんでいる。)そこから、この本は、ただマラソン(やトライアスロン)について書かれた本である、という読み方も可能で、実際、僕も、何か体を動かさなくてはと腕立て伏せをしてみたりもした。この本は運動の動機付けによい。
だが、当然のことながら、村上春樹は作家なので、マラソンについての記述を通じて、彼の執筆という営み、そして人生のあり方が書かれていた、という読み方も可能で、どちらかというと、僕はそのように読んだ。彼はマラソンをし、マラソンのように書き、そしてマラソンのように生きている、と読んだのである。
そんな彼の姿勢に僕は感銘を受け、色々なことを考えさせられた。だが、まだ、うまくまとまっていない。そこで多少なりとも整理できれば、と思い文章に書くことにした。そういうわけで、この文章は、書きながら考えがちな僕の、僕自身のための私的なメモである。僕の心の動きを大事にしたいので、彼の言葉をそのまま引用はせず、僕の言葉で再構築して書き記すことにする。
2 エネルギー切れ
2-1 長期と短期
ものごとには、その人なりの秘訣というものがある。特に、マラソンや長編小説のような継続的な営みならなおさらである。
短期決戦の一回限りの営みであれば、その限られたチャンスを活かせる運やセンスや天賦の才能のようなもので乗り切ることも可能かもしれない。だが、継続的に繰り返される営みを成功させるには、その営みの中で学び、編み出されたその人なりのノウハウの蓄積、つまり秘訣がより重要となるはずである。
それならば、長年生き(この本が書かれた時点で村上春樹は50代半ばだ。)、マラソンを走り、長編小説も書いてきた村上春樹の秘訣はとても参考になるはずだろう。
僕自身の、50代半ばとなり、人生の後半に差し掛かったという事情もある。彼を見習い、運やセンスや天賦の才能頼みの対応から、マラソンランナーのようなやり方へとギアチェンジすべきなのかもしれない。
2-2 老い
若い頃の僕にとって、人生とは、都度、外部から降りかかってくる問題に対処するようなものだったように思う。恋愛やら挫折やら冒険やら退屈やら、様々な状況が次々と外部から付与されて、その都度どのように対応するかが問題だった。哲学も、高校生のあのときに訪れた、あの驚きに対応するために、ただやってきた。だから、哲学についても、対応に時間を要しているけれど、短期決戦の都度の対応の延長にあると言える。
だから、そのやり方として、ノウハウの蓄積など考えもせず、若さにまかせ、才能や運頼みでその場限りの対応をしてきた。僕の才能がどれほどかはわからないけれど。
だが、そのように長年生きるうちに、都度、直面する問題それ自体に加え、その問題に対応するにあたって消費するエネルギーの確保が、新たな問題として加わってきているように感じる。老いである。
傷つくにもエネルギーが要るし、喜ぶにもエネルギーが要るし、哲学的に悩むにもエネルギーが要る。村上春樹ならば、走るにも、書くにもエネルギーが要る。歳を取ると、引き続き、問題への対応の仕方が問題ではあり続けるのだが、どのように対応するにせよ、その対応に要するエネルギーをどう確保するかが新たな問題として加わってくるのである。
2-3 村上春樹の場合
この僕の問題は、村上春樹ならば問題とはならないだろう。なぜなら、彼は、遅くとも小説家となり、マラソンを走るようになった30代以降、老いの問題が顕在化する前から、エネルギーの総量を意識しながら生きてきたからである。
彼は、長らく、人生を生きることを、身の丈に合った小さな種火を繊細な作業により守り続けるようにして行ってきたのである。風よけをつくったり、薪を組み替えたりしながら、必要な熱量を必要な間だけ確保できるよう、丁寧に炎を整え続けるようにして。
マラソンならば、大会の数か月前から念入りに準備し、目標タイムを控えめだが、自らの尊厳が保たれるような値で設定する。
その目標を目指すために、やれやれ、と言いながら朝、重い体をひきずってランニングシューズを履き、筋肉を励ましながら海辺を走る。
当然、このような営みは微力だ。風よけがあっても、小さな炎は突風、つまり外的な要因によってかき消されてしまうこともある。炎が消えないためには、燃料の量を増やし、炎を力強くしていくほうが確実だろう。だが、それでは、燃料が尽きてしまい、走り続けることも、書き続けることも、生き続けることもできなくなってしまう。
突風により炎が消えてしまうリスクを抱えつつも、できることは、身の丈に合った大きさで炎を灯し続けることでしかない。それが、炎を燃やし続けるということだ。
