PDF:考えるとはどういうことか
哲学対話に深く関わっている哲学者の梶谷先生の本です。(哲学対話では、一般的に大学教授でも◯◯先生と言われるのは嫌がるので、しんちゃん(p.212)でもいいけど、以下、「梶谷さん」にしておきます。)
僕はイベントでお会いしたことがあるくらいだけど、とても面白そうな方です。
哲学対話界隈のSNSで話題になっていたので、早速Amazonで注文したところ、とても面白く、一気に読んだので感想です。
まず、全体として熱いです。哲学者が書いたものだから、俯瞰して冷静に分析した感じかな、はたまた、ノウハウを簡潔に紹介したものかな、と思ったら、そんなことはなく、どっぷり哲学対話に浸かった感じで熱いです。かと言って独りよがりなんてことはなく、哲学者としての知識と実践者としての経験に裏付けられた説得力があります。
哲学対話とはどういうものかを概念的に語る前半から、後半に移るにつれ実践的なノウハウの比重が高まっていきますが、その移行が自然で、概念とノウハウとが接続し、全体として理解できました。
哲学対話でのこのルールは、このような考え方から導かれているんだな、哲学対話に子供を参加させる意義はここにあるんだな、などと前半と後半が融合しつつ理解が進む感じです。
単に表面上のノウハウを知るだけでは応用が利かず不安だし、かと言って、概念だけだと実際やってみることもできないので、こうやって、概念的な理解と手取り足取りのノウハウとがパッケージで示されることで、とりあえず、哲学対話の場を作ってみよう、という気になれそうです。哲学カフェ主催者として読んでも、この本を読んだあとで、1回でも生で哲学対話の場に参加しさえすれば、とりあえず、哲学対話の場を開くことは可能だと感じました。
僕自身は、哲学カフェを紹介するサイトを作ったり、哲学カフェも10回以上開催しているので、この本に書かれていることのある程度の部分は既に知っていたり、自分でも考えたりしていたけれど、それでも、新たに気付かされることは多かったです。
一方で、自分自身が考えてきたこととの違いも感じました。なお、この違和感は、この本の欠点ではありません。そもそも哲学対話自体をこのようにまとめた書物というものは今までなかったと思います。そこに理論と実践をつなげた書物がようやく現れた。哲学対話の理論と実践に興味がある僕としては、ようやく、批判的に読み解くことのできる本に出会うことができてワクワクしているのです。
・・・
ということで、ここからは、細かく批判的に嬉々としてツッコミを入れていきたいと思います。ここからはネタバレなので、既に読んだ方だけが、どうぞお読みください。
1 この本の熱さについて
まず、僕の立ち位置を明らかにしておいたほうがいいと思うけれど、僕は、この本で言う「哲学好き」です。「もともと(哲学的な)疑問をもっていて、あれこれ悩んでいるうちに、どうやらこれは哲学というものらしいと気づくパターン」(p.121)です。残念ながら、哲学の道には進みませんでしたが。
だから哲学と対話で分けると、僕は、哲学から対話に入ったタイプです。たぶん、こういう人は少数派だと思います。
いや、そうでもないと思うかもしれません。哲学研究者もたくさんいるじゃないかと。確かに梶谷さんも含め、多くの哲学研究を出自とする方が哲学対話に入ってきています。ただ、哲学研究界隈の方は過去にひととおり哲学研究をどっぷりやっていてお腹いっぱいだったり、現在でも哲学研究を並行していたり、という事情があるからか、意外と哲学を哲学対話に持ち込んでいないように感じます。
しかし、私のような、「哲学好き」だけど哲学研究に関わることのなかったタイプの人間にとっては、哲学対話の場こそが哲学の場で主戦場なのです。
哲学対話に入ってくる人を分類すると、こんな感じでしょうか。
1)哲学はよく知らないけれど、哲学的なテーマで対話することに興味を持った人=多くの普通の参加者(哲学対話実践者としても多数派)
2)哲学を研究してきて、そのノウハウを活かせる対話の場として哲学対話に興味を持った人=梶谷さんなど(哲学対話実践者としては意外と多数派)
3)もともと哲学が好きで、哲学する場として哲学対話に興味を持った人=僕など(参加者としても実践者としてもいなくはないけど、どこでもちょっと肩身が狭い・・・)
3)に属する僕は、哲学から哲学対話に入った少数派として、どうしても、対話から哲学対話に入るということが理解できなかったのです。
