サイコパスの倫理学 ~「良心をもたない人たち」を読んで~

多分2015年に書いたと思います。この頃は暇だったので・・・
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この本は、いわゆるサイコパスについての本だ。
カウンセラー系の仕事をしている奥さんの本棚にあったので、なんとなく読んだが、色々と考えさせられたので記録しておくことにする。
サイコパスの心情を理解するためには、「自分の行動が社会、友人、家族、子どもたちにおよぼす影響を完全に無視できる状態」を想像できなければならない。この本にはそう書いてある。これは、とんでもない事態であり、想像が難しい。「完全に」無視することなんてできるだろうか。こんな極端な想像は、まさに哲学の思考実験だ。
しかし、私にとって、この思考実験は2回目だ。実は、永井均の独在論的な倫理学に、同じような話がある。
永井は、倫理的な判断を行うにあたって、自分以外を考慮に入れないことを推奨する。ギュネスの指輪(透明マントのようなもの)により、完全に悪事が露見しないならば、犯罪を犯すことは当然の判断と考える。(少なくとも、そう受け止められるような記述がある。)
自分以外を考慮しないことを推奨する永井の倫理学は、サイコパスという思考実験につながる。
私は、私の哲学的興味が、この、なぜ人は悪事を働いてはならないのか、という疑問から始まったことを思い出す。
私は、より悪事がない世界を望んでいる。しかし、人に、「悪事を働いてはなぜいけないのか。」と問われたとき、その答えを持っていない。
この問いは、社会評論的には、10年以上前に流行った議論だが、明確な答えがないまま、話題として消費され、廃れてしまった。
多分、「人は悪事を働いてはならない訳ではない。」という永井の力強い答えに勝る答えは見つからなかったということなのだろう。
私は、その先の答えを探している。これが私が哲学をする動機のかなりの部分を占めている。
この本を読んで気づいたが、私は、永井の倫理学、サイコパスの倫理学に対抗できる倫理学を探し求めていると言い換えてもいいだろう。
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本の内容の話に入るが、この本によれば、どうも私はサイコパス的なようだ。
私は人と接するとき、例えば職場の上司と接するとき、上司のことを尊敬していなくても尊敬しているふりができるし、多分、女性との刺激的な出会いが欲しくて、好きでもないのに愛を囁くことだってできる。これは相手に対して愛を持たず、自分の欲望の道具として接することができるということであり、サイコパス的だと言っていいだろう。
また、サイコパスの特徴として挙げられている、人とのつながりという感情的な生活が欠如していることによる退屈感についても、私は理解できる。
確かに充実している時もあるが、時々、ふと、何かが欠けたような退屈感を強く感じる時がある。これは、この本が描くサイコパスの退屈に似ている。
また、この本によれば、現時点での研究成果としては、サイコパスになる要因は完全には判明していないが、遺伝的要因、社会的要因が大きく、家族的要因はあまりないと考えられているそうだ。
そして、社会的要因が大きいことの論拠として、東アジアには、個人の自由よりも社会的な義務付けを優先する社会構造があるから、サイコパスが少ないという例が挙げられている。
遺伝的には愛を感じられず、サイコパス的要素がある人でも、東アジアに生まれたなら、社会的に他者への配慮の義務付けを学習するから、サイコパスになりにくい。他者への愛が、頭ではわからなくても、愛があるかのような行動をとるよう体で覚えさせられている、ということだ。
日本生まれの私は、どうも、そのパターンにあてはまっているような気がする。
私は、愛のためではなく、社会に合わせつつ、自分の欲望を達成するために、相手を尊重しているふりをすることができる。
これは、本質的にはサイコパス的である人間が、社会的な教育により、それを押さえつけられている状況だろう。
この本は、そんなサイコパス的な人間の対極にある人間として、「自己と道徳的目標との一致」を実現した道徳的手本となる人々を列挙する。