僕は、村上春樹のそのような人生の態度に感銘を受けたのである。
2-4 僕の場合
それに対して僕はと言えば、執筆とは、そして生きるとは、雷による森林火災に対応する消防隊のようなものだと考えていた。偶然に、無根拠に、僕の人生においては、何度も、雷が落ち、大火災が発生する。そのような大火災は想定外のものだから、対処するためには、都度、その時点における僕の最大出力で、場当たり的に駆けずり回るようにして対応するしかない。それが僕にとって、執筆し、生きることのイメージである。
だが、それが通用するのは、多分、マラソンを中距離走のように駆け抜けてしまえるような、若いうちのことなのだろう。最近、そのように生きることに、体や心が耐えられなくなってきているように感じる。どこかで無理をして、エネルギー切れを起こしているのである。
僕も、やり方を見直すべき時期に来ているのかもしれない。
3 具体的な対応方法
3-1 3つのやり方
それでは、具体的に、どのように対応すればいいかというと、少なくとも3つのやり方があるように思う。
ひとつは、エネルギーの使い方について、常に最大出力ではなく、炎を中火や弱火にするようにして、消費量を調整するというやり方があるだろう。
また、エネルギーを消費するばかりではなく、うまく充電することも必要だろう。人間には寿命があるし、消費量を完全に上回るような充電は不可能に違いない。だが、容量の小さな充電器でパソコンを充電するのも全くの無駄ではないはずだ。
さらに、災害の発生を予測し、事前に備えておく、というやり方もあるだろう。人生を都度の様々なイベントとして捉えるのではなく、人生を一連のマラソンというひとつのイベントとして捉え、適切にペース配分をするのである。
僕は、これらのやり方があることを、村上春樹から学んだように思う。
彼ならば、控えめな目標タイムを設定することがエネルギー消費量の調整にあたる。また、やれやれ、と朝、とりあえずでも走ることが充電にあたる。
そして、多分、この『走ることについて語るときに僕の語ること』という本のように考え、生きることが、人生を一連のものとして捉え、ペース配分をすることにあたる。
これらの3つのアプローチのうち、前2者は、村上春樹から学んだことは具体的であり、実行できるかどうかはともかく、何をすればいいのかはわかりやすい。
だが、人生の捉え方については、抽象的すぎて、実際、どうすればいいのか、よくわからない。
3-2 日々の生活におけるフィードバックループ
これからの僕の生き方に関わることなので、もう少し、具体的に検討してみたい。
まず、わかりやすい二つのうち、エネルギー消費量の調整について考えてみる。
これは、簡単に言えば、老いに合わせて目標を引き下げればいい、というだけの話のように思える。だが、本当にそうだろうか。
村上春樹の立場からするならば、その時点での体力の限界ぎりぎりのところに合わせて目標タイムを設定するという意味では、客観的な数字としてはともかく、主観的には目標を引き下げていない、と言いたくなるのではないか。他のランナーや過去の自分自身との相対評価ではなく、絶対評価としては、目標は変わっていないのである。
ここには、客観・相対と主観・絶対という対比がある。
そうだとするならば、まず重要なのは、主観的、絶対的に自分自身を把握することである。というか、この主観的・絶対的な自己把握さえできてしまえば、あとの調整はそれほど難しくないのではないか。
多分、老いにおいて、最も問題となるのは、自己の過信である。当然、若い頃も過信しているし、過信により、数え切れないほどの失敗もしてきた。だが、その失敗がエネルギーの消耗としてダメージが残ることはなかった。だから、老いに対処するためには、自己の過信を避けることが重要となるのである。
そのためには、きめ細かなフィードバックループが必要となるだろう。マラソンならば、とりあえず走ってみて、どのくらい体が動くか、丁寧に身体の声を聞く。それでも予期できない異変は生じるけれど、できる限りのリスクを避けることはできる。
きっと僕は、恋愛、哲学などなど、ものごとをざっくりと捉えすぎてきたのだろう。だからフィードバックループが大雑把で十分に機能していなかった。人生を、大きな物語ではなく、日々の生活の積み重ねとして捉え、そこで日々の僕の状況を捉え直し、出力を調整するべきなのだろう。
3-3 エネルギーにアクセスするためのテクニック
