1.5 ここからの展開

以上で感想は終わり、ここからは批判を含めた考察となる。冒頭で宣言したとおり、徐々に入不二から距離をとり、僕独自の考察に入っていく。

当然、僕自身の哲学よりも入不二哲学に興味がある読者のほうが多いだろうから、好きなところで読み終えていただきたい。当然、ここで読み終えても結構だ。僕自身、入不二の議論に即している前半は端切れがよくても、終盤に向かい、入不二から離れて独自考察になっていくにつれて自信がなくなっていくと予想している。最終盤は多分、僕自身にしか価値がないメモ書きのようなものになってしまうだろう。そのようなものに、どこまで読む価値があるかは保証できない。

1.5-1 この考察の方向性

読む価値があるかどうかを皆さんに判断いただくため、ここから行う考察の方向性を簡単に示しておこう。

ここまでも述べてきたとおり、僕は円環モデルを大いに評価している。多分、円環モデルには真理が含まれている。だからこそ円環モデルにこだわって論じていきたいと考えている。

だが一方で、円環モデルは不足しているものがある。それは三次元の高さだ。三次元の高さも考慮するなら、円環モデルは螺旋モデルに発展すべきではないか。

入不二自身もp.22で螺旋モデルを提示している。しかし、その後、螺旋に含まれる三次元のベクトルは垂直の矢印として書き込まれる現実性の力として捉えられ、円環と矢印の複合として表されることになる。

補助線としての円環モデルがそのようなものであるだけでなく、入不二の議論全体がそのような図式を踏まえて進んでいるように思う。

僕は、入不二の議論をほぼ全面的に受け入れるけれど、ここには発展の余地があるように思う。螺旋モデルは円環モデル+矢印には置き換えられないのではないか。

そのことを示すために、まずは入不二が円環モデルの日没(6時)に見出す転回を別のかたちに読み替えたい。入不二は6時の転回を意味論・認識論から存在論への転回として位置づけているように思うが、それに反して僕は、この転回を意味論から認識論への転回として位置づけたい。つまり、日没以降の夜の領域、つまり潜在性の領域とは、認識論優位の領域なのだと主張したい。

そこで僕が行うのは、入不二がマイナス内包として表現するような潜在性の力を弱める作業だ。認識論をひきずっているマイナス内包の潜在性には何かを生み出す力はない。入不二が産出力と表現するものは、産出しそうなものとして認識されるに過ぎない「みせかけの力」に過ぎない。真の産出力とは、認識論をも振り切った無内包の現実性にしかないと僕は考える。円環モデルの12時から0時への飛躍の奇跡とは、平面上でのマイナス内包から無内包(脱内包)への移行ではなく、垂直の矢印として表現されるような現実性の力がむき出しで現れることの奇跡なのではないか。

この文章において、僕は寄り道をしながらではあるが、以上のようなことを主張しようと企てている。

なお、仮にこの主張が成功したとしても、それは入不二の議論を否定することにはならないと考えている。

なぜなら、この議論は、入不二が見出した現実性の力をより大きなものとして捉えることを目指すものだからだ。入不二が捉えたものを入不二が表現するはずだったように表現したい。僕にはそんな野望がある。

1.5-2 みそっかす哲学者

僕は入不二ファンだ。僕は、入不二がこの本でも、森岡や永井や野矢を相手にして見せている、相手の主張の最もよいところを見出し、それを更に先に伸ばしていくような議論の進め方が好きだ。

大それたことだと知りつつも、僕は同じことを入不二自身に対してやってみたい。そんな思いでこの文章を書いている。

この思いは、この本の冒頭で登場する小学生の入不二少年を使って表現することもできるだろう。

入不二少年は大人の誰からも理解されず孤独だ。なお孤独と言っても寂しさはない。正確には孤高と言ったほうがいいだろう。僕はそんな入不二少年のクラスメイトになりたいのかもしれない。

当然、入不二少年はクラスメイトの僕に対して、お前だって俺が言っていることを理解していない、と言うだろう。だけどこっちも入不二少年に対して、お前だって僕のことをわかってない、と言い返すことはできる。子ども同士であれば、大人との間では築くことができない対等性がある。入不二と他の哲学者との間には、そんな孤高の者同士の対等の関係性がある。(多分、これは入不二先生に限らず、哲学者というものはそういうものなのだろう。)

僕は、この文章を書くことによって、そんな関係に加わりたいのかもしれない。「みそっかす」としてであっても。

(一般的な用語ではないかもしれないので説明しておくと、僕が子どもの頃、近所の友達とボール遊びなどをしているとき、誰かが小さな弟を連れてくることがありました。そんなとき、小さい子と対等に遊ぶことはできないので、「みそっかす」と呼んで、手加減して対等に遊んでいるように思わせていました。)