正月早々インフルエンザにかかり、センター試験を控える受験生の娘から自主的に隔離するため、近所のホテルに3泊もしてしまった。悲しい3泊4日の旅だ。約2万円というホテル代も痛いが、せっかくの三連休を費やしたのも痛い。
この損失をすこしでも取り戻すため、今回の旅の意義について、考察してみることにする。

この旅は何だったのか。
このことを考えるためには、3泊4日の本当の旅、例えばタイ旅行と比べてみるといいかもしれない。
旅の大きな動機は、まずは、そこでしかできない体験がしたい、ということにあるだろう。タイならば、きれいなビーチを眺めたり、おいしいレストランに行ったり、ゾウに乗ったり。タイに行けばそのような特別な体験ができる。けれど、残念ながら、地元から数駅という今回の旅行では、そのような体験のチャンスはなかった。
また、僕が特に重視する旅の醍醐味として、旅先での人との出会いがある。外国では日本人同士というだけで話しかけることができるし、旅行者というだけでサワッディーなどと適当な片言で地元の人に声をかけることもできる。旅先では見知らぬ人との距離を狭められる。だけど、インフルエンザのため外出もままならない状況ではそのような楽しみは見いだせなかった。
今回の旅行が残念だった理由は、このあたりにあるのだろう。
あまり、こういう旅をした人はいないと思うが、あえて言えば、出張に似ている。それも、出張慣れした人がよく行く出張先に惰性で一人で行くようなケースに似ているかもしれない。ただし、仕事すらない出張だけど。

しかし、旅の醍醐味にはもう一つ、「何もしない」という醍醐味もある。日常の雑事から離れるという、いわば引き算の醍醐味だ。これだけは、この旅でもあったように思う。
今回とことん味わった「何もしない」は、なかなかに奥深い。ここからはこの「何もしない」について考察することにする。
思うに、今回の旅は、旅として最悪のものだったからこそ、いわば思考実験のような働きをしてくれたのかもしれない。そこから旅の本質が垣間見えたのかもしれない。

・・・

何もしなかったという点では、この旅は徹底していた。とことん何もしなかった。能動的に何かをする、ということが皆無だった。
まずは体調が悪かったから生理的欲求が薄かった。食欲はなかったし、性的な妄想をする気も起きなかった。
また、旅ならではの特別な体験や人とのつながりなんて積極的に求めようがなかった。コンビニに行くだけで感染させてしまうのでは、と罪悪感があるのに、人と接して何かするなんてとんでもない。
だから何かをするにしても一人でできることに限られる。幸い、僕はヨガとか哲学とか、一人でやることが好きなのだけど、今回は、発熱当初はそもそも体を動かせなかったし、少し回復したのをいいことにストレッチらしきことをしただけで体温が上がってしまった。哲学的思索についても、正直、頭が回らなかった。今回の旅は能動的に何かをしようにも八方塞がりだった。

これは、僕にとってかなり特殊な状況だった。全く身動きができず、全く頭が回らないというほど最悪な状況ではないが、ほとんど能動的になにもできない状況。こういう中途半端な状態が数日続くというのは、多分、数年前に手術で入院して以来だ。いや、あのときだって、体力回復のため深呼吸のトレーニングをしたり、歩いたりしていた。

中途半端な状況に長期間置かれてわかったことがある。

「僕は、何もしなくても、なんとか過ごすことができる。」

中途半端のなかにも波はある。ひどい寒気がして何も考えられずうずくまってしまうときもあった。しかし、たいていのときはテレビやスマホを見たり、漫画を読んだりして過ごすことができた。荷物を片付けなければ、とか、友達に連絡をとらなければ、なんて思いつつも、時間が有り余っているので後回しにしてだらだら過ごすことができた。
なるべく自分からは物事を進めない。部屋に備え付けのテレビ、手元のスマホ、買ってきて転がしておいた漫画、そういった周囲の環境に反応するように過ごす。やるべきことも先延ばしにしてただ怠惰に過ごす。かなりの時間こんなふうに過ごすことができた。
こんな過ごし方のことを「怠惰で反応的」な生活と呼ぶことにしたい。