対話を重視する方に対して非常に悪意に満ちた言い方をすると、「それなら、輪になってのんびり話せたら、別に哲学じゃなくてもいいんじゃないの?」と言いたくなる感じ。
まあ、そうは思えないからこそ、「そこで行われているのは一体なんなのだろう」と哲学対話の実践に哲学的興味を持っているのですが。
だから、梶谷さんが、この本で述べている、哲学対話の意義としての「考える」ということと、自由と責任の話はとても興味深かったです。対話から哲学対話に入る道はこうなっているのか、と腑に落ちました。
確かに、この本が述べるような意味で「考える」ということは大変重要だと思います。
僕の理解では、考えるとは、自分で自分の人生をしっかり言葉で捉えるということです。
そして、自分の人生をしっかり捉えるからこそ、自分の人生を生きる権利(梶谷さんの言い方では責任)が与えられ、自分の人生を真に自分のものとして生きる自由が生まれるのです。
(これは、多分、全く哲学書ではないけれど、僕がなかなかいい線いっていると思う「7つの習慣」の第一の習慣「主体的であること」と重なるし、多分「7つの習慣」の元ネタのひとつである、「夜と霧」で有名なヴィクトール・フランクルの考えとも重なります。いつか、これらの本が言っていることの説得力が何に由来するのか、哲学的な文脈で論じてみたいです。)
そのような意味での「考える」は、確かに、哲学好きであろうとなかろうと、哲学研究者であろうとなかろうと重要でしょう。
そして、哲学対話というやり方は、この「考える」を身につけるための唯一の道ではないにしても、かなりお勧めの道であることは確かだと思います。
多分、このような道筋で、人を哲学対話に導くのは、とてもまっとうなやり方であり、いわば、哲学対話への表玄関だと思います。
だけど、一方で、僕は、少数派であり、哲学のほうから勝手口を通って哲学対話に入ってきた人間です。
僕は、哲学対話は、哲学的に唯一の解であり、そこに哲学の本質があるのではないか、という仮説のもとに哲学対話に入ってきています。梶谷さんの言うようなお勧めというだけでなく、唯一と言ってよいような限定的な意味をそこに読み込もうとしています。
僕の考えはともかく、同じ哲学対話というものを見ていても、僕から見える景色と、梶谷さんから見える景色は、多分、見える角度が違い、違うものが見えている、そんな気がするのです。
その違いが現れていると思う代表例がルールについてです。
最初、ルールが列記されている部分(p.47)を読んで、まず思ったのは、「8つもルールがあるなんて多すぎる。」というものでした。
特に「②人の言うことに対して否定的な態度をとらない。」については、僕の哲学カフェでは採用していないし、僕が参加者として、この点を注意されたら困ってしまいます。
ある意見に対してきちんと理由を明示して反論し、別の意見を主張するという過程は、議論を深めるうえでは必須のものとすら思います。
多分これは微妙な問題で、この本でも「人を批判するのではなく、相手の意見を批判するならかまわないということである。しかし、たいていの人は、冷静にそのような区別はできない。自分の意見を批判されただけでも、発言は慎重になり、言いたいことを言えなくなる。」(p.55)としています。
つまりは、「本当は人格の批判ではなく意見の批判ならいいけど、危ないから、便宜上、両方禁止しておきましょう。」ということなのでしょう。
同じような問題は、「進行役(ファシリテーター)の役割」の部分でも現れていて、「哲学対話にとって、参加者の自発性、主体性は何より重要である。対話の内容じたいは、進行役が上手に問いかけて導いていけば、哲学的になっていく。だがその場合、下手をすると、参加者はだんだん受け身になって、進行役がうまく進めてくれることを期待するようになる。」「進行役が有能であることは悪いことではないし、必要でもあるが、対話をどれくらい仕切るかは別問題であり、慎重でなければならない。」(p.234-5)とあります。
この部分を読んで、僕は自分自身の進行を振り返り、結構介入して、哲学的に深める方向にいっちゃってるなあ、これって梶谷さん的にはまずいのかなあ、なんて思いました。
あと、細かいところでびっくりしたのが、梶谷さんは、対話の時間は1時間くらいを推奨している点です。正直、哲学カフェでこれは短いのではないでしょうか。世の哲学カフェの標準開催時間は、多分、2時間から2時間半くらいだと思います。
