これから始めるのは、言語と瞑想についての話である。
まず、言語の側からの導入として、一週間くらい前の夜のうちのネコとの話をしておきたい。
そろそろ寝ようと思ってトイレに行ったあとだっただろうか、僕のあとをくっついて歩いていたネコが、先回りして二階に向かう階段を駆け上り、僕の目の高さまで上がったうえで、僕に向かってニャーと啼いた。何がご所望なのかよくわからないけれど、なにかしてあげないとなあ、と思い、抱きかかえてエサがある皿の前まで運び、キャットフードに我が家の用語でのフリカケ(犬猫用のビーフジャーキーを砕いたもの)をかけてあげた。
ムシャムシャ食べるネコを見ながら、僕はぼんやりと、ネコの言葉がわかったら、本当は何をしてほしかったのかがわかるのになあ、なんて考えていた。さっきの僕はなんとなくご飯かな、と思ったけれど、もしかしたら、おもちゃで遊んで欲しかったのかもしれないし、抱っこしてほしかっただけなのかもしれない。
そんなことを考えていて、ふと思った。言葉はたしかに便利だけど、もしネコと言葉が通じてしまったら、ネコが何を考えているのか思いを巡らせることもなくなってしまうのではないか。ネコとは言葉が通じないからこそ、ネコについて深く考えるとも言えるのではないだろうか。言葉と思いを寄せることとはどこか相容れないところがある。
もうひとつの導入として、瞑想の話もしておきたい。素人の不確かな情報だけど、瞑想にはサマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想の二種類があるようだ。サマタ瞑想とは、目の前に置かれたロウソクの炎や「息を吸う時に鼻の穴を空気が通る感触」のような特定のものに意識を集中させて瞑想するもののようだ。ヴィパッサナー瞑想は、あらゆるものごとを観察するようなかたちで瞑想するもののようだ。どうも言い回しがあやふやなのは、きちんと勉強をしたことがなくて知識がないからだけど、多分、不備はあっても大きく間違えてはいないと思う。一点集中のサマタと全体的なヴィパッサナーというイメージを持てさえすれば、少なくとも僕がこれから書く文章を読む上では十分だろう。
なぜ、言語と瞑想をつなげるのかといえば、まあ、どちらも僕が興味を持っているからなのだけど、内容としても、両者には「切り替え」という共通点があるように思うからだ。
瞑想に「切り替え」があるのは明らかだろう。一点集中のサマタ瞑想から全体に注意を向けるヴィパッサナー瞑想に移行※するためには何らかの切り替えは免れないはずだ。(※両方向への移行がありうるけれど、ネットで見ると、サマタ瞑想を練習してヴィパッサナー瞑想に進むのが一般的なようなので、そちらを例にしています。)
なぜなら、例えば、鼻の穴の空気の流れを感じることと、身体全体で感じることの間には飛躍があるからだ。その飛躍を緩やかに徐々に埋めていくことなど不可能に違いない。
その不可能性は、その緩やかな拡大の道のりがあまりにも遠大だからとも言える。鼻の周囲に集中するのに3分かかったとして、その集中を口に広げ、目に広げ、耳に広げ、とやっていたら、それだけでも単純計算でも3分×4(鼻・口・目・耳)=12分かかるし、同様のペースで身体全体に広げるならば、きっと何時間もかかるだろう。そんなに集中力を保てるはずがない。
だけど、より根源的な不可能性は、鼻という部分への意識の集中により、その集中の対象には面積のような数量性が失われるというところにあるだろう。鼻に集中するということは鼻のみが意識の対象であり、意識の対象の全てが鼻となるということである。他に比較対象がない状況では、鼻が全体に占める割合や面積といった数量のようなものには意味がなくなる。集中の対象が面積ゼロとなってしまえば、ゼロに何を掛けてもゼロのままとなる。そもそも集中の対象を拡大するということには言葉遣いからして無理があるように思う。集中と拡大は矛盾していると言ってもいいだろう。このような経路から導かれる不可能性こそが一部を全体に徐々に広げることの不可能性の本質だろう。
では、どうやって一部に集中している状況から、全体に集中している状況に至ることができるのかといえば、それは何らかの切り替えによるしかないはずだ。(僕は瞑想が上手じゃないから、あくまで予想です。)一部への集中を練習することで集中するという作業に慣れて、それを全体への集中へとステップアップするという感じなのではないだろうか。心機一転、よし次回は全体への集中を練習するぞ、と気持ちを切り替える感じといえばいいのだろうか。(あくまで予想です。)
次に、言語についても「切り替え」があるという話をしたいと思う。
完全に僕が好きな哲学者である入不二基義の受け売りだけど、言語には否定を介して全体を指し示すという特殊な機能がある。例えば、青を否定して「非青」とすれば、「非青」は赤や黄色や緑といった青でない全ての色を指し示すことができる。成田空港の入国ゲートに「日本人」と「日本人以外」という二種類のゲートを設ければ、全ての入国者をいずれかのゲートに案内することができる。「青」+「非青」とすればすべての色を示すことができるし、「日本人」+「日本人以外」とすればすべての人間を示すことができる。
念のためだけど、これは決して青や日本人を優遇している訳ではない。「山吹色」+「非山吹色」でも、「ローマ教皇」+「非ローマ教皇」でも(ローランド+非ローランドでも)同じことだ。
言語がここで行っているのは否定を介した切り替えだと言っていいだろう。青が非青に切り替わっているのだから。