なぜこんな名前をつけるかと言えば、この「怠惰で反応的」というのは、実は日頃からよくあることだからだ。今回のように、数日間連続というのはなかなかないにせよ、会社から疲れて帰ってきた夜の1、2時間、家の掃除を終えた土曜の午後、というように。
日常に顔を出す「怠惰で反応的」な状況は名付けて考察に値する。

そんな「怠惰で反応的」な状況をこれほど味わい観察できたのは、貴重な経験だった。
これを今回の旅の収穫としたい。

・・・

ということで「怠惰で反応的」について少し考えてみたい。
これは、最悪ではないが最高ではない、中途半端な状況だ。「怠惰で反応的」を一つの段階とするならば、その上にはより良い段階があり、その下にはより悪い段階がある。
僕の実感からすると、この中間的な「怠惰で反応的」な段階の上下にそれぞれ2段階があり、合計で5つの段階があるように思う。

悪い方の段階から具体的に列挙しよう。
僕が体験したことのある最悪の状況は手術直後のICUでのものだ。手術後の傷や体に取り付けられた器具による不快感に包まれているのに身動きもできず、ただ叫ぶしかないような状況だ。近くにテレビがあっても見ることもできない。
更にはこの下に実際に叫ぶことすらできない状況もあるのだろうが、そこまで細分化はせず、これを最悪な状況、最悪の段階の第5段階とする。

今回はこれほどのことはなく、味わったのは次の第4段階だ。寒かったり、暑かったり、喉が痛かったりといった不快感から体と思考を落ち着けることができないような状況だ。テレビなど見る余裕もないことでは最悪の第5段階と変わらないが、少し違うのは、無駄なあがきではあっても、とりあえずは体を動かして、不快感から脱しようと試みることができるという点にある。あがいた結果が出るまでは未来を期待することができる。

この次に「怠惰で反応的」な段階がくる。不快感を忘れることはできるが、忘れるためには自己の内面に留まることはできず、周囲の環境に流され反応的に行動するしかないような状況だ。不快感と一緒に自己の内面を封印するような状況と言ってもよい。これを第3段階とする。

逆に良い方の段階としては、今、この文章を書いているときのような状況がある。身体や思考を縛る不快感や不都合がないような状況だ。これを第2段階とする。しっかり自分の内面と向かい合い、自分自身が本当に欲することのために能動的に行動できる状況だ。

これが、最高の段階のようにも思えるが、特にこうして文章を書いているともう一つ上の段階があると感じる。文章表現においてならば、思いもしなかったアイディアや表現を生み出すことができるときだ。いわゆるノッているときと言ってもよい。多分、サッカー選手なら想像以上の動きでゴールを決めたような瞬間だろう。とてもありきたりの表現ならば、身体や思考の調子がとても良い状況と言ってもよいかもしれない。これが最上の段階、第1段階だ。

こうして5段階に整理してみると、「怠惰で反応的」な第3段階というのは特別な位置にあると感じる。
最悪のとき、例えばICUに居るときでも、この中間段階のときはわずかにでもあった。看護師さんが手元に持ってきてくれた新聞に目を通したようなときだ。それが癒やしとなった。
また最良のとき、例えば頭が冴える日曜の午前中に何の邪魔もなく文章を書いているときでも、疲れたり、気を抜けば、この中間段階に転落する。それは休息が必要というサインでもある。
先程、悪い方から順番に各段階について説明するなかで、第3段階について、「不快感を忘れることはできるが、忘れるためには自己の内面に留まることはできず、環境に流され反応的に行動するしかないような状況」「不快感と一緒に自己の内面を封印するような状況」とした。
しかし、これはあくまで悪い状況のなかから第3段階に上がったところを描写したものだ。逆に良い状況から第3段階に落ちたとするなら「集中力が途切れ、自己の内面に向き合い続けることができず、環境に流され反応的に行動するしかないような状況」というような描写となるだろう。
「怠惰で反応的」な第3段階に至る道には、下から上がりたどり着く不快感を忘れるという道筋と、上から降りてたどりつく集中力が途切れてやむを得ずという道筋の二つの道筋があるのだ。

