これはいつだろうと思ってメールを検索したら、2014年3月9日 でした。
「あるようにあり、なるようになる 運命論の運命」を読んで~「なるようにある」の考察~
に入れようと思って、入れられなかったんですね。

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私は哲学が好きだ。

私は大学の哲学科も出ていないし、哲学書ばかり読んでいる訳でもない。いわゆる素人だ。
それでも、哲学をすることと、哲学に詳しいことは違うのだから、私のような素人でも哲学をすることはできると考えている。
いや、更に言えば、私がしていることは、哲学科の教授や、過去の偉大な哲学者と、全く同等、または(私にとっては)それ以上の意味で哲学なのではないかと考えている。
そのような大それた意味で、私は哲学が好きだ。
そんな自分以外の哲学者にあまり興味が無い私が、その著作を読んでいる数少ない哲学者の一人に入不二基義がいる。
彼は、論理的に構造化された極めて形而上的な哲学を語る。そこには、日常的な実感や、人間的な情緒に訴えて理解する余地はない。
その構築された美しさが私は好きだ。そこには、確実に、ある種の正しさがある。
ただ、私がここで紹介したいのは、彼の哲学の中身ではなく、彼の文章の特徴についてだ。
彼の哲学書には、だいたい、導入としてのエッセイ的な短文がある。その内容は、例えば、仏教の説話であったり、彼自身の家族との間でのちょっとした出来事であったりする。
彼はそこで、その本全体のテーマの方向性を示そうとする。
構造化された美しい形而上学的な世界を、論理ではなく物語で示そうとする。
当然、導入としての短文では、形而上的な世界を表現し尽くすことはできない。表現は失敗する。
だからこそ本編が必要となる。
そういう点では、これは映画の予告編のようなものとも言えるかもしれない。
ここを立ち読みして興味が惹かれたら、買って本編も読んでね、ということだ。
しかし、私はそこに、予告編と本編以上の関係があるのではないかと思う。
導入部は、本編では語りえないことを語っているのではないだろうか。
つまりは、形而上的な世界を表現するためには、美しい論理だけでは足りず、心に訴える情緒的な物語が不可欠だということを意味しているのではないだろうか。
いや、形而上的な世界、のようなたいそうなものでなくても、何かを伝達するということには、論理と物語の二つが不可欠なのではないだろうか。
そのことを構造的に示しているのが、入不二の哲学書の冒頭の情緒的なエッセイと、それに続く論理的な本編なのではないだろうか。