安全と快適の先

「金持ち父さん」の本を久しぶりに手に取ったら、金持ち父さんが子供の頃の作者に、人生において、安全と快適と金持ちになることのどれを優先するのかと問う場面があった。
う〜ん、この三つかあ、と感心し、考えさせられた。良い人生のためには、安全と快適ともうひとつの何かが大事だという整理は、直感的にいい線いってると思ったのだ。

そのもうひとつを金持ちとはいいたくないけど、安全と快適というのは人生において大事なことのかなりの部分を占めていて、この二つですくい取れないものは、それほど多くなく、もしかしたら何かひとつにまとめられるのではないだろうか、という予感がある。この線で考えてみたいと思った。
だから、この文章は、「良い人生のためには、安全・快適のほかに何が大事なのか。」という問題について考えるものだ。
とは言っても、この問題は、人生の目的とは何か、みたいな話とつながるはずだから、簡単にきれいな答えは出ないだろう。今後のために少し整理し、うまくいけばざっくりと方向性を指し示してみる、くらいの心づもりで話を進めよう。

金持ち父さんには悪いけど、まず言えることは、その大事な何かとは、お金持ちになることではない。
もしお金こそが大事なら、お金持ちになった後は、金持ち父さんのように、老後も投資を続けたり、ゴルフをしたり、近所の子どもに金儲けの仕方を教えることこそが最高の人生だということになる。直感的に、そんな訳がない。

一方で、お金というのは、そう遠くない答えのようにも思える。
金持ち父さんのような老後は、悪くはない。それに金銭的に余裕があれば、目先の生活のための労働にしばられず、本当にやりたいこと、やるべきことのために生きることもできるはずだ。
つまり、お金持ちになるという人生の目標設定は、かなりいい線をいってる。惜しいところまできている。だけど本当に大事なのは、お金持ちになって、さあ、何をするかなのだ。

こういう俗っぽい問題を哲学的に考えるときには、思考実験をしてみるといいだろう。超お金持ちになったら、でもいいけれど、せっかくなら、もっと壮大に、全ての願いを叶える魔法のランプを手に入れたなら、と考えてみよう。回数制限なしだ。ドラえもんのひみつ道具でもいい。「もしもボックス」は最強のひみつ道具だ。
だからお金で買えるものはもちろん、買えないものも、永遠の生命でも、若くて健康な肉体でも、絶世の美女でも、世界平和でも、深遠な宇宙の秘密でも、なんでも手に入るとしよう。
全ての願いが叶えられても、それでも手に入れられず、満たされないものとは、何があるのだろう。何が残るのだろう。
多分、名付けられ、言葉で指し示せるものは全て手に入るはずだ。なぜなら、言葉にできることは全て魔法の精に望み、叶えてもらうことができるのだから。
それでも満たされないものは多分ある。というか、その満たされない何かこそが大事だという予感がある。

その何かとは、言葉にできないものとなるが、僕のこれまでの哲学的考察によれば、言葉にできないものはひとつしかない。それは、永井=入不二的な意味での現実性だ。言葉は、あらゆることを言語化し捉えることができるが、この現実の現実性だけは捉えることができない。この現実の現実性に含まれる何かこそが大事なのではないか。

その言葉にできない大事な何かをあえて言葉にするならば、多分、それは、この人生を現に生きることの「幸せ」のことなのだろう。「生命」とか「成長」とかと言い換えてもいいかもしれない。そんな言葉で間接的に言い表される動的な何かこそが、人生において大事なのだろう。これが僕の当面の整理だ。

・・・

と言っても伝わらないだろうから、この文章では、別な方向からの説明を試みることにする。
まず、出発点は良い人生において大事なものが「安全・快適」ともうひとつ「その何か」だという仮定から始めよう。この整理は、なかなかいい線をいっているように思うから。

まず、良い人生を送るために「安全・快適」が必要というのはそのとおりだと思う。
良い人生を送るうえでのスタートラインに立つためには、安全で快適でなければならない。安全で快適でなければ、他の何があっても、よい人生を送ることはできない。
確かに、何をもって安全・快適とするかは、その時代や状況によって様々だろう。1940年代前半の東欧のユダヤ人や1945年8月の広島・長崎の人々にとっての安全・快適と、今の僕達のそれとでは大きな違いがあるはずだ。また、将来、科学が発達し、病気や老いや寿命に脅かされる現代人のことを安全・快適だったなんて思えなく時代が来るかもしれない。
ただし、そういう違いはあれど、主観的に安全・快適と思わない限り、良い人生を送れないということは揺らがないだろう。

