2012年12月22日に書いたものを移行

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1 擬似学問

 私は、安易な「○○学」というような名付け方が嫌いである。親学(おやがく)とか、トランスパーソナル心理学とか、そういう類のものだ。私は、それらを、なんとか学と呼ぶことにする。
 そこには、本物の学問のなかに偽物の学問を紛れ込ませようとする意図を感じる。
 ただし、私は疑似科学が嫌いだと言っている訳ではない。ライアル・ワトソンの「無生物にも知性がある。」というような話はロマンチックで好きだし、疑似科学的な主張について、実験による再現可能性がないではないか、というような理由で切り捨てるべきだとも思っていない。
 私は、よく言われる科学か科学でないかという疑似科学の問題の手前に、学問か学問でないかという擬似学問の問題があると考える。
科学と疑似科学の関係は流動的だ。疑似科学には「まだ科学的な検証がされていない科学的主張」という意味合いがある。そういう意味では疑似科学は科学になりうる。
確かに疑似科学にはそれを超えた胡散臭さがある。普通、疑似科学は科学的検証を経たかのような偽装をしている。しかし私は、その胡散臭さは疑似科学として述べるべきものではなく、擬似学問とでも捉えるべきものであると考えている。
私は、その胡散臭さを、その中身ではなく、社会的な意図という点から捉えたい。「学問ではないものが、学問の有する名声を利用して正当性があるものとして自らの主張を他者に押し付けようという意図を持っていること。」を擬似学問とする。このなかには当然、科学を利用する意図を有する疑似科学も含まれる。しかし、その他にも、科学的手法によらない学問、例えば哲学に対する擬似哲学のようなものも含まれるだろう。
 これから、そのような意図を持つ擬似学問が、どのようなものなのか捉えていきたい。

2 本物の学問

 なんとか学のなかに混在している本物の学問と擬似学問を見分けるためには、学問というものを捉えなければならない。
 大上段から「学問とは何か。」という問いを立てその答えを探すことは極めて困難である。しかし、この文章においては、そこまでの答えは必要ない。私が定義した擬似学問と対比した場合の学問が何か、という問題に答えられればよい。これならば簡単に答えが出せる。
 答えを求める上での手がかりは、私が「擬似学問は、学問の有する名声を利用して自らの正当性を手に入れようとしている。」とみなしていることである。
 つまり、学問には現に名声と正当性がある。学問としての名声と正当性を既に社会的に獲得しているものが学問である。具体的には「物理学」「経済学」といった既に社会的に幅広く認知されている学問の分野がまずイメージできよう。
 しかし、それだけでは新興の学問にとっては不利である。既に学問であるものだけが学問ならば、新たに学問の分野が生まれることができなくなる。
 新興の学問が名声、正当性を有するに値するかどうか考えるためには、既存の学問は名声、正当性をどのように獲得してきたのかを踏まえる必要がある。それは歴史的な視点であろう。東洋世界であれば春秋戦国時代の中国、西洋であれば古代ギリシャといった遠い過去から綿々と続く歴史のなかで学問は発展しつつ名声と正当性を獲得してきたことを踏まえる必要がある。
 ここでキーワードとなるのは「発展」である。
 発展しなければ、学問は名声、正当性を有しなかった。つまりは、学問としての名声、正当性を有するためには発展性がなければならない。
 なお、本来的な意味としては「学問」に名声、正当性は必須ではなく、発展性も必要ないだろう。多分、「学問」というものの最も広義の定義は、「構造化された知識」というあたりにある。広義の「学問」には、神話や寓話のようなものも含まれうる。
 しかし、今念頭に置いている学問とは、擬似学問に対比した場合の学問という意味で、広義の学問ではない。擬似学問が求める名声、正当性を学問は有していなければならない。とすれば、学問という概念はより狭くなり、名声、正当性の基礎となる発展性を有することが必須となる。
 よって発展性があるかどうかで本物の学問と擬似学問を見分けることができる。新興の学問で現在は名声、正当性を有していなくても、発展性があるならば、名声、正当性を有するに値する。