・・・

どうして、こうなるのか。
それは多分、人がやることには、①やりたくないがやらざるをえないこと、②やりたいこと、③なんとなくやってしまうこと、の3つがあるからではないだろうか。
先ほどの第5段階と第4段階は「①やりたくないがやらざるをえないこと」をやっている段階だ。ICUで苦しむなんてことはやりたくもないが、苦しまざるをえない。
一方で、第2段階と第1段階は「②やりたいこと」をやっている段階だ。僕にとって文章を書くというのは、やりたくてやっていることなのだから当然だろう。(夏休みの読書感想文なら、やらざるをえないことになるけど・・・)
そして、「怠惰で反応的」な第3段階でやっていることこそが、「③なんとなくやってしまうこと」なのではないか。ぼーっと昼のワイドショーを観るなんてことはやりたいことではない。またやりたくないことですらない。なんとなくテレビの電源を入れるまでは意識すらしていなかったことだ。心の隙間になんとなく入り込んできた事柄だ。
やりたいことをしている領域と、やりたくないことをしている領域の間には、茫漠としたどうでもいいことをしている領域がある。

だから、「怠惰で反応的」に対比されるべきは、創造的な知的活動や、苦痛に苦しみのたうち回っている状況ではない。
あえて対比するならば、それは何もしないという過ごし方であるべきだ。
座禅を組み瞑想しているとき、それは何もしていない。これこそが「怠惰で反応的」な生活と対比されるべきものだ。これを第3b段階としよう。「怠惰で反応的」な段階は第3a段階と名付け直す。
第3a段階と第3b段階は、やりたくないがやらざるをえないことも、やりたいこともないという点で共通している。何もすることはないのだ。そこで留まり、何もしないままでいられれば、それが第3b段階となり、それに耐えられず、テレビの電源を入れてしまえば、それが第3a段階となる。
「怠惰で反応的」な第3a段階と「瞑想的」な第3b段階は紙一重なのだ。

そして、この第3段階をどのように過ごすかは大きな意味を持つ。
なぜなら、調子よく第1、第2段階を過ごしていても疲れて一息つくときには第3段階に降りてくることになるし、苦しい第4、第5段階を過ごしていても時々は第3段階に逃れられるチャンスがある。
良いときにも悪いときにも必ず第3段階は訪れる。そんなときどのように過ごすかで、今後の展開が変わってくると思うのだ。
多分、第3段階以外にいるとき、それが良い状況でも悪い状況でも、人は自分をコントロールすることができない。人はやりたいことや、やらざるを得ないこと、その事柄に支配されている。
第3段階にいるときだけ、人は事柄の支配から逃れることができる。それなのに、あえて「怠惰で反応的」な過ごし方を選んでしまったらもったいない。
せっかく革命が成功し、自分の国を治める国王を追い出したのに、そこに昼のワイドショーのような僭主を招き入れてしまったらもったいない。僕はそう思うのだ。
第3段階をどのように過ごすのか、ここにこそ人間の自由がある。

・・・

この第3段階は、呼吸になぞらえることもできる。
やりたいことをしたり、やらざるを得ないことをしているとき、それは息を吸っているようなものだ。「自分が」やりたいこと、「自分が」やらざるを得ないこと、「自分」に力が向かっている。自分の内に力が注ぎ込まれている。これが、第1・2、4・5段階。つまり第3段階以外にあたる。
しかし、息を吸ってばかりはいられないから、息は吐かなければならない。「自分」から力を手放さなければならない。これが第3段階にあたる。
これが、調子がよいときにも第3段階は訪れ、調子が悪いときにも第3段階は訪れるということの一つの説明でもある。

・・・

徐々に回復し、できることが増えてきて、今はこうして文章を書いたりしている。
だけど、僕は怠惰で反応的な生き方の魔力の余韻を感じる。
食欲も回復してきた。だけど、それが面倒くさくも思う。本当は、健康を維持するために必要な適切なものを食べられればよいのではないか。味だって、まあ、ひどく不味くなければいいのかもしれない。というか、食べずに生きていけるなら、それでよいのかもしれない。
性的なことだって、それほど人生の一大事というように求めるほどのものなのか。
人間関係だって、どれほど大事なのか。僕が生きていく原動力の少なくともある一部は、家族が居ることに拠っているように思う。だけど、多分、家族を持たない人だって生きている。それなら家族というのは必須のものではないのかもしれない。現に、当然ながら、皆、僕と会わなくてもそれなりの日常を過ごしているはずだ。
ヨガや哲学だって、どこまで必要かなんて怪しい。
ただ、怠惰に反応的に過ごしても生きていけるのではないか。そんな気分になる。