だけど、これらの違いが、全て、梶谷さんと僕の見えている哲学対話の角度が違うから、ということであれば、全て腑に落ちます。
梶谷さんは、徹頭徹尾、全ての人に「考える」をやってほしいのです。
本気で「0歳から100歳まで」全ての人に、哲学対話に触れてほしいのです。
そのためには、誰にとっても安全な場でなければならならず、うっかり否定的な言葉を投げつけて傷つけられることなどあってはならない。また、少々哲学的な深みがなくても、主体的に「考える」ことだけは絶対に確保されなければならない。誰もが手軽に参加できるよう開催時間も短くしたほうがいい。ということなのでしょう。
確かにそのとおりだと思います。
一方で、僕の哲学対話は、あえて哲学カフェに参加しようと思うような一部の人たちに向けてのものだから、哲学的に深めたい、少々進行役が介入しても、否定的な発言があっても大丈夫だし、どうせ参加したなら、2時間くらい話しきったという満足感を持ち帰ってもらいたいし、となります。これは、参加者に応じた別の設計になっているということで、つまりは、僕は参加者を限定しているのだと思います。
だから、もし、僕の哲学カフェに参加して嫌だったら来なければいいだけだし、そもそも哲学したい人だけが来ればいいし、と、どこかドライに割り切っているのだと思います。
だけど、その割り切りを梶谷さんは許さない。一人残らず哲学対話に引きずり込みたい。そこにこの本の根底に流れる熱さの源流があるように思うのです。
この熱さはこの本全体に漂っています。
例えば、この本のノウハウの部分については、正直、かなり、梶谷さんなりのやり方「だけ」が書かれているなあ、と感じます。梶谷さんの理論と実践に裏付けられた確かなノウハウではあるし、僕のやり方のほうがいいとは言わないけれど、他に選択肢があるということをもう少し匂わせてもいいんじゃないかなあ、と思います。
だけど、それはあえて書かない。変に言い訳めいた選択肢を幅広く提示してしまったら、哲学対話の場を開きたいと思った人が戸惑ってしまう。大丈夫、この本に書かれていることをそのとおりやれば、とりあえずは哲学対話ができるよ、と力強く後押しすることに主眼がおかれているように思うのです。
進行役があまり介入しないやり方を推奨していることも、ルールをきちんと設けていることも、慣れない方が初めて哲学対話の場を開くことを念頭に置いていると考えれば腑に落ちます。
多分、進行役が上達したら、多少介入しても大丈夫です。ルールだってあえて事前に宣言しなくても、大抵の場合、問題が生じた時点でその場で解決できます。だけど、それは、そのうちできればいいことで、最初は、一番確かなやり方で、とりあえず、みんな哲学対話をやって、とりあえず「考える」を始めようぜ、ということなのだと思います。
2 自己との対話について
この本で特に嬉しかったのは、一人で哲学することも、哲学対話の仲間に入れてもらえたことです。「「問い、考え、語ること」という意味での哲学もまた、一般の哲学と同様、自問自答しながら「自己との対話」を通して一人で行うこともできる。」(p.33)というように。哲学対話界隈の方には、一人で哲学をすることがどうでもいいことのように思われているような気がして少々寂しかったのですが、こう言ってもらえてうれしかったです。
だけど、僕は別に孤独でつらい作業が好きな訳ではなく、哲学の中でも、僕の興味がある、ちょうどその部分を話せる相手がいないだけです。そういう意味では、世の普通の人が一人で「考える」のも同じことのような気がします。哲学対話で一般的な親子関係のことは話せても、自分の親と自分のことを細かい事情まで真にわかっているのは自分しかいないから、人は一人で悩み、考えざるを得ないのだと思います。
だけど、それでも、哲学対話をすると、みんな結構似てるんだなあ、なんて思えて、救われた気になります。この感じも、哲学好きでも、そうでない人でも、まあ、似たようなものなんじゃないかな、とも思います。
3 対話がうまくいってるときの浮遊感
この本の大きな成果のひとつは、「対話が哲学的になった瞬間は、感覚的に分かる。全身がざわつく感じ、ふっと体が軽くなった感じ、床が抜けて宙に浮いたような感覚、目の前が一瞬開けて体がのびやかになる開放感、などなど。」(p.40)と言語化したところだと思います。
