月別アーカイブ: 2017年6月

合成された問題

哲学的な問題には、合成された問題というものがあるんじゃないかと思いついた。

応用倫理学における問題は、だいたいがこの合成された問題なのではないか。
例えば、堕胎は許されるかという問題は、何が悪かという問題と、どこからが人間かという問題が合成されている。
そして、善悪を判断するという一面のみで、どこからが人間かを定義しようとする。「妊娠◯ヶ月になったら、その胎児は痛みというものを感じているような振る舞いをする。人に痛みを感じさせることは悪いことだから、その時点から、堕胎は認めないべきだ。」というように。

確かに、何が悪かという問いも、どこからが人間かという問いも、とても興味深い哲学的な問いだ。だから、この二つが合成された、堕胎は許されるかという問いも確かに哲学的な問いだ。

しかし、どうも、この問いに人生を賭けようとは思えない。どうせなら、何が悪か、どこからが人間か、という問いに直接切り込みたい。
確かに堕胎のことを考えるのは、一つの思考実験として、人間の成長過程において、どこからが人間かを考えるのに役立つ。
だけど、それはあくまで手段であって、僕の疑問の本丸は、どちらかというと、どこからが人間か、という問いだ。

だからと言って、堕胎は許されるか、という方向の問題に惹かれる人の気持ちもわからないでもない。

多分、それは、そこに合成の妙味があるからだろう。何が悪か、どこからが人間か、というどちらかというと無味乾燥な問いが重なり合い、合成されることで、堕胎は許されるか、という生き生きとした問いが生まれる。

そこには、合成だけに留まらない、生命の付与とでもいうべき儀式があるように思える。

・・・

そのことをちょっと視点を変えて考えてみたい。
ちょっと今までの話をひっくり返して、全ての哲学的な問いは合成された問いなのではないか、そんな地点から考えてみよう。

例えば、目の前にあるコップを見て、このコップは確かにあるのか、と疑問を持ったとしよう。これは、かなり哲学ド本流な問いだ。
ビッグフットはいるのか、とか、原子は本当にあるのか、というような、問う理由がある問いとは違う。ビッグフットはいるのか、という問いは、人間の証言は信じられるのか、とか、足跡があれば足もあると考えるべきなのか、というような問いが合成されたものだろう。原子は本当にあるのか、という問いは、電子顕微鏡が事実を表しているのか、とか、実験の結果がどのくらい積み上がればその結果を信じられるのか、というような問いの集まりだろう。これらは、先ほどの合成された問いであり、生き生きとしてるけど、一方で、突き詰められていなくて中途半端な感じがする。
一方で、コップは確かにあるのか、という問いは、これ以上分解するのは難しい。かなり根源的な問いだ。問う理由がわからないのはそのせいだ。ビッグフットにとっての足跡とか、原子にとっての顕微鏡のような、疑い、考える手がかりすらない。こういうツルッとした問いだからこそ、この問いは、哲学の深淵へと僕達を誘う。

だけど、こんな問いですら、更なる分解は可能だ。コップが確かに存在すると認識できるのはどういうことか。コップが存在するとはどういうことか、この皿ではなくこのコップについて存在を問うとはどういうことか。というように。これらの問いは、認識、存在、様相といった哲学の大問題に直結している。

思うに、認識、存在、様相といった問題が解決することができないのは、それらが、合成された問いとしてしか立ち上がらないからだ。
コップという例を用いずに、認識そのもの、存在そのもの、様相そのものを問題とすることはできない。コップを例にした途端、認識は存在や様相から切り離せなくなり、存在は認識や様相から切り離せなくなり、様相は認識や存在から切り離せなくなる。だから、その問題だけを捉え、解きほぐすことができなくなる。

コップという例を用いることにより、哲学的な思考は受肉する。この具体化が、生命の付与の儀式だ。

コップは確かにあるのか、という問いと、堕胎は許されるか、という問いの間には、確かに具体化の程度という違いはある。
しかしそこにあるのは、あくまで程度の違いであり、質の違いではない。
それならば、どちらが哲学的な問いであり、どちらが哲学的な問いではない、と言うことはできない。
どの程度具体化し、生き生きとした問いが好きか、という好みの違いしか、そこにはない。

