「知らない人に出会う」を読んで ~儀礼的無関心について~

PDF:知らない人に出会う

「知らない人に出会う」という本を頂いて読んだ。
とても役に立ったので感想を書くことにする。(どう役立ったかは最後に。)

この本は多分、「儀礼的無関心」(電車の中などの公的な空間で見知らぬ人との距離を不用意に詰めずに微妙な距離を保つ配慮、という感じ。)に対するささやかなレジスタンスの本だ。

この本で「儀礼的無関心」という言葉を初めて知ったが、僕の人生の色々な場面でひっかかっていたことに共通の名前をつけてもらった気分だ。「儀礼的無関心」とは、これまでの僕の人生の何割かを占める大きな課題だったのだろう。
大学1年の終わりに初めて日本を離れ、降り立った空港で東南アジアの空気を感じた時、生まれるべきところに帰ってきたと感じたことを思い出す。そこから僕は海外旅行にはまった。今思えば、日本の閉塞感から初めて脱し、そして旅人という、いわば「儀礼的無関心」から解放された特権階級となった開放感にひたっていたのだろう。
また、僕は邦楽ロックのライブが好きだ。音楽自体もいいけれど、同じアーティストを好きな人同士が同じ空間にいることが嬉しい。お互いに語り合うことはないけれど同じステージを見つめ同じ音楽の波が皆を包んでくれる一体感。更に、客席の人同士が語りあうことができればもっといいとは思うけれど、このあたりが「儀礼的無関心」を残しつつ、なんとか両立するギリギリの一体感なのだろう。
そして今僕は哲学カフェを開催している。哲学が好きということもあるが、哲学を使って見知らぬ人同士が緩やかにつながれたらいいと、どこかで願っている。これもきっと「儀礼的無関心」から解放される場がほしいのだろう。
なんだか僕は「儀礼的無関心」から逃れようとしてばかりいたのだなあ。

そして、僕の同志であるこの本の筆者は、「儀礼的無関心」に抵抗するために、他者に語りかけることを勧める。公園などの街中で、いきなり挨拶することを勧める。
これはハードルが高い。旅行中だったり、犬を散歩させていたり、酔っ払っていたり、といった何らかの言い訳がつく状況だったらいけるかもしれないけれど・・・特に理由なく話しかけるのは難しい。
この本でもほのめかされているけど「儀礼的無関心」の根幹には、「こんな都会でお前たち全員とわかりあえるまで話していたら体がもたない。」という問題があるように思える。
つまり、その他大勢の他者というのは、その位置づけからして似たような人たちということが前提にあるから、そこから特定の誰かを選び、その人だけに話しかける理由がない。それならば、全員に常に話しかけるか、誰にもまったく話しかけないかしかなく、現実的には体力や時間的な制約から後者を選ぶしかない。話しかけさえしなければ、何故Aには話しかけずにBにだけ話しかけるんだ、なんて突っ込まれずに済む。
つまり、体力面や時間面での現実的な制約を踏まえると、他者に話しかける理由がないときは、とことん話しかけないという戦略が最も筋が通る。
なお、女性の場合は、話しかけない理由として、他者とトラブルになる危険を避けるということも大きいだろうが、トラブルの解決のためには腕力や労力が必要となることも考えれば、広義には体力面や時間面での制約に含めてよいだろう。

しかし、他者というのは本当にどれも似たような存在なのだろうか。
少なくとも、声をかける候補となるような他者には、同じ公園を散歩していたり、同じカフェでお茶を飲んでいたり、といった特徴があるはずだ。自分と同じ時間に同じ場所で同じような行動をしているというのは十分に特別のように思える。更にはよく観察すれば変わったバッグを持っていたり、際立ってうれしそうな表情をしていたり、といった個性がある人もいるだろう。
そのような個性や共通点に着目し、それをきっかけにして他者に話しかけることはできそうな気がする。
なぜ、それをしないのかと言えば、やはり、それは体力や時間という制約があるからなのだろう。

たくさんの他者に幅広く声をかける労力はかけたくないし、そのなかから話しかける理由がある人を探し出す労力もかけたくない。
そんな怠惰さこそが、他者に話しかけない根源的な理由なのだろう。
「儀礼的無関心」という言葉からは、恥じらいとか、慎ましさとかといったことが理由のようにも感じるかもしれないけれど、要は怠惰なのだ。

この怠惰さとは、できるだけ、これまで通りに変化なく過ごしたい、何も選択肢は与えられずに、自動的に過去と同じように未来を過ごしたい、という気持ちだ。未来に波風を立てるような選択肢の存在になど目を向けたくない。何をもたらすかわからない他者にあえて出会うなどという選択肢には気づきたくもない。
「儀礼的無関心」という名の怠惰さのために、僕達はかなり無理をしている。満員電車を思い出せばわかるだろう。体が密着するほどの距離に言葉が通じる他者がいるにも関わらず、そこに意識を向けない。これはよく考えれば異常な状況だ。普通に考えれば、もう出会ってしまっている距離だ。しかし、それでもなお、かなりの無理をして出会いを避けている。出会いなんてなかったことにしている。

