シャバアサナと入不二哲学

PDF:シャバアサナと入不二哲学

ヨガをやっていると、人によって体の動かし方に得手不得手があることに気付く。初心者同士でも、ある人は前屈が苦手で、ある人は後屈が苦手だったりする。

同じようなことが哲学でも言えそうに思う。ある人は政治のことなら柔軟に考えられるのに美については特定の考えに囚われ、また、ある人は神、愛といったことなら、どんな極端な考えも受け入れられるのに、時空の存在を前提とすることからは離れられない、というように。

いきなり柔軟性の話を始めてしまったが、ヨガほどかどうかはともかく、哲学においても一定の柔軟性が必要なのは確かだろう。
哲学をするとは、少なくともある一面では、世の常識にせよ、有名な哲学者の哲学にせよ、既存の考え方を見直し、より掘り下げようとする営みだ。
先輩である有名な哲学者が構築した哲学を勉強し、理解することも哲学の一部ではあるが、それはあくまで、哲学するうえでの準備作業と言ってもよい。そこから、先人の到達点をベースに、自分なりの思索を進めることこそが本当に哲学をするということだ。
既存の考え方から一歩先に進もうとするのが哲学ならば、当然そこには柔軟性が必要となるはずだ。

柔軟性というと、ただコンニャクのようにグニャグニャ柔らかいというイメージがある。
しかし、ヨガでは全身すべてが柔らかくていい訳ではない。体幹とか下腹部、より好きな言い方としては丹田と言われる部位に力を入れることにより、ゆるぎない軸の力強さをつくることで、そこから柔軟性が生まれる。後屈するなら、丹田をしっかり保ち、そこを軸にして上半身を大きく反らす。
ある部位を動かさないことで、逆に、そこを支点としてしっかりと動かすことができる。

同じことは哲学でも言えるだろう。哲学業界においては、例えば「カントの義務論について考察する」というように、有名な哲学者の議論を下敷きにして議論を進めるやり方が一般的だ。つまり、カントの義務論をほぼ受け入れたうえで、そのなかに新たな意義を見出したり、若干の修正を加えたりすることになる。この場合、カントがその論の軸となり、基準となっている。これはヨガにおける体幹であり丹田と言ってもよい。カントという力強い軸があるからこそ、カント哲学という材料を使って大きく思索を進めることができる。また、少々飛躍があっても、カント哲学という共通認識をベースにして、読者に思索の道筋を理解してもらえる。
このように、カントという丹田をしっかりと保つことで、効率的に、多少の飛躍も伴いつつ大きく思索を進められることこそが、哲学における柔軟性だと言えそうだ。

ただし、これは知的活動一般にあてはまるように思える。哲学に限らず、何らかの共通認識となる前提を置くことで効率化につながるのは当然だろう。
例えば自然科学ならば、その前提つまり丹田とは、いわゆる科学的手法なのだろう。科学的手法という、万人にわかりやすく、かつ幅広い知的活動を整理してくれる丹田を拠り所にできたからこそ、科学者は柔軟に自由に活動でき、科学は効率的にここまで成功できたのだ。
また俳句ならば、五七五という美しさが担保されたリズムを前提とすることで、美しさについての共通認識が確保されたうえで、自由で効率的な創作活動ができる。

つまり、知的活動においては、カント哲学や、科学的手法や、五七五といった制約とも言うべき前提を置くことで、逆に自由で柔軟な活動が可能になる。これは丹田を意識することにより効率的に曲げ伸ばしする力が入り、その結果、柔軟性が高まるヨガと同じ構図だ。

しかし、哲学には、このような意味での丹田よりも、もう一歩深い、真の丹田があるように思う。

そのことを考えるためには、僕が好きな入不二基義の哲学が役立つだろう。
(以下、ある程度、入不二哲学を知っていることを前提に書きます。)
彼は、ある概念、例えば「相対主義」のような概念を縦横無尽に動かし、そこに思いもしなかった新しい意義を見出すのが得意だ。
「絶対」と「相対」という正反対とも言える概念を曲げ、伸ばし、接続させ、拮抗させ、消滅させ、円環させる。これは、概念のストレッチであり、哲学のヨガだと思う。
そこには、これまで取り扱ってきた柔軟性とは、別次元の柔軟性があるように思える。

そして、その柔軟性を生む丹田も、別なところに見出すことができるように思える。
入不二の哲学における丹田とは、「相対主義」や「絶対」といった言葉を、どのような意味合いを持たせるにせよ、とにかく文章の全編にわたり使い続けているというところにある。
入不二の文章は確かに変幻自在だが、このことだけは揺らがない。
だからこそ、文章を読み進めるにつれ、同じ「相対主義」という同じ言葉が別の姿を見せていくことに驚き、楽しむことができる。
これは当たり前だがとても重要なことだ。なぜなら、そうでなかったら、文章を楽しむことなどできないのだから。

もし、ある言葉が文章を読み進めるにつれ、いつの間にか別の言葉に変わってしまっていたら、文章を理解することすらできないだろう。
例えば、入不二の哲学書の1ページ目では「それぞれの立場があることを認める主義主張」を表す言葉として「相対主義」という言葉が使われていたのに、その同じことを表す言葉として最終ページでは「ネコ缶」という言葉が使われていたらどうだろう。
それでは、「プロタゴラスは相対主義を主張した。」という話が、いつのまにか「プロタゴラスはネコ缶を主張した。」となってしまう。これでは意味がわからない。