哲学における合成の問題は、人間が哲学を行う限り、逃れられないものなのかもしれない。

哲学とは

これも2012年頃かなあ・・・出来はよくない

・・・

哲学とは、オーダーメイドの宗教だ。

または、オーダーメイドの宗教を作ろうとして、ハサミで切ったり、縫ったりする、終わりなきプロセスだ。

または、目的など気にせず、ただ、ハサミで切ったり、縫ったりし続けることだ。

哲学は

これは、いつ書いたんだろう・・・2012年くらいかなあ・・・

・・・

哲学は奥が深い。
単に、何かがわかる、ではない。
だが、何もわからない、でもない。
だが、何かがわかったかどうかさえもわからない、でもない。
だが、何かがわかったのは確かだが、何がわかったのかがわからない、でもない。
そこには、言い表しがたい、混乱した状況がある。
その混乱を言葉で解きほぐしたいのだが、その行為自体が、まさに解きほぐそうとするもの自体だというところに哲学の奥深さがある。

僕にとって、哲学とは、空虚という底なし沼で溺れないように、なんとか足掻いているようなものだ。
確かなものであれば藁でも掴みたいが、僕のまわりには空虚しかない。
そんな絶望的な状況で、足掻きだけが、僕を辛うじて空虚から救ってくれている。

いや、空虚ならまだいい、空虚だけは確かにあるのだから。
僕は、底なし沼の底に、空虚ですらない何かを感じる。
僕は、悲観的なのだろうか。それとも楽観的にすぎるのだろうか。

少し前に感じていたこと

これは、日付が書いてありますね

ファイルを整理していたら、こんな文章を見つけた。
平成24年10月14日の日記だ。
僕は日記を書く習慣はないから、このとき、このことを書いておきたかったのだろう。
読むと、そのときの焦燥感のような、追い込まれたような気分を思い出す。
その後、僕は病気を経て、モードが切り替わり、あまり、このような気持ちにはならなくなった。
そうなってみると、このときの気持ちがかけがえないような気がしてくる。
だから、個人情報をなくしてアップしておく。

平成28年8月20日

・・・
午前中、娘が行っていた小学校での地域の祭りでの中学生で吹奏楽部に入っている娘の演奏を聴き、焼きそばなどを食べ、床屋に行ったあとで、要らない人形を明治神宮に持っていき、納める。その後、代々木公園を散歩し、渋谷のブックオフでマンガを買って帰る。盛りだくさんだった。
代々木公園の噴水の近くで佇む。民族楽器のリズムと、ビニールシートの上に座っている人の歓声。よくわからない、缶けりみたいな独自なスポーツに興じる集団。空は曇っていて、さっきまでは雨が降っていた。歩いている人々。あとでシャボン玉おじさんと判明するシャボン玉。
カート・ヴォネガットの小説を読みながら電車に乗っていたせいか、色々と考える。

この公園の人の群れは、サル山のサルや、僕の引き出しの中で飼っているアリと何が違うのだろう。
このサル山のサルの知性が存続して欲しい、という僕の願いは正当ではないのではないだろうか。というか、これが知性なのだろうか。このサルたちの何を僕は大切だと思っているのだろうか。

時間が経てば、このメランコリックな気持ちは消えるだろう。
だけど、このメランコリックな気持ちが一旦、生じたということは、僕の哲学に大きな影響があるのではないだろうか。
僕は、少なくとも、ある一瞬、人間が、知性が、営みが、どうでもいいものだと思った。少なくとも、何が大切なのか、よくわからなくなった。
もう少し、なにか、本当に大切なものには、何か、本当に大切なものがあるのではないかと思った。
この僕に、人間が、知性が、営みを守るような哲学ができるのだろうか。

怒髪天のライブ

これは2014年頃の文章かなあ・・・病気の前か後かも定かではない・・・

先日の怒髪天のライブは、なぜか色あせて感じた。その前の週のピーズのライブが良過ぎたから、とか、知らない新曲が多かったから、とか、色々と要因はありそうだけど、新曲にもいい曲はあったし、他にも理由があると感じた。
率直に言って、なんとなく、兄いのメッセージが強すぎ、その強さが、僕が求めるものと、ちょっとずれていると感じた。
そして、家に帰ってから、そのずれた感じがどういうことなのか、少し考えてみた。
僕は、兄いのメッセージを受け取るのではなく、兄いのようにメッセージを発したいのかもしれない。というか、兄いのようなメッセージを発することができる場を守りたいのかもしれない。
皆で拳を振り上げることができる、そんな幸せなライブ会場のような瞬間が、より、たくさんの人のもとに届けられ、より、長く続くような世界になればいい、というような思いが強くなってきたのかもしれない。
そんな、世界そのものを大切にしたい、というような気持ちを持ちながら聴くには、兄いのメッセージは具体的すぎる。そんな思いは、歌詞があるボーカルではなく、ギターやベースのような楽器の方がうまく表現できる。
歌詞を明確に心に刻み込もうとする歌よりも、細かいところは忘れられてしまうけれど、幸せなライブという場があるということだけを伝えてくれる演奏にこそ、今の僕にとってのライブの真骨頂はあるのかもしれない。
それでも、怒髪天のライブは好きだ。兄いも、きっと、こんな幸せなライブ会場のような世界がいつまでも続けばいい、って思っている。きっと、僕と同じ思いを持っている。それは、かなり幸せなことだと思う。