確かにそのとおりで、これまで、なんとなく、そういうのあるよね、と話したことはあったけど、こうして明確化し、哲学的に重要なものとして位置づけたことはとても面白いです。
そして、そのような感覚は、机などに遮られず、きれいな輪になって座ったときのほうが訪れやすいというのも確かなような気がします。
なんとなく、僕は、哲学対話とは、円の中心に対話の神様が降ろす儀式でもあるような気がしていて、コミュニティボールというのは、その神様を象徴したもののようにも思います。
(この神様というのは、あくまでも比喩です・・・)
4 2時間のショータイム
梶谷さんは、熱く、理想的です。例えば、「心や体に病を抱えた人、親族を亡くした人・・・」(p.68)に対して「互いに恐れず、問題をしっかり受け止め、いっしょに考えることだ。」(p.69)と力強く宣言します。僕も全く同意します。哲学対話とはそういうことだと思います。
しかし、とても難しいと思うのが、2時間、または梶谷さんなら1時間という制約です。
僕は、哲学対話とは、哲学カフェに来ている2時間以外の時間でもやってほしいと思うからこそ、この2時間を、理想的な哲学対話の見本とし、そして哲学対話に良い思いを持って帰ってほしいと思っています。
その時間的制約があるなかで、あまりにも大きな問題を抱えることは、難しい場合もあるのではないか、と思います。
例えば、僕は、梶谷さんが避けようとしている批判的な発言についても、理想論としては、哲学対話で問題解決できると考えています。もし批判的な発言があり、それを嫌だと思う人がいたら、それがどうして問題なのかしっかり話し合えばいいのです。しかし、それをしていたら時間に収まらなくなるから、とりあえずは、批判はいけない、というルールをつくったほうがいい、となります。
それと同じように、個人的に悩みにどこまで立ち入るか、という問題についても、持ち時間を考えると、あまり立ち入らないという解決方法も、とりあえずはありうるような気がします。
5 哲学対話における「自由」
僕も、哲学対話により、人生を生きる自由を手に入れるという大筋は大賛成です。
しかし、自由のありかについては、違う意見です。
梶谷さんは、自由の根源を「感覚としての自由」(p.89)に求めます。そして、その感覚を、「自分から切り離し」(p.92)「相対化」「対象化」(p.93)することと接続させます。
自分を対象化、相対化して振り返り、自分から切り離すことで、先程話に出たような、哲学対話においてしばしば感じるような浮遊感が生じるということになります。
しかし、僕は、とりあえずは、この2つは別物だと思います。
僕はこう考えます。
哲学対話とは、言葉による営みです。言葉は、物事を相対化し、対象化します。そして、対象を詳細に分割し、そこに新たな選択肢を見出します。
例えば、悲しいことがあって言葉にできないほど落ち込んでいる人がいるとします。しかし、哲学対話により、それが、例えば「親の死に対する悲しみ」と名付けられたとたん、それは、一般的な「親」の「死」に対する「悲しみ」の話となります。そして、「悲しみ」と名付けられたからには、「悲しんでいない」状況も一つの可能性として立ち上がり、そして、これまで数多くの人たちがたどってきた、悲しみから回復する一般的な物語さえも立ち上がります。
そこまで極端な例ではなくても、言葉を紡ぐことで、その言葉が、思いもしなかった視点を提示し、そこに新たな選択肢を見つけ、そこに新たな可能性を見つけるということは、いわゆる哲学対話の場ではなくても、よくある話だと思います。
僕は、この言葉の働きこそが、哲学対話における「自由」なのではないかと考えています。
それでは、対話がうまくいってるときの浮遊感、あの自由な感覚はなんなのでしょう。
僕は、それは自分の殻を破ったという自由、自己からの自由だと思います。
梶谷さんが悪い例とする「(相手を受け入れ)相手と距離がとれずに一体化してしまったりする」(p.170)こととは別の意味での相手との一体感。
意見や感覚を共有する訳ではないけれど、存在レベルで、自分の境界が溶けて、相手と一体になるような一体感なのではないかと思います。うまく言えないけれど。
それが、少々、梶谷さんが言っている道筋とは違うけれど、まさに「他者と共に感じる自由」(p.96)なのではないかと思います。
そして、それを駆動するものは、「身振り手振り、表情や眼差しの交わりなどの身体的なレベルのやりとり」(p.174)であり「場を共有すること」(p.170)ではないでしょうか。