僕は、この瞑想の切り替えと言語の切り替えは深く関わっているのではないかと考えている。なぜなら、言語が「青」+「非青」とすることで全体を指し示していることと、ヴィパッサナー瞑想が全体に注意を向けるものであるということとは、「全体」という面で共通点があるからだ。瞑想においても、一点集中のサマタ瞑想から、非サマタ瞑想とでもいうべき瞑想の反転が起こり、ヴィパッサナー瞑想に至るのかもしれない。
ただし、言語においては、正確には、青から切り替わる先は非青であり、色全体ではない。それならば鼻の先にだけ集中しているサマタ瞑想から、非サマタ瞑想に至っても、それは、鼻の先以外のすべてに集中する瞑想にしかならない。それでは画竜点睛を欠くような気がする。
では、言語においては全体を捉えることはできないのかといえば、そのようなことはない。全体は、青から非青への切り替えを可能とするような全体を見渡す視点として現れる。青も青以外の色もいずれにせよ色の一種だよね、と全体を見渡す視点があるからこそ、青から非青への切り替えが可能となる。一点集中のサマタ瞑想から全体に注意を向けるヴィパッサナー瞑想への切り替えにおいても、同様に、集中というものをメタ的に捉えるような視点に切り替えを行うことで全体に至ることは可能であるように思える。
(青+非青というかたちで加算表現をすることで全体を指し示すことができるが、このような説明も、そのような加算を可能とするような場を想定するという点で、視点の切り替えを行っていると言える。)
また、メタ的な視点への切り替え以外にも切り替えの道筋はありそうだ。
ひとつ思いつくのは、客体から主体への切り替えだ。僕が青いコップを見ているとき、そこには青しかない。だけど、注意を青いコップではなく、それを見る主体、つまり僕自身に注意を向けてみる。そうすると、そこには青いコップを見ている僕がある。青いのはコップではなく、僕自身がそう感じているだけだということに気づく。僕が別のものを見れば、そこには黄色があるかもしれないし、また別のものを見れば、そこには赤があるかもしれない。いわば、僕のなかには全ての色があるとも言える。つまり、コップという客体から、僕という主体に注意を切り替えることで、僕のなかにすべての色を見出すことができる。このような捉え方が瞑想と親和性が高いかどうかはわからないけれど、内観に向かうという点では、なんとなく瞑想っぽいアイディアのような気もする。
ほかにも、コップの色ではなく、コップのマテリアルとしての大きさや形のほうに注意を向けるというやり方もあるかもしれない。そうすれば、そこにはコップが様々な色を持つ、潜在的な可能性を感じることができる。可能性というかたちで色全体にアクセスする道筋もありえるように思う。
重要なのは、意識の切り替えには色々なやり方があり得るということであり、きっと、瞑想での切り替えは、そのいずれのやり方も含みつつ、どのやり方よりも深いところで切り替えを行っているのだろう、ということである。
そして、僕の興味は、それをどこまで言語で捉えることができるのか、ということであり、僕の問題とは、その切り替えを、どこまで、言語的なものとして解釈すべきなのか、ということだったとも言える。
だけど、先日、ヨガの先生が興味深いことを言っていた。(その日はもうひとつ一つ興味深い言葉があって、それはhttps://dialogue.135.jp/2021/06/13/kokyu-gyaku/に書いている。)
先生は、瞑想の手順の話のなかで、「最初は呼吸により空気が鼻を通る感じや心拍に集中して、その集中を徐々に身体全体に広げていく。」というような話をしていたのだ。先生はサマタやヴィパッサナーという言葉は使っていなかったけれど、これは明らかにその類の話だ。サマタからヴィパッサナーに徐々に移行するなんていうことが可能なのだろうか。ここまで論じてきたような「切り替え」のない道筋なんてあるのだろうか。
実は、この問題については既に僕の見解は述べている。サマタ瞑想で一点集中するということは、その集中の対象が面積ゼロになるということだから、ゼロに何を掛けてもゼロにしからないように、ゼロを徐々に拡大するなどということは不可能であるはずだ。
だが僕のこの主張は机上の空論だ。瞑想の初心者の想像に過ぎない。瞑想に限らず、現実というものはいつも想像の斜め上をいく。論理的なギャップが、瞑想の実践により軽々と飛び越えられていくということは非常にありうる。だから、先生の言葉には真実が含まれているような気がする。(現実にはギャップを飛び越える力があるという話は、入不二の円環モデルの12時のギャップの話と通じると思う。)
もしそうならば、言語における切り替えはどうなるのだろう。もし瞑想の実践において(もしかしたら、瞑想に限らず、人生全般としての実践において)「切り替え」が決定的な役割を果たしていないならば、言語における切り替えをどのように位置づければいいのだろうか。
多分、その答え方としては、言語を実践のなかに位置づける方向と、言語を実践の外に位置づける方向とがあると思うけれど、そのどちらを進むべきなのかは、僕にはわからない。
ただ、冒頭のネコについてのエピソードを思い出すと、言語というのは現実を切り刻んでしまうところがある。ネコが語る言葉に頼り切り、ネコの現実の思いに目を向けなくなったとき、言語は僕とネコの間を切り裂き、そこに分断や切り替えを招き入れる。
僕は哲学カフェをやっているのだけど、うまくいっているときの哲学カフェのような理想的な状況であれば、言葉がすべてを解決してくれるという楽観的な立場だった。だけど、言葉だけじゃないんだよな、そんなことを感じた二つの出来事だった。