死の確率化

多分、2015年に書いた文章です。

最近、大きな病気をして、死を身近に感じた。
病気で死ぬ前というのは、きっと、とても苦しいのだろうなあ、と思ったのだ。
夜、床につき、眠るように老衰で死んだ、というようなのが多分、一番幸せな死に方なのだろうが、皆が、そのように死ねる訳ではない。

老衰のような例外的な場合を除けば、病気であっても事故であってもたいてい苦しいと思うかもしれない。しかし、病気には特有の苦しさがあると思う。

事故で死ぬ場合、当事者はどうしようもないが、一方、病気の場合、患者は、死ぬまでに、色々と選択できることがある。
少なくとも、死に至るまでのプロセスとしては、3つくらいの道筋があると思う。
第一に、病気を治そうとして、力尽きて死ぬというパターン。
第二に、どこかで根治治療をあきらめ、緩和ケアを選択し、死を待つというパターン。
第三に、どこかで根治治療も緩和治療もあきらめ、安楽死を選択するというパターンだ。
法律上認められているかどうか、医療技術的にそのような行為が可能か、といった制約はあるが、患者は、これらのうちどれかを選択しなければならない。
(なお、突然、病気で死ぬというのも、どうしようもないという意味で、事故と同列に考えていいだろう。この文章での病気というのは、癌のような、徐々に死に至る病のことを指すと思っていただきたい。)

そして、根治治療でも、緩和ケアでも、いずれにせよ、その末期には、強い苦痛が訪れる。
患部の痛みだけではなく、食事がとれないこととか、床ずれがすることとか、自分が通常の思考ができなくなっていくこととか、そういうこと全てが苦痛につながっていく。また、病気が治る可能性がどんどん低くなり、ついには絶望に至ることも、大きな苦痛となるはずだ。これは、緩和ケアでも全てを取り除くことはできない。
安楽死を選択することだって、大きな苦痛のはずだ。そもそも、既に安楽死を選択せざるを得ないほどの苦痛を味わっているはずだし、安楽死を選択すること自体が精神的には大きな苦痛となるだろう。

つまり、病気で死に至るプロセスにおいては、どの道筋を経ても、大きな苦痛がある。それでも、どの苦痛を味わうことにするか、選択しなければならない。この選択をすること自体が大きな苦痛だ。
ここに、事故とは異なる、「選択の苦痛」という病気固有の苦しさがある。

・・・

なお、昔は医療技術が進んでいなかったので、病気で死に至る過程での「選択の苦痛」はそれほど大きな問題ではなかったのだろうと思う。

死に至る苦痛のプロセスを長く感じられるほど治療はしてもらえなかっただろうし、ペストのような場合を除き、確実に死に至ると知り、絶望することも少なかったのではないだろうか。

・・・

私は、この、現代的な問題とも言ってよい「選択の苦痛」という苦しさに耐えられない。
そこで、どうすれば、「選択の苦痛」から逃れられるか考えてみたい。

私は病気で入院していたとき、病気で死ぬとしたら、一番苦しくない死に方はどういうものだろうか、と考えてみた。そして、多分、完治を目指した手術の際に死ぬという死に方が一番ましだろうと思った。
ほうっておいたら100%死んでしまうが、ここで手術をしておけば治る可能性がある。治る可能性にかけた結果、運悪く死んでしまった。これが、一番苦しくない。
死ぬかもしれない手術を選択することの苦痛はあるが、ほうっておけば100%死んでしまうのだから、そこに選択の余地はない。つまり、この苦痛は、「選択の苦痛」という病気特有の苦痛ではない。飛行機事故で、墜落までの間に死を覚悟するのと同じ種類の苦痛だろう。