そして、言葉が立ち上げる自由と、他者と場を共有することによる自己からの自由とは、とりあえずは、別物と考えておいたほうがいいのではないでしょうか。(同じものの別な側面、という方向で論を進められそうな気もしなくはないですが・・・)
6 専門家の哲学
「哲学する」と「いわゆる学問としての哲学」の関係について、この本は少々歯切れが悪いけれど、僕は、哲学研究者ではなく、そこらの哲学好きだから、簡単に言えるので言います。
「いわゆる哲学研究者でも、哲学していなければ、哲学者ではない。」
逆に言えば、傍目から見て、そこらの一般の人が、いわゆる哲学の伝統から全くかけ離れていて、誰の参考にもならない妄想にしか見えなくても、本人が哲学していれば、その人は哲学者だということです。
以上は、揺るぎなく、自明のこととして正しいと思います。
このことを、この本では「思うに、元来は“哲学の問題”があるというよりも、物事の“哲学的な問い方”があるだけなのだ。」(p.124)と言っているのだと思います。
ここまでは当たり前すぎるかもしれないけど、見逃されてはいけないのは、傍目から見て、どんなに重箱の隅をつつくような、タコツボ化した些細な研究に見えても、その人にとって哲学的に重要で、彼の人生において問わずにいられないようなものであれば、それは、哲学だということです。
だから「専門的な哲学の問題は、結局のところ、誰にとってもほとんどの場合、実生活には関係ないのである。」(p.121)というのは誤りだと思います。誰にとっても関係なければ、それは哲学の問題ですらなくて、それが哲学の問題であるからには、それを、哲学対話における哲学と全く同じ意味で、本気で哲学してきた人がいるはずです。
そして、残念ながら、その人にとっての本気の「哲学する」なのか、そうではないのかは、なかなか研究を外見から見てはわからないのかもしれません。
一方で、逆にレベルが低すぎて哲学とは思えないような問い、例えば「今日は何を食べるか?・・・」(p.123)といった問いも、本気で問うているなら、それは哲学だと言っていいと思います。本気で問うならば、それは全て哲学的な問いだということです。だからこそ、このような問いも、少し加工するだけで「哲学的な次元に入っていくことができ」(p.123)哲学的な問いと地続きだと言えるのです。全ての問いは哲学的な問いなのだけど、そのうちのかなりの部分は、歴史的にいわゆる哲学の文脈で捉えられることはなかった、というだけのことだと思います。
このように幅広く捉えると、哲学という意味が拡散しすぎるかもしれないけれど、僕にはこっちのほうが楽しい話になりそうな予感があります。
7 受け止める
最後に、僕にとって一番分が悪いところを書いてきます。
梶谷さんの言う「受け止める」(p.166)が、実は、よくわかりません。
これは、梶谷さんの言い方や言っている内容が問題なのではなく、僕の方の問題のような気がします。どうも、直感として、梶谷さんはここでかなり大事なことを言っているようなのだけど、僕はそれを受け止める準備ができていない。そんな気がするのです。
もし、これを受け止めたら、少なくとも「5 哲学対話における「自由」」で論じたようなことは、ひっくり返りそうな予感があります。もう少し考えてみたいと思います。
・・・
以上、批判的なところばかり挙げてしまいましたが、しつこいですが、この本はとてもいいです。
例えば、知識と対話の関係について「確かな知識によって土台と軸が与えられれば、対話は焦点が定まった仕方で深めることができる。」(p.144)なんて、すごくかっこいい。
また「哲学対話をしていると、老若男女、世の中に本当にバカな人、訳の分からない人はいないという気がしている。」(p.158)なんて哲学カフェに自主的に来る人としか哲学対話していない僕には、わからない重い言葉だと思う。
このような素敵な言葉たちが、梶谷流哲学対話というひとつの体系のなかに、きちんと収まっている、それも行儀よく収まっているのではなく、熱く、挑発するように入れ込まれているというのは、とてもかっこよかったです。
僕も、読んでいて「グダグタ考えてないで、もっと哲学対話してみろよ。」と言われているような気がしてきました。
だから、この文章は、この本「考えるとはどういうことか」について、活字で哲学対話してみたつもりです。(当然、仮想の対話の相手は梶谷さんです。)