3 学問の発展性

 学問の発展性とは、つまり、自らの修正・否定を許容できるということである。どんなに穏当な学問の発展であっても最低限の学問自体の修正を伴わざるを得ない。
 例えば、私が、リンゴを手から放すと地面に落ちる力を重力として初めて名付けたとする。そして、リンゴ重力学と名付けたとする。そのうち、あなたが、ミカンにも下に落ちる力があると気付き、リンゴ・ミカン重力学として発展させたとする。
そのような単なる事例の追加であっても、重力という意味は大きく修正されている。当初はリンゴにかかる力を重力と言っていたのが、リンゴとミカンにかかる力を重力というと修正されている。
そして、その修正がもはや修正という言葉で捉えられなければ、否定に至る。例えばリンゴが落ちるのは重力によってではなく天使が押しているからだということが発見されれば、もはや重力学とすら名付けられなくなるだろう。
 それでは具体的に自らの修正・否定を許容するとはどういうことかと言えば、それは実際に行われていることを見れば明らかなように、対話、議論を許容し、自らの考えを改めることを許容することである。この例で言えば、対話を経てリンゴ重力学の不備を認め、リンゴ・ミカン重力学を受け入れるということである。
なお、対話は私とあなたの間で行われなくてもよい。私は変化を認められない石頭であってもよい。世間(現実的には学会?)が、リンゴ重力学とリンゴ・ミカン重力学とのどちらが正しいかを議論したうえで、リンゴ重力学からリンゴ・ミカン重力学への変化を受け入れられればよい。そうすれば、学問は発展する。
 これが、学問に発展性があるということである。

4 具体的な検証

 では実際に、親学(おやがく)とか、トランスパーソナル心理学とかといった、なんとか学が本物の学問か擬似学問か見分けるにはどうしたらいいだろう。
 まず、いずれも新興のなんとか学であり、既に社会的に名声や正当性を得ているとは言えないことは明らかだ。よって、発展性の有無という観点から、対話、議論を許容し、自らの考えを改めることを許容しているか検証する必要がある。
 しかし検証には工夫が必要だ。
 なぜなら、ある程度歴史があれば、そのなんとか学のなかで対話、議論があったかどうか観察することで、直接的に発展性があるかどうかがわかるが、新興の学問の場合、そのように観察するだけでは、たまたま、まだ対話、議論がないのか、それとも本質的に対話、議論を許していないのかを、区別することは難しいからだ。
 そこで、成り立ちに注目することが有効だろう。
なぜなら、対話、議論を許容し、学問としての発展性を有しているならば、少なくとも、その成立の場面では、既存の学問との対話、議論があったはずだからだ。
 できれば、既存の学問側からの視点も踏まえた方が良い。論敵のことを完全に認めることはないだろうが、少なくとも、両者の違いが明確になっているかどうか、というような観点からの分析は可能だろうからだ。
 この例で言えば、教育学から親学が分離し、心理学からトランスパーソナル心理学が分離したと考えられるが、既存の教育学、心理学から見て、適切な対話、議論を経て、分離したかどうかを検証する必要があるだろう。
 よって、今のところ、私は、親学やトランスパーソナル心理学を擬似学問とは言っていない。ただ、今述べたような視点で検証しなければ怪しいと考えている。

5 状況証拠

 なぜ怪しいかと言えば、私は、なんとか学が、○○理論とか、○○仮説といったような名付け方をせず、安易に○○学という名付け方をしているからだ。そこに、私は、擬似学問である、という状況証拠のようなものを感じる。
 これまで、擬似学問の内容について述べてきたが、擬似学問の形式面については、まだ語るべきことがあると考えている。
 そこで、私が形式面で怪しいと考えるポイントを明確にするため、限界事例だと思われるものを具体例として示しつつ説明を試みることとしよう。