また、確かに、手術後振り返れば、手術をしなければ、あと数ヶ月は生きていられたのに、手術をしたからすぐに死んでしまった、ということにはなるだろう。客観的には、そこに、手術により失われたものがある。
しかし、苦痛という観点で捉えるなら、手術をする時点では、どんなに低い確率であっても、病気が治り、死から逃れられる可能性があった。つまり、そのときには確実に死に至るなかで苦痛をただ選択させられるという「選択の苦痛」から逃れていた。その分、苦しみは少なかった。そう言えるだろう。

この「選択の苦痛」からの逃れ方を「死の確率化」と呼びたい。

・・・

しかし、全ての患者に、完治する可能性がある手術という選択肢が提示されている訳ではない。病気は進行し、いつか手の施しようがない病気になる。
それでも、、なんとか「死の確率化」をして「選択の苦痛」から逃れることはできないだろうか。これは、私には、どんな医療技術よりも必要なことのように思える。
人間はいつか死ぬ。それは免れることができない。どんなに医療技術が進んでも、数百年後、数千年後には死が訪れる。今回は手術で乗りきれても、死はいつか訪れるのだ。
そのとき、できれば、老衰のように眠るように死にたいし、それがかなわなければ、事故や突発的な病死のように、自分ではどうしようもないかたちで死にたい。
しかし、今のところ、最も多い死因は癌であることも踏まえれば、多くの人は、いつかは病気に捉えられ、手の施しようがない病気に至り、「選択の苦痛」を強いられる運命にある、と言えそうだ。

私はそんなのは嫌だ。死ぬのは仕方ないとしても、死に向かっていると知りながら、だらだらと、どの苦痛にするかを選ぶという「選択の苦痛」を強いられるのは勘弁してほしい。なんとか「死の確率化」をして、生きる可能性に挑戦した結果、敗れて死ぬほうがましだ。

本当は、手術ができれば一番いいのだが、その代替として役に立ちそうなのが、コールドスリープだ。
そう聞くと、いきなり変な話になったと呆れられるかもしれない。しかし、少し待ってほしい。
私は、コールドスリープにより、病気が治ると考えているわけではない。あくまで、治る可能性はゼロではない、と考えることができる、と思うだけだ。
現在も、アメリカかどこかで、大富豪向けのサービスとして、死体を冷凍保存するサービスがあるそうだ。しかし、現代の科学においては、冷凍時に細胞が破壊されているので、再生は無理だろうと言われている。
しかし、再生する可能性はゼロではない、と思える人がいる。今後、科学技術が発達すれば、よりコールドスリープの可能性を感じられる人が増えるだろう。
この、可能性がゼロではないと思えることが大事なのだ。これで、その人にとっては、コールドスリープが、成功確率が低い手術と同じような働きをする。
どんなに低い可能性であっても、可能性を感じられる人にとって、コールドスリープは安楽死ではないのだ。
結果として、コールドスリープから目覚めることがないとしても、「死の確率化」をして、コールドスリープによる再生に挑戦した結果、敗れただけなのだから、そこに「選択の苦痛」はない。

私は、コールドスリープとは、これまで宗教が果たしていた役割を、科学が担うための方便だと思う。
宗教は、天国とか、輪廻とかといった死後の世界という装置によって、死の苦しみを和らげてくれた。
科学が、人々から、これらの装置を全て奪い、その代わりに、医療技術による、引き伸ばされた確実な死へのプロセスを与えた。
そんな科学の時代においては、コールドスリープこそが、人々を確実な死から逃れ、「死の確率化」により「選択の苦痛」から救ってくれる道なのではないだろうか。
(他にも、人間の意識を電脳空間にアップロードして保存するとか、クローンを作るとか、ありそうだけど・・・)