それでは、良い人生を送るためには、安全・快適以外に何が必要なのだろうか。
先ほどの魔法のランプやもしもボックスの話で例に出したような、永遠の生命、若くて健康な肉体、絶世の美女、世界平和、深遠な宇宙の秘密といったものは、どうだろう。このなかに安全・快適ではない要素が含まれているだろうか。
まず、永遠の生命と若くて健康な肉体が、安全・快適に強く結びついているのは説明不要だろう。そういう肉体的な条件が満たされてこそ、安全・快適に過ごすことができる、という考え方はごく一般的だと思う。よって、この二つはとりあえず、安全・快適の文脈に含まれると整理できる。
また、絶世の美女、世界平和、深遠な宇宙の秘密についても、それらを手に入れることで快適になれるからこそ手に入れたいのだ、と言うことができる。つまり、安全・快適のうち、特に快適の範疇内の話だと整理できる。まず絶世の美女は簡単だ。ここでの美女とはアクセサリーのようなもので、それを手に入れることで所有欲が満たされ、精神的に穏やかに快適に過ごすことができる。世界平和についても、自分が紛争の当事者であれば安全の問題になるし、当事者でなければ、世界が平和でないと自分が精神的に快適でないから、という理由で平和を願っているはずだ。深遠な宇宙の秘密についても、そこに安全や快適につながるような実利がなければ、要は、その秘密を明かすことで精神的に満足し、快適になるから秘密を解きたい、ということになる。安全・快適のうち、特に快適について精神的な快適というあたりまで拡大解釈するならば、ほとんど全てのことは、安全・快適(精神的な快適を含む)のために望んでいると言ってよい。

それでは、安全・快適の範疇から外れるものとしては何がありうるのだろうか。
まずは、「他者との関係性」というものが挙げられるのではないか。人とつながり、人に認められるということは、良い人生を送るために必要だ。こういう話でよく登場するマズローの欲求5段階説でも、所属欲求、承認欲求というものがある。これらが重要ということに異論はないだろう。

いや、「他者との関係性」つまり、人とつながり、人に認められるということについても、安全・快適という文脈で整理が可能とする見方もあるかもしれない。確かに、通常、何かの集団に所属することで安全が確保されるし、人に認められることで精神的な快適さを味わうことができる。そういった意味で、他者との関係を築くことは安全・快適を獲得するための有効な手段となる場面が多いだろう。
しかし、「他者との関係」というものには、そう捉えられない例外がある。所属する集団のために命を投げ出し、また、誰にも認められなくても、誰かのために、じっと苦しみに耐えることがある。そのとき、彼は、安全・快適ではない「他者との関係」そのもののために行動することで、より良い人生を目指していると言えるはずだ。
つまり、「他者との関係性」とは、安全・快適とは独立した、良い人生のための要素なのだ。

精神的な快適について更に拡大し、苦しむことさえも、それを通じて、精神的な快適を得ようとする行為なのだ、と言うことはできなくはない。しかし、苦しむことすらも快適としてしまうなら、快適という言葉を使う意味が失われてしまう。安全・快適という言葉を、その言葉を有効に使えるぎりぎりまで拡大したとき、その言葉に覆われきらないわずかな部分に他者との関係性というものが残る。そう考えたほうが面白い。

もうひとつ、良い人生に欠かせないものの候補がある。マズローで言うならば、自己実現欲求というやつだ。先ほどは「他者」が重要だという話だったが、もうひとつ「自分自身」も重要なのだ。正確には、自己実現、つまり「なりたい自分自身になる」ことが重要なのだ。この文脈で言えば、先ほど例に出した、絶世の美女、世界平和、深遠な宇宙の秘密といったものも、安全・快適ではなく、自己実現のために求めていると言うこともできる。絶世の美女に寄り添われている自分や、世界平和を達成した自分や、宇宙の神秘を解き明かした自分になることが人生における重大事だ、ということになる。