例示されていたのは知らない人ばかりだったが、文脈からすると、多分、マザーテレサのような人なのだろう。
確かに、マザーテレサには、愛に基づかない行動などないだろうし、退屈を感じる隙などはないだろう。私はマザーテレサにはなれない。
しかし、ここで疑問が生じる。
世の中にはマザーテレサのように道徳的手本となる人なんて、そんなにたくさんいるだろうか。
私には少々サイコパス寄りなところがあるのは確かだが、私を含めた人たちは、大抵、似たようなものなのではないだろうか。私たちは皆、完全なサイコパスでもなく、完全なマザーテレサでもなく、その間に位置づけられるのではないだろうか。要は、程度の問題なのではないだろうか。
同じ疑問は、この本の別な個所からも生じる。
この本ではヒットラーから始まり、フセイン、ビン・ラディン、チンギス・ハンまで、大抵の大量虐殺を行った人はサイコパス的ということになっている。
これは、とてもくだらない間違いだと思う。モンゴルでは英雄になっているだろうチンギス・ハンまで、大した検証もせず、サイコパスに含めることができるならば、歴代のアメリカ大統領だって、同じくらい怪しいだろう。なぜなら、この本では、表面的な行動からは、サイコパスかどうかは、なかなか見分けがつかない、と言っているのだから。殺した人数だけ比較するなら、五十歩百歩だ。
率直に言って、この本は眉唾が多い。そもそも、この本が書かれるきっかけとして、911が挙げられ、あたかも世界最大級の悲劇であったかのように語られている。
これは誤りだ。世の中には、もっと大きな悲劇は山ほどある。911が特異で注目を集める悲劇であるのは、その悲劇の大きさによるのではなく、超大国が蒙った悲劇だからだ。こんな、くだらない誤りから始まっているこの本は、大筋として間違いだらけだ。
しかし、サイコパスの具体例を示しつつ、サイコパスという着眼点を示してくれたこの本の意義は大きい。そして、この本に刺激されて感じた疑問は、私の考えを先に進ませてくれる。
なぜ、チンギス・ハンはサイコパスと誤解されるのだろう。
多分、当時、チンギス・ハンは、モンゴル民族にとって英雄だっただろう。他民族に打ち勝ち、モンゴル民族を守り、そして経済的にも裕福にしてくれた。
多分、チンギス・ハン自身も、モンゴル民族を他民族から守り、裕福にできたことを喜んだだろう。また、自分の子孫が各地の王として君臨し、成功したことを喜んだだろう。
そこには、現代的な言い方をするなら、民族愛、家族愛があったと言ってもよい。
しかし一方で、モンゴル軍は大量虐殺を行った。相手を人とも思わない行動はサイコパスの特徴だ。だからサイコパス的だ。多分、この本の作者は、そう考えたのだろう。
確かに、チンギスハンは実はサイコパスだったかもしれない。モンゴル民族や自分の家族のことも、自分の野望のための道具くらいにしか思っていなかったのかもしれない。
他民族を虐殺するとき、そこにはモンゴル民族や自分の家族の幸せという観点は全くなく、単に自分の楽しみしかなかったのかもしれない。しかし、そう考える明確な根拠はない。
チンギス・ハンがサイコパスかどうかは、モンゴル民族や家族への愛を持っていたかどうかにかかっている。しかし、それは外部からはなかなか分からない。
これは、私のような普通の人生を送っている人間が、他人から見て、愛を持っているかどうかは簡単にはわからない、という問題と大差はない。
サイコパスかどうかの不明確さは、私やチンギス・ハンのような、マザーテレサほどではない多くの人間に共通の特徴なのではないだろうか。
この視点を踏まえると、この本の先にある二つの疑問の答えが見えてくると思う。
一つは、この本のなかでも明確に疑問として示されているが、サイコパスになるかどうかを決める、遺伝的要因、社会的要因以外の要因は何か、という疑問だ。
そして、もう一つは、この本では疑問としては示されていないものの、多分、誰もが感じるだろう、なぜ、25人に1人ものサイコパスがいるのか、という疑問だ。
実は、この本におけるサイコパスは、私やチンギス・ハンまで含めると2種類ある。