社会学って

2016年に書いた文章です

・・・

娘の進学のことを考えているうちに、なんとなく興味がわき「本当にわかる社会学」という本を読んだ。

社会学というのは、どうも、色々な学者が勝手に概念モデルのようなものを編み出し、社会、特に現代社会というものを説明しようとする学問のようだ。
僕は、その概念モデルが成立する手前の哲学に興味があるから、正直、なんだかなあ・・・なんて思いつつ読み進めた。
ところが、p.146「イデオロギーを乗り越える」のページで手が止まった。
カール・マンハイムの「相関主義」は面白い。
「出口のない相対主義を回避するためにマンハイムが提示したのが、「相関主義」という手法である。相関主義は、まず、あらゆる思想が特定の歴史的・社会的条件に根差したものであるということを、むしろ積極的に評価する。というのも、そこで得られた知見は机上の空論ではなく、現実に根ざしたリアルな認識であるため、より真実性が高いからである。そして、そうして得られたいくつもの部分的な真理を、全体的な観点から相互に関連・総合させていく。そうした作業の蓄積によってより全面的に正しい真理へと徐々に接近していけるはずだ」とある。これが知識社会学という考え方のようだ。
マンハイムは、思想というものをイデオロギーという文脈で理解していたようだが、僕は、この思想という言葉を、個人レベルでの言語ゲーム、概念枠といったレベルまで拡大することで、哲学的な意義を引き出せるように思える。
「リンゴは赤い」という思想でさえ、歴史的・社会的条件に根差したものだ、という考え方だ。
そこまで拡大した文脈で相関主義を理解することで、哲学のうち、いわゆる形而上学を除いた分野と社会学は地続きとなる。
そして、パラダイム論を取り込み、自然科学とも地続きとなる。ニュートン力学は部分的な真理であり、それが相対性理論と関連・総合され真実に近づいていくという視点に立つことができる。
「リンゴは赤い」が成立することと、「パノプティコン」という概念モデルが成立することと、ニュートン力学が成立することに意味的な違いはない。いずれも個人がリアルに認識したことだ。
この、個人がリアルに認識したことと真実性を繋げるという点に、相関主義のよさがある。
実は青りんごもあったり、パノプティコンでは説明できない事象もあったり、ニュートン力学で説明できない事象も生じるかもしれないが、現に、僕がリアルに「リンゴは赤い」と認識したり、ミシェル・フーコーが「パノプティコン」という概念モデルで道徳の成立について説明できる、と思ったり、ニュートンがニュートン力学を発見したりしたこと自体は揺らがない。そこには、ある正しさがある。
そして、そのような断片的な正しさを、相互に関連・総合させることで、ある部分が否定されたり、修正されたりしつつも、人類の知識というものが進歩していく。
う~ん、いい考え方だ。
そして、我田引水だけど、その関連・総合がどのように行われえいるか、と言えば、それこそ、対話なのだと思う。

人の話なんて聞かなくていい

千葉雅也さんの「勉強の哲学」に出てきたので、ピエール・バイヤールさんの「読んでいない本について堂々と語る方法」という本を読んだ。

ざっくり言うと、こんな本だ。
読書とは、読者がめいめいに自分なりの解釈をするというかたちにならざるを得ない。理想的な読書などありえない。
なぜなら、理想的な読書とは書き手と読み手が完全に一致するということだからだ。書き手自身ですら、描いたときから忘却は始まり、書き手自身から遠ざかってしまう。それなのに他者である読み手が理想的に本を読むなんてことはありえない。だから本を読むということに囚われてはいけない。
本の読み手の中には、それぞれの<内なる書物>を収蔵した<内なる図書館>がある。読書とは、この<内なる図書館>を豊かにするためにあるのだ。

という感じ。かなり僕の解釈でまとめている。だけど、それでいい、とこの本は言っているのだ。そして、この僕の紹介を読んだあなたは、それだけで、この本の読者であり、そして、この本について語る資格すらあるとすら言っている。なんらかのかたちで本と出会い、その出会いが少しでも自分の<内なる図書館>を豊かにしたならば、それが電車の中吊り広告でタイトルを見ただけであっても、それは読書なのだ。

<流>◯

このことを僕は、もっと一般的な対話の場面に引き寄せて理解した。

対話においては話し手と聞き手がいる。そして聞き手は話し手が話すことを理解するよう努めることが当然とされている。それならば理想的な対話とは、話し手が話したことを聞き手が完全に理解することだと言ってもいいだろう。

しかし、この本を拡大解釈するなら、そうではない。
聞き手にとっての対話とは、自分自身の<内なる図書館>を豊かにするためにある。話し手の発言を一言も漏らさず聞く必要などない。発言のなかに一言でも自分自身に滲みるような言葉を見つければ、それが、対話が聞き手の<内なる図書館>を豊かにするということだ。
いや、そうですらない。話し手の言葉は触媒に過ぎないと言ってもいいだろう。
話し手の言葉がBGMのように流れるなか、話し手の言葉と直接は全く関係がないことを思いつき、それが自分自身の<内なる図書館>を豊かにしたならば、それは、その対話の場が、その聞き手にとって意味あるものだったということだ。

対話において他者を理解する必要はない。他者など気にせず、内なる自分自身だけを気にしていればいい。そんな側面が確かに対話にはある。