ここで、先ほど導入した「精神的な快適」という考え方との違いを明確にする必要がある。
宇宙の神秘を解き明かすのは、宇宙の神秘を解き明かした自分になりたいからなのか、それとも、宇宙の神秘を解き明かすことが精神的に快適だからなのか。
この二つは一見同じことのようだが、違う。前者においては、宇宙の神秘を解き明かすこと自体が目的だが、後者では、宇宙の神秘を解き明かすことは、あくまで「精神的な快適」のための手段だ。だから、宇宙の神秘を解き明かさなくても、なんらかの力で、それと同等の「精神的な快適」が得られるならば、それはそれでよい。しかし、宇宙の神秘を解き明かした自分になりたいのなら、いくら、おせっかいな神様が同等の精神的な快適を与えてくれたとしても、宇宙の神秘の探求を止めることはない。
現実において、このような区分ができるかは疑問があるだろう。確かに、実際には、自己実現欲求と精神的な快適さを求める気持ちは、一体となって、宇宙物理学者の探求の情熱を掻き立てる。しかし、それでも、両者の違いは、わずかに痕跡を残すはずだ。
学者に聞いてみよう。なぜ、宇宙の神秘を解き明かしたいのか、と。多分、学者はうまく答えられないはずだ。もしかしたら、子供の頃、スターウォーズを見て宇宙に夢中になったから、とか、それっぽい答えをしてくれるかもしれない。だけど、子供の頃にスターウォーズを見た人などまさに星の数ほどいる。だが、それをきっかけに宇宙物理学者になる人は一握りだ。なぜ、あなただけが宇宙物理学者を目指したのか、と問われたら、きっと答えはないだろう。
この答えられない何かこそが、これまで自己実現欲求としてきたものの、語り得ないわずかな痕跡だ。
学者は、なぜか、理由なく、生物学や哲学ではなくて宇宙物理学の道を選んだ。絶世の美女や世界平和ではなく深遠な宇宙の秘密を追い求める人生を選んだ。この「なぜか、理由なく」、こそが、これまで自己実現欲求としてきたものの真の姿であり、安全・快適、そして他者との関係性と並ぶ、もうひとつの良い人生の重要な要素なのだ。「なぜか、理由なく」に捧げる人生こそが良い人生なのだ。

しつこいかもしれないが、この「なぜか、理由なく」は、直接言葉で語ることはできず、語り尽くされたことの残りとしてしか表現することはできない。我らが宇宙物理学者は、宇宙物理学は結構儲かるから、とか、最先端の学問だから、とか、教授が面白い人だったから、とか、自分の人生の選択を正当化する色々な理由を挙げてくれるかもしれない。しかし、これらの言葉で語られる理由は、いずれも安全・快適(精神的な快適まで拡大した)という側面で理解できるものでしかなく、もし、そうでない側面もあると感じられたならば、その何かとはつきつめれば「なぜか、理由なく」としか表現できないものなのだ。
いや、もう少しうまい表現はある。彼が、「僕が宇宙物理学者になったのは、運命だったんだよね。」と言ったなら、それが、この「なぜか、理由なく」を最大限、うまく表現したことになるかもしれない。この意味での「運命」とは、「なぜか、理由なく」に極力接近した表現だと言ってよいだろう。

まとめよう。
良い人生のためには、①安全、②快適(精神的な快適も含む)、③他者(との関係性)、④「なぜか、理由なく」(運命)の4つが重要となる。これが結論だ。

4つに区分した整理をもとに少し考察を進めるならば、前二者は良い人生のために必要な基盤、条件とも言える。安全と快適は、きちんと揃っていることが必要で、欠けていたら、それは良い人生ではなくなる。
一方で、他者と運命は、完全に手に入れることができるものではない。他者との関係性が完全なものになるという状況は、極楽浄土のような夢物語のような状況を想像するしかないし、完全に運命に従って「なぜか、理由なく」生ききったと確信できるのは、せいぜい死の瞬間くらいしかないだろう。他者と運命については、いずれも、より良い状況を追い求めるプロセスとしてしか捉えることはできない、と言うこともできる。
そのような意味で、前二者は静的で後二者は動的という対比ができる。

・・・

最後にもう一歩だけ考察を進めることとしよう。それもかなりラフな素描としての一歩だ。
ここで前進することででやっと、冒頭で永井=入不二という先人の仕事に乗っかって、楽をして辿り着いた地点を垣間見ることができるように思うのだ。

僕には、動的なものである二者、つまり他者との関係性と「なぜか、理由なく」の運命とは、実はひとつのものなのではないか、という予感がある。無理をした飛躍になるけれど、その地点に跳んでみたい。

