哲学的な問題には、合成された問題というものがあるんじゃないかと思いついた。

応用倫理学における問題は、だいたいがこの合成された問題なのではないか。
例えば、堕胎は許されるかという問題は、何が悪かという問題と、どこからが人間かという問題が合成されている。
そして、善悪を判断するという一面のみで、どこからが人間かを定義しようとする。「妊娠◯ヶ月になったら、その胎児は痛みというものを感じているような振る舞いをする。人に痛みを感じさせることは悪いことだから、その時点から、堕胎は認めないべきだ。」というように。

確かに、何が悪かという問いも、どこからが人間かという問いも、とても興味深い哲学的な問いだ。だから、この二つが合成された、堕胎は許されるかという問いも確かに哲学的な問いだ。

しかし、どうも、この問いに人生を賭けようとは思えない。どうせなら、何が悪か、どこからが人間か、という問いに直接切り込みたい。
確かに堕胎のことを考えるのは、一つの思考実験として、人間の成長過程において、どこからが人間かを考えるのに役立つ。
だけど、それはあくまで手段であって、僕の疑問の本丸は、どちらかというと、どこからが人間か、という問いだ。

だからと言って、堕胎は許されるか、という方向の問題に惹かれる人の気持ちもわからないでもない。

多分、それは、そこに合成の妙味があるからだろう。何が悪か、どこからが人間か、というどちらかというと無味乾燥な問いが重なり合い、合成されることで、堕胎は許されるか、という生き生きとした問いが生まれる。

そこには、合成だけに留まらない、生命の付与とでもいうべき儀式があるように思える。

・・・

そのことをちょっと視点を変えて考えてみたい。
ちょっと今までの話をひっくり返して、全ての哲学的な問いは合成された問いなのではないか、そんな地点から考えてみよう。

例えば、目の前にあるコップを見て、このコップは確かにあるのか、と疑問を持ったとしよう。これは、かなり哲学ド本流な問いだ。
ビッグフットはいるのか、とか、原子は本当にあるのか、というような、問う理由がある問いとは違う。ビッグフットはいるのか、という問いは、人間の証言は信じられるのか、とか、足跡があれば足もあると考えるべきなのか、というような問いが合成されたものだろう。原子は本当にあるのか、という問いは、電子顕微鏡が事実を表しているのか、とか、実験の結果がどのくらい積み上がればその結果を信じられるのか、というような問いの集まりだろう。これらは、先ほどの合成された問いであり、生き生きとしてるけど、一方で、突き詰められていなくて中途半端な感じがする。
一方で、コップは確かにあるのか、という問いは、これ以上分解するのは難しい。かなり根源的な問いだ。問う理由がわからないのはそのせいだ。ビッグフットにとっての足跡とか、原子にとっての顕微鏡のような、疑い、考える手がかりすらない。こういうツルッとした問いだからこそ、この問いは、哲学の深淵へと僕達を誘う。

だけど、こんな問いですら、更なる分解は可能だ。コップが確かに存在すると認識できるのはどういうことか。コップが存在するとはどういうことか、この皿ではなくこのコップについて存在を問うとはどういうことか。というように。これらの問いは、認識、存在、様相といった哲学の大問題に直結している。

思うに、認識、存在、様相といった問題が解決することができないのは、それらが、合成された問いとしてしか立ち上がらないからだ。
コップという例を用いずに、認識そのもの、存在そのもの、様相そのものを問題とすることはできない。コップを例にした途端、認識は存在や様相から切り離せなくなり、存在は認識や様相から切り離せなくなり、様相は認識や存在から切り離せなくなる。だから、その問題だけを捉え、解きほぐすことができなくなる。

コップという例を用いることにより、哲学的な思考は受肉する。この具体化が、生命の付与の儀式だ。

コップは確かにあるのか、という問いと、堕胎は許されるか、という問いの間には、確かに具体化の程度という違いはある。
しかしそこにあるのは、あくまで程度の違いであり、質の違いではない。
それならば、どちらが哲学的な問いであり、どちらが哲学的な問いではない、と言うことはできない。
どの程度具体化し、生き生きとした問いが好きか、という好みの違いしか、そこにはない。

哲学における合成の問題は、人間が哲学を行う限り、逃れられないものなのかもしれない。