多分、2015年に書いた文章です。
最近、大きな病気をして、死を身近に感じた。
病気で死ぬ前というのは、きっと、とても苦しいのだろうなあ、と思ったのだ。
夜、床につき、眠るように老衰で死んだ、というようなのが多分、一番幸せな死に方なのだろうが、皆が、そのように死ねる訳ではない。
老衰のような例外的な場合を除けば、病気であっても事故であってもたいてい苦しいと思うかもしれない。しかし、病気には特有の苦しさがあると思う。
事故で死ぬ場合、当事者はどうしようもないが、一方、病気の場合、患者は、死ぬまでに、色々と選択できることがある。
少なくとも、死に至るまでのプロセスとしては、3つくらいの道筋があると思う。
第一に、病気を治そうとして、力尽きて死ぬというパターン。
第二に、どこかで根治治療をあきらめ、緩和ケアを選択し、死を待つというパターン。
第三に、どこかで根治治療も緩和治療もあきらめ、安楽死を選択するというパターンだ。
法律上認められているかどうか、医療技術的にそのような行為が可能か、といった制約はあるが、患者は、これらのうちどれかを選択しなければならない。
(なお、突然、病気で死ぬというのも、どうしようもないという意味で、事故と同列に考えていいだろう。この文章での病気というのは、癌のような、徐々に死に至る病のことを指すと思っていただきたい。)
そして、根治治療でも、緩和ケアでも、いずれにせよ、その末期には、強い苦痛が訪れる。
患部の痛みだけではなく、食事がとれないこととか、床ずれがすることとか、自分が通常の思考ができなくなっていくこととか、そういうこと全てが苦痛につながっていく。また、病気が治る可能性がどんどん低くなり、ついには絶望に至ることも、大きな苦痛となるはずだ。これは、緩和ケアでも全てを取り除くことはできない。
安楽死を選択することだって、大きな苦痛のはずだ。そもそも、既に安楽死を選択せざるを得ないほどの苦痛を味わっているはずだし、安楽死を選択すること自体が精神的には大きな苦痛となるだろう。
つまり、病気で死に至るプロセスにおいては、どの道筋を経ても、大きな苦痛がある。それでも、どの苦痛を味わうことにするか、選択しなければならない。この選択をすること自体が大きな苦痛だ。
ここに、事故とは異なる、「選択の苦痛」という病気固有の苦しさがある。
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なお、昔は医療技術が進んでいなかったので、病気で死に至る過程での「選択の苦痛」はそれほど大きな問題ではなかったのだろうと思う。
死に至る苦痛のプロセスを長く感じられるほど治療はしてもらえなかっただろうし、ペストのような場合を除き、確実に死に至ると知り、絶望することも少なかったのではないだろうか。
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私は、この、現代的な問題とも言ってよい「選択の苦痛」という苦しさに耐えられない。
そこで、どうすれば、「選択の苦痛」から逃れられるか考えてみたい。
私は病気で入院していたとき、病気で死ぬとしたら、一番苦しくない死に方はどういうものだろうか、と考えてみた。そして、多分、完治を目指した手術の際に死ぬという死に方が一番ましだろうと思った。
ほうっておいたら100%死んでしまうが、ここで手術をしておけば治る可能性がある。治る可能性にかけた結果、運悪く死んでしまった。これが、一番苦しくない。
死ぬかもしれない手術を選択することの苦痛はあるが、ほうっておけば100%死んでしまうのだから、そこに選択の余地はない。つまり、この苦痛は、「選択の苦痛」という病気特有の苦痛ではない。飛行機事故で、墜落までの間に死を覚悟するのと同じ種類の苦痛だろう。
また、確かに、手術後振り返れば、手術をしなければ、あと数ヶ月は生きていられたのに、手術をしたからすぐに死んでしまった、ということにはなるだろう。客観的には、そこに、手術により失われたものがある。
しかし、苦痛という観点で捉えるなら、手術をする時点では、どんなに低い確率であっても、病気が治り、死から逃れられる可能性があった。つまり、そのときには確実に死に至るなかで苦痛をただ選択させられるという「選択の苦痛」から逃れていた。その分、苦しみは少なかった。そう言えるだろう。
この「選択の苦痛」からの逃れ方を「死の確率化」と呼びたい。
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しかし、全ての患者に、完治する可能性がある手術という選択肢が提示されている訳ではない。病気は進行し、いつか手の施しようがない病気になる。
それでも、、なんとか「死の確率化」をして「選択の苦痛」から逃れることはできないだろうか。これは、私には、どんな医療技術よりも必要なことのように思える。
人間はいつか死ぬ。それは免れることができない。どんなに医療技術が進んでも、数百年後、数千年後には死が訪れる。今回は手術で乗りきれても、死はいつか訪れるのだ。
そのとき、できれば、老衰のように眠るように死にたいし、それがかなわなければ、事故や突発的な病死のように、自分ではどうしようもないかたちで死にたい。
しかし、今のところ、最も多い死因は癌であることも踏まえれば、多くの人は、いつかは病気に捉えられ、手の施しようがない病気に至り、「選択の苦痛」を強いられる運命にある、と言えそうだ。
私はそんなのは嫌だ。死ぬのは仕方ないとしても、死に向かっていると知りながら、だらだらと、どの苦痛にするかを選ぶという「選択の苦痛」を強いられるのは勘弁してほしい。なんとか「死の確率化」をして、生きる可能性に挑戦した結果、敗れて死ぬほうがましだ。
本当は、手術ができれば一番いいのだが、その代替として役に立ちそうなのが、コールドスリープだ。
そう聞くと、いきなり変な話になったと呆れられるかもしれない。しかし、少し待ってほしい。
私は、コールドスリープにより、病気が治ると考えているわけではない。あくまで、治る可能性はゼロではない、と考えることができる、と思うだけだ。
現在も、アメリカかどこかで、大富豪向けのサービスとして、死体を冷凍保存するサービスがあるそうだ。しかし、現代の科学においては、冷凍時に細胞が破壊されているので、再生は無理だろうと言われている。
しかし、再生する可能性はゼロではない、と思える人がいる。今後、科学技術が発達すれば、よりコールドスリープの可能性を感じられる人が増えるだろう。
この、可能性がゼロではないと思えることが大事なのだ。これで、その人にとっては、コールドスリープが、成功確率が低い手術と同じような働きをする。
どんなに低い可能性であっても、可能性を感じられる人にとって、コールドスリープは安楽死ではないのだ。
結果として、コールドスリープから目覚めることがないとしても、「死の確率化」をして、コールドスリープによる再生に挑戦した結果、敗れただけなのだから、そこに「選択の苦痛」はない。
私は、コールドスリープとは、これまで宗教が果たしていた役割を、科学が担うための方便だと思う。
宗教は、天国とか、輪廻とかといった死後の世界という装置によって、死の苦しみを和らげてくれた。
科学が、人々から、これらの装置を全て奪い、その代わりに、医療技術による、引き伸ばされた確実な死へのプロセスを与えた。
そんな科学の時代においては、コールドスリープこそが、人々を確実な死から逃れ、「死の確率化」により「選択の苦痛」から救ってくれる道なのではないだろうか。
(他にも、人間の意識を電脳空間にアップロードして保存するとか、クローンを作るとか、ありそうだけど・・・)