飛躍の準備として、まず簡単なところから始めよう。他者との関係性は、「なぜか、理由なく」の運命に飲み込まれている面がある。
どういうことかというと、人が他者との関係性を求めるものなのだというのは明らかだが、その理由は、「なぜか、理由なく」としか言えない面があるということだ。確かに人は一人では生きられないとは言うけれど、人によって、どのくらいの人間関係を求めるかはかなりの違いがあり、なぜ、このくらいの人間関係を求めるのか、と問われたら、「なぜか、理由なく」としか答えることはできない。つまり、人は他者との関係性を求めるのは、そう定められた運命だと言える。学者が宇宙物理学を目指したように、人が他者との関係性を求めるのは、「なぜか、理由なく」の運命なのだ。
こうして、他者との関係性という要素は、「なぜか、理由なく」のなかに取り込まれる。

ただし、それで終わりにはならない。
ここで終わりになってしまったら、「なぜか、理由なく」人は安全を求め、快適を求め、他者との関係性を求める、ということになり、要は、全てを語り得ないものとして放棄することになる。
しかし、人が安全を求めず、快適を求めず、他者との関係性を求めずに、良い人生を送るということは、僕には全く想像がつかない。ここに、安全、快適、他者との関係性という3つの要素が、「なぜか、理由なく」の運命という要素と並んで、それぞれが独立した良い人生の重要な要素だと主張する理由がある。

しかし、ここで、安全、快適と、他者との関係性は、別の道筋をたどることとなる。安全、快適については、ここで考察を終えてよいだろう。安全、快適については、求める程度はともかく、それを求めるということ自体は、「なぜか、理由なく」の運命と独立したものと整理できる。
一方、他者との関係性については、今まで話してきたこととは別に「なぜか、理由なく」の運命と重なる部分があると僕は思うのだ。それは、とても奇妙な地点だ。ここで大きな飛躍をする。

多分、その地点をとても奇妙なものとしているのは、ここで取り扱っているのが、「良い人生」だからだろう。ただの人生ではなく、「良い」人生。ここには、「良い」というプラスの価値判断が入り込んでいる。

「良い」人生につながる他者との関係性は「良い」ものでなければならず、「良い」人生につながる「なぜか、理由なく」の運命は「良い」ものでなければならない。ここには二つの良いものがあるはずだ。
まず前者について。良い他者との関係性と言われてイメージするのは、友情とか、信頼とか、思いやりとかといったポジティブな関係性についての言葉たちだろう。そういった他者との関係性があることで、良い人生を送ることができる、というのは当然だろう。そして、そのような良い他者との関係性を表現する言葉たちのうち、最も究極的なのは、多分、愛という言葉だ。愛という言葉に込められる意味の多様性や捉えどころのなさを踏まえるなら、愛とは、良い他者との関係性そのもののことだと言ってもよいのではないか。
後者についてはもっと単純なことしか言えない。僕は、良い「なぜか、理由なく」の運命と言われてイメージするのは、神という言葉しか思いつかない。
こうして、愛と神という二つの言葉が登場することになる。
これが、他者との関係性と、「なぜか、理由なく」の運命が重なる奇妙な地点だ。
「良い」他者との関係性とは、愛であり、「良い」「なぜか、理由なく」の運命には神が介在する。
神の愛というかたちで、他者との関係性と、「なぜか、理由なく」の運命は重なるのだ。

考えてみれば、神とは究極の他者のことだ。
最も遠い、究極の他者こそが神であり、神が無根拠に与えてくれる愛こそが「なぜか、理由なく」の運命を良いものとし、良い人生を形作っている。こう考えれば、ある面では、神という究極の他者が、運命を飲み込んでいるとも言える。
そして、この究極の他者とは、祈りというかたちでしか関係性を持つことができない。祈りという他者との関係性だけが、「なぜか、理由なく」の運命を生み出している、と言える地点がある。
つまり、ここでは、他者との関係性が運命を飲み込んでいるとさえ言える。

このような側面も考慮するならば、他者との関係性と「なぜか、理由なく」の運命は、お互いがお互いを飲み込もうとするかたちで、いわば動的な循環運動が行っており、両者はいわば渾然一体となっていると捉えることもできる。

僕のイメージによれば、この渾然一体となった何かは、輝いている。なぜなら、この運動は、そもそも良い人生において行われており、肯定的なものであることが義務付けられているのだから。この剥き出しの肯定そのものを表現するものとしては、光の輝きこそがふさわしい。この輝きこそが、「幸せ」なのではないか。
また、その渾然一体となった何かをあえて名付けるならば、その動性を強調し、「生命」「成長」といった名前がふさわしい。これが、僕が、安全・快適と並ぶ、または最も重要な、良い人生のために必要な要素だ。

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