もうひとつの、エネルギーの充電についてだが、これまで僕が苦手としてきたことだ。どうも僕は、頭でばかり考えすぎのようで、村上春樹の、朝、とりあえずでもランニングシューズを履く、というような身体を先行させるようなやり方がいいのだろう。早寝早起き、栄養バランス、適度な運動などなど。最近、スマートウォッチをつけているのだけど、アプリに怒られないように頑張るしかないのかもしれない。
なぜ、それが充電につながるのかは、実はよくわからない。だが、できることは泥臭くても全てやる、というのが、この問題に対する適切なアプローチだろう。思考するとは、エネルギーを消費することである。それならば、思考ではないところに、エネルギーの源泉があり、そこにアクセスするためには、思考ではない、別のやり方をするしかない。
村上春樹は、きっとこのことを井戸からの汲み上げと呼んでいる。執筆のアイディアやエネルギーは、作家が偶然掘り当てた水脈から湧いてくるのである。
一方で僕は最近、気功を勉強したので、このエネルギーと気を同一視したくなる。呼吸やイメージ操作のような、思考を経由しない何らかのテクニックにより、エネルギーにアクセスできると考えたくなる。
実際、それを思考によって検証することはできないけれど、そのテクニックとしては、ランニングシューズを履いたり、呼吸をしたりするような身体的なものと、天から気が降り注いでくるところを想像するようなイメージ操作によるものとがあるように感じる。
僕は、気功に出会う前から、エネルギーが持つイメージについて色々と考えてきた。
(例えば、バイタル・スフィアといったイメージについて書いたこともある。https://dialogue.135.jp/2018/03/17/vitalsphere/ また、僕が好きな入不二の現実性概念も、エネルギーが持つイメージに近いものがある。)
僕は、どうしても思考寄りになりがちだから、エネルギーにアクセスするにあたって、イメージ操作のようなものを重視しすぎてきたけれど、もう少し、早寝早起きのようなものも含め、身体に目を向けるべきなのだろう。
3-4 生活と身体を抱えた人生
ここまでエネルギー切れの問題に対応するための3つのやり方のうち、多少はわかりやすい、エネルギー消費量の調整とエネルギーの充電という二つのやり方について考えてきた。
その結果、日々の生活に目を向けたフィードバックループと、身体的なテクニックが役立ちそうなことがわかってきた。
さらに、これらを検討することによって、もうひとつのエネルギー切れ対応方法、つまり、村上春樹がやったように、人生において適切にペース配分をする、というアプローチが具体的に何を指すのかも見えてきたように思う。
僕は、これまで、いきなり僕に降ってきた恋心や、いきなり僕に降ってきた哲学的タウマゼインといったものに振り回されて生きてきた。だが、どんなときにも、そこには、僕の日々の生活があり、僕の身体があったはずである。
初恋でご飯が喉を通らないときもあったけれども、飢え死にしていないということは僕はご飯を食べていたはずだし、哲学に眠れないほど悩んでいたときにも、覚えていないけれど、普通に寝ていたはずだ。
どんな波乱万丈な人生でも、そこには生活と身体があったはずなのである。僕は、それを軽視しすぎていた。それが、僕のエネルギー切れの主因なのかもしれない。
それならば、そもそも、僕の人生への向き合い方が、外から降ってくる様々なイベントに目が向きすぎていて、その土台となる、生活や身体を軽視していたことが問題の根源にあり、そこから、エネルギーの調整や充電の問題が派生していたことになる。
僕は、この生活と、この身体を抱え、この一連の人生を生きている。そこに丁寧に目を向けることができれば、一連の人生におけるペース配分のようなことも、それほどの困難なく可能となるのではないか。
4 泥臭く、できることをする
ここまでの僕の診断が正しいかどうかはわからない。だが、泥臭く、できることはすべてやるべきだろう。早寝早起きであれ、気功であれ。
また、僕が最も力を入れている哲学においても、できることはすべてやるべきだろう。
それは例えば、僕の哲学において、生きるうえでのエネルギーの問題について考えるということであり、バイタル・スフィアや入不二の現実性のようなイメージ操作について、より精度を上げて考えていくということである。
それが、老いによるエネルギー切れにつきあいつつ、生活と身体を抱えて人生を生きていくということである。
そして、その営みの一部として、老いによるエネルギー切れにつきあいつつ、生活と身体を抱えて哲学をしていくということである。
そんなことを、村上春樹の本を読んで考えた。