全ての人をモノとしか扱わない真のサイコパスと、家族などの身近な人は人として愛するが、他民族などの遠い人はモノとして扱う、というサイコパスもどきだ。
私やチンギス・ハンはサイコパスもどきで、この本に出てくるスキップ、ドリーンは、真のサイコパスということになる。
つまり、先ほどの二つの問題の答えを出すならば、サイコパスとなる要因がわからないのは、そもそも、サイコパスもどきまで研究対象に含めているからであり、25人に1人ものサイコパスがいるのは、そこにサイコパスもどきを含めているからなのだ。
真のサイコパスだけを捉えることができるなら、25人に1人という異常に高い値は出ず、その要因をもっと明確に研究することができるのではないだろうか。
しかし、更なる疑問が残る。
この25人に1人というのは、多分、心理学の専門家が独自に面接を行い、把握した数字だろう。多分、面接してもらえれば、私やチンギス・ハンのようなサイコパスもどきは嫌疑が晴れ、サイコパスとのレッテルを貼られずに済むだろう。それならば、やはり、25人に1人は、真のサイコパスなのではないだろうか。
そこで、また疑問は先に進んでいく。そもそも、真のサイコパスとは何だろうか。この本に出てくる、スキップ、ドリーン達は、なぜ、真のサイコパスだと言えるのだろうか。
確かに、スキップ、ドリーンの例は、真のサイコパスを描くことに成功している。しかし、その成功の理由は、彼らの視点から、彼らの内面を描くことができたからだ。実際には他者の内面を描くことはできない。スキップは、もしかしたら気まぐれに愛を持っていたが、それを恥じて隠しているかもしれないし、愛を持っているのに、そのことを忘れてしまったのかもしれない。
この本では、あくまで「お話し」として、その可能性を否定できたが、現実の世界では、他者の内面を漏れなく描き切ることはできない。
それは、その逆の立場にある道徳的手本たちも同じだ。彼らの行為が、全て愛によっていたかどうかはわからない。マザーテレサも、愛のためではなく自分の私利私欲のため、という気持ちを少しは持っていたかもしれない。それは、誰にもわからない。
また、スキップ、ドリーン達が真のサイコパスかどうかについては、もう一つ疑問がある。この本によれば、真のサイコパスは、自分自身に対する愛情も欠いているということだ。そして、自分を大事にせずに、退屈しのぎのゲームのために、軽率に自分の身を滅ぼす姿が描かれている。
しかし、自分自身を全く尊重せず、愛さないということはできない。ドリーンの方法は邪悪だが、自分とジャッキーを同じレベルにしたい、というのは自分に対する愛だと言っていいだろう。スキップも同じだ。蛙を殺すという行為は、蛙を殺すことにより自分を楽しい状態にすることを目的としており、これは、極めて短期的だが将来の自分に対する愛だと言ってもいいだろう。食事をするのは、自分自身を空腹から救おうとする愛である、というところまで愛を拡大するならば、ある人間が首尾一貫した行動をするためには、少なくとも、なんらかの短期的な自分自身への愛がなければならない。蛙を殺すのが好きだから、自分を苦しめるために蛙を殺さない、とか、空腹だから自分を苦しめるために食事をしない、では意味がわからない。
スキップやドリーンは、完全には愛を欠いてはいない。自分自身に対する愛を持っているという意味で、真のサイコパスではない。
このように考えると、この世界には、スキップ、ドリーンのような極めてサイコパス寄りの人たちと、私やチンギス・ハンのようなサイコパス的要素はあるが中間的な人たちと、マザーテレサのようなほとんどサイコパス的要素がない人たちというように、さまざまなサイコパスもどき達がいる、というのが妥当なところなのだろう。要は程度問題なのだ。
しかし、そこに、心理学は、診断により楔を打ち込む。ここから先はサイコパスであり、ここから手前はサイコパスではない、という分類を行う。そこにあるのが、25人に1人というしきい値となる。
そして、その分類は、なぜか成功している。明らかに、私やマザーテレサは、スキップやドリーンとは異なる。この境界が哲学的に何を意味するのか、そこに私は興味がある。

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