また逆に、ある言葉の意味が、文章が進むにつれ、別の意味になってしまっても、訳のわからない状況が出現する。
例えば、「相対主義」という言葉が「それぞれの立場があることを認める主義主張」を意味する言葉として使われていたのに、いつの間にか「ネコ缶」を意味する言葉になってしまったらどうだろう。
それでは、「プロタゴラスは相対主義を主張した。」というような話が、いつのまにか「プロタゴラスはamazonで宅配してもらった相対主義を開封し、愛猫にあげた。」となってしまう。これでは意味がわからない。

このレベルでの丹田とは、つまりは、ある程度の言葉と意味の対応の同一性のことだ。
これは、哲学に限らず、文章を文章として成り立たせるために必要な、言語表現一般における丹田と言ってもよいだろう。

(注:多分、これは、永井が「転校生とブラックジャック」で行う全能の悪霊による意味論的懐疑の問題とつながる。「疑う」という言葉の成立さえ疑い、「考える」という言葉の成立さえ疑ってしまったら、有意義に疑い、考えることすらできなくなる。いや、別のかたちで思考を進めることはできるかもしれないが、その場合は、別の何らかの言葉、例えば「世界」とか「存在」というような言葉の成立を前提にし、そこを足がかりにせざるをえないだろう。
思考において、なんらかの言葉の同一性は必要なのだ。)

なお、「ある程度の」言葉と意味の対応の同一性としたのは、全く同一では、文章に発展性がなくなるからだ。トートロジーしか語れないと言ってもよい。
「1ネコが寝ている。2そしてネコが起きて水を飲んだ。」という2行で構成された極めて短い文章でも、1行目のネコと2行目のネコでは言葉の意味は全く同一ではない。1行目のネコには寝ているという意味が含まれ、2行目のネコには起きて水を飲んでいるという意味が含まれるという点で異なる。1行目のネコと2行目のネコは、そのような意味の違いも含みつつも、毛が生えたニャーと鳴く哺乳類というような意味でゆるやかにつながっている。
これが、文章における「ある程度の」言葉と意味の対応の同一性だ。
これこそが真の丹田だと思う。

ただし、初心者だけどヨガ好きのはしくれとしては、ヨガで例えるならば、丹田よりも、もっと適切な言葉があるように思う。
ここまで「共通認識としての前提」という程度の意味として「丹田」という言葉を使い、そして「言葉と意味の対応の同一性」こそが「真の丹田」としてきた。
しかし「言葉と意味の対応の同一性」のほうは「丹田」よりも、ヨガで最も大事にされる「呼吸」になぞらえたほうがいいかもしれない。

シャバアサナというヨガのポーズがある。別名、死体のポーズとも言われ、多分、ヨガで最も大切とされるポーズだ。ポーズと言っても、大の字になって仰向けで横になるだけなのだが。
たいがいのヨガのポーズでは丹田に力を入れたりして、色々とがんばる。だけど、このシャバアサナという究極のポーズにおいてはがんばらない。もはや丹田への意識など求められない。
全てを解き放つこのポーズでは、あえて言えば呼吸が重要となるが、呼吸は丹田と違い、そこに意識を向けることすら求められない。荒い呼吸であっても浅い呼吸であっても、それは呼吸であり受け入れるしかないし、呼吸に意識を向けても意識を向けなくても、呼吸は続く。生きている限り、呼吸はただある。そんな不思議な呼吸というものを味わいつくすのがシャバアサナだ。
呼吸とは生きる上での枠組み、束縛かもしれないが、そんな呼吸をも味わい、楽しみ、遊ぶことができるのが、シャバアサナというポーズの醍醐味なのだろう。

僕は、入不二の哲学はシャバアサナのようだと思うのだ。
入不二の哲学では、例えば「相対主義」という言葉について、文章を進めるにつれ、当初は思いもしなかった、あっと驚かせる姿を見せることになる。
そこでは、ここまで述べたとおり、言葉の同一性の確保しつつ、極限まで言葉を揺り動かすという、二つのことを同時に行っている。
それは、言語表現または思考というものの枠組みの限界を試し、受け入れ、更には、もしかしたら、その枠組みを逆に力に変えて、興味深い景色が見える所まで旅しようとする冒険、遊びなのではないかと思う。
そして、そんな彼と一緒に冒険し遊ぶときのワクワク感こそが、彼の文章のなかに僕が感じる、ある種の正しさではないかと思う。

この、呼吸または言語という枠組みを制約としつつも、その枠組み自体を楽しむ姿勢こそが、シャバアサナと入不二の哲学の類似点なのだろう。

当然、ヨガにおいては、シャバアサナだけでなく他のポーズでも呼吸は大切だし、入不二の哲学に限らず世の哲学だって、言葉を使う限り、多かれ少なかれ同じようなことをやっているはずだ。だから、これはシャバアサナと入不二の哲学の専売特許ではない。
しかし、ヨガにおけるシャバアサナと哲学における入不二哲学には、ある種の根源性があると感じる。だからこそ、そこに僕にとってのヨガの楽しみや哲学の醍醐味が純粋に示されているのだろう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です