6 マルクス経済学1 名は体を表す

 私にとっての限界事例として、マルクス経済学、ユング心理学といった、人名+学問の分野という名付け方がある。私は、このいずれも詳しくないので内容が嫌いな訳ではないが、名付け方がよくない。
 多分、「マルクス経済学」という言葉の本来的な意味としては、「経済に関する分野について、マルクスが発見した概念や手法により、マルクスが行った研究結果」というような意味があるだろう。そして、そこにマルクスの後継者たちが行った業績も加えれば「経済に関する分野について、マルクスが発見し、または後継者がマルクスの発見に大きな齟齬がない範囲で発展させた概念や手法により、マルクスが行い、または後継者がマルクスの研究結果に大きな齟齬がない範囲で発展させた研究結果」とでも言えよう。
 私は、その後継者の「マルクスの発見・研究結果に大きな齟齬がない範囲で」というところに不穏さを感じる。もし、後継者とマルクスとで大きな齟齬があれば、それは「マルクス経済学」ではなくなる。そこには、マルクスを逸脱することに対する抵抗感を感じる。
 この抵抗感とは、つまりはマルクスの偉大さだ。マルクスが偉大だからこそ、そこから外れることに抵抗感がある。そこに不穏さを感じる。
 ただし、私は、マルクスの偉大さを無視すべきだと言っている訳ではない。
 マルクスがどういう人でどういう業績を残したかは一般常識以上のことは知らないが、マルクスの偉大さには、述べたことの偉大さと、人間としての偉大さがある。
そのうちの、マルクスが述べたことの偉大さは無視できない。学問において偉大な先人を乗り越えるとは、先人が述べたことを乗り越えるということである。マルクスの経済学を乗り越えようとする者は、マルクスと対話し、議論し(間接的に書物を通じたものであっても)、それに打ち勝つという大きな困難に立ち向かうことになる。そういう意味でマルクスが述べたことの偉大さは無視できない。
 しかし、そのこととは別にマルクスの人間としての偉大さを考慮する必要は学問上ない。なお、私が、ここで人間としての偉大さ、と言っているのは、マルクスが多数の労働者のことを考えていたから偉大だった、とか、頑張って勉強したから偉大だった、というようなことだけを言っているのではない。マルクスはこれまでの経済学にはない革新的なアイディアを思いついたから偉大だ、というような学者としての社会的な意味での偉大さも含んでいる。学者としてのマルクスに着目するならば、私は、学者としての社会的な評価のようなものを除き、学者として何を行ったかという学問の内容としての偉大さのみを考慮すべきだと言っている。
 以上のことを念頭においたうえで、私は「マルクス経済学」というような名付け方は、マルクスの偉大さを必要以上に詰め込んだ表現であると考えている。ここに私は、マルクス経済学という呼称に疑問を感じる理由のひとつがある。
なお、この例ではマルクスという名前が冠されたものを用いたが、例えば現象学と言えばフッサールが念頭にあるように、すべての学問において同じことが言える。その分野の創始者の偉大さが重くのしかかることになる。これは不可避である。
よって、私は、全く新しく学問を独立すべきでないと言っている訳ではない。ただ、軽々しく独立させるべきではない。名は体を表す。だから気をつけなければならない。

7 マルクス経済学2 マルクス経済学自体の否定

 しかしより大きな問題は、マルクス経済学を(マルクス本人と後継者をマルクス達とするならば)「経済に関する分野について、マルクス達が発見、発展させた概念や手法により、マルクス達が行った研究結果」としたことにある。
 このうちの「マルクス達が行った研究結果」というような定義は本来必要ないだろう。なぜなら、そこまで決められてしまったら、議論も何もなく発展性はないからだ。先ほど言ったように、それは学問ではない。
 学問であるならば、マルクス達が発見した「概念、手法」を用いている限り、マルクス達が導き出した結果と違いがあってもよいはずだ。そういう意味では「マルクス的手法による経済学」というような意味で「マルクス経済学」と呼んでいるということなのかもしれない。
 ただし、ここで留意しておきたいが、結果が違ってもいいということは、マルクス達の概念、手法を用いてマルクス達が言ったことを否定してもよいということである。そして、この否定とは、マルクス達の概念、手法が全く役に立たないという全否定をも含む。つまり、マルクス経済学が学問であるためには、マルクス経済学自体が否定されうることをも認めなければならない。
 しかし、「マルクス経済学」というように独立した名前が付与されていることが、それをやりにくくする。そういう意味ではセンスのよい名付け方だとは思えない。不可能ではないがやりにくい。そこが、この名付け方が限界事例だと感じるゆえんだ。

8 不誠実な態度

 私が「マルクス経済学」という例を用いて言いたかったことは、独立した学問の分野として名乗ることで、創始者の社会的名声を密輸し、純粋に学問的な議論をしにくくし、その学問の分野全体をひっくり返すような根源的な議論をしにくくする、ということだ。
 この、あえて、独立した学問の分野としてしまうことで議論を避けようとする不誠実な態度が、擬似学問としての状況証拠だ。
 マルクス経済学やその他の多数の学問の分野の場合には、その歴史において現に議論され発展してきたということをもって擬似学問に陥ることを逃れている。
 一方で新興の、私がなんとか学と呼ぶものたちは、名付け方において擬似学問としての状況証拠を持ちながら、歴史のテストを経ていない。
 だから、私には、これらが、対話、議論に基づく発展性を拒否しつつ、一方で対話、議論に基づく発展性を経たかのように正当性を詐取し、偽りの名声を得ようとしている疑似学問であるように思えてしまうのだ。
 そして、なんとか学の側も、このように疑念を抱かれうるということに意識を向ける必要があるのではないだろうか。