そして、この怠惰さとは、やむを得ず他者と出会ってしまったなら、なんとかそれ以上に関係を深めない選択肢を選ぶということでもある。
無理を重ねても、細心の注意を払っても、他者と出会ってしまうことはある。これは、あれほど忌み嫌っていた未来への選択肢が手元に押し付けられることでもある。この他者との出会いをどのようなものとするか、未来を選択すべき立場に追いやられてしまったということなのだ。
人が少ないカフェを想像すればいい。僕は一人で本を読んでいる。すると、新しい客が入ってきたのか、がらんとした店内に扉を開く音が響く。僕は反射的に顔を上げる。入り口に立ち店内をうかがうように見回す男と目が合う。このとき僕とその新たな客は出会ってしまった。僕が望むと望まざるとに関わらず、そこでは二つの選択肢、つまり話しかけて交流を深めるというカードと、視線を逸らし一人の世界に引き返すという二枚のカードが手元に押し付けられたことになる。こんなとき、僕はたいてい後者を選ぶ。
これが「儀礼的無関心」という名の怠惰さだ。

僕はこの状況を変えたいと思っている。怠惰さに流されるのではなく、人生が与えてくれた出会いのチャンスを活かしたい。
しかし、さすがに満員電車で全員にハグしたいということではない。
今の例でいくなら、満員電車ではともかく空いたカフェでなら、見知らぬ客に、時々、声をかけてみたい。

「満員電車ではともかく空いたカフェでなら。」この例で僕が言わんとするところはだいたい伝わると思うが、人生には色んな出会いの場面があるので、この僕の行動指針について、もう少し汎用性のある整理をしておこう。
満員電車でもカフェでも人との出会いの場面においては、選択肢は二つしかない。交流を打ち切るか、交流を深めるかの二つの道だ。
交流を打ち切るなら、大抵の場合、この本によれば「儀礼的無関心」の重要なプロトコルとされる動作をすればよい。つまり一瞬だけ目を合わせ、その後速やかに目をそらすのだ。この場合、自分への影響はプラスマイナスゼロだ。いや他者と無表情に目を合わせるというのは多少のストレスだから、マイナス1ポイントとしたほうがいいかもしれない。これは満員電車でもカフェでも大きく変わらない。
一方で交流を深める道を進むなら、微笑みかけたり、挨拶をしたりすることになる。どのようなやり方をとるにせよ、こちらの選択肢を選んだ途端、自分への影響の不確定さは急激に高まる。うまく展開した場合には、お互いに微笑み合ってちょっとほっこりした気分になれる、といった程度から、話が盛り上がり生涯のビジネスパートナーとなる可能性までありうる。プラス5ポイントからプラス100ポイントといったところだろうか。悪く展開した場合には、微笑みを無視されるといった程度から因縁をつけられ金を揺すられるといった可能性までありうる。これもマイナス5ポイントからマイナス100ポイントといったところだろうか。
いつもの「儀礼的無関心」戦法をとれば確実にマイナス1ポイントで済んだのに、「がんがん交流しようぜ!」戦法をとった途端にプラス100ポイントからマイナス100ポイントというリスキーな世界に投げ込まれることになる。これなら「儀礼的無関心」でいいや、となる。
いや、少し待って欲しい。詐欺師は向こうから声をかけてくるものだ。こちらから声をかけたら偶然にも悪人という確率はそれほど高くない。それにどれだけ深く交流するかはこちらがコントロールできる。たまたまの出会いがきっかけで金を揺すられるなんて事態は意識すればかなり避けられそうだ。それならば、他者との交流を積極的に図った場合の最もありそうな嫌な展開は、微笑みかけたのに無視された、という程度のものだろう。
それに比べて、交流を図った場合、それが生涯のビジネスパートナーとまではならなくても、楽しい話を数分交わすくらいの関係を築ける可能性は高い。
相手と場所をうまく選べば「がんがん交流しようぜ!」戦法にメリットを見いだせる場面は、結構ありそうだ。満員電車のきれいなお姉さん相手ではかなり難しくても(悲しいけれどナンパや痴漢になっちゃう)、近所のカフェの暇そうなおじいさんならいい展開を期待してもいい気がする。

まとめると僕の行動指針はこうなる。
僕は見知らぬ人ともう少し出会えるよう心がけたい。
ただし、それは無差別攻撃ではなく、場面に応じて、交流が良い結果をもたらす可能性が十分に高いと予想できた時に限ってだ。

なぜこんな当たり前な整理をしたのかというと、確かこの本にも書かれていたが、人は、ポジティブなことが起こる可能性を捨ててでもネガティブなことが起きることだけは避けたいという性向があるからだ。
ここまでの例でいくなら、微笑みかけたのに無視をされるかもしれないとか、話しかけても話が盛り上がらず気まずい思いをするかもしれないとか、そういった些細なネガティブな展開を避けたいあまり、見知らぬ人とのちょっとしたほっこりした交流の喜びや、さらには予想外の素晴らしい出会いが生まれる可能性をまるごと捨ててしまうという性向が人にはあるからだ。
こういう性向にとらわれて、不合理な損得計算はしないよう、心に留めておきたい。

他者との交流の第一歩を踏み出すためにまず必要なのはこのような心がけだろうが、よりうまくやるためには、ある程度の肉体的余裕、精神的余裕、時間的余裕といったものが必要だろう。
なぜなら、うまく交流するにはある種のテクニック、例えば、うまくいきそうな相手をみつける選球眼や気の利いた第一声のノウハウ、万が一、近寄るべきでない種類の人間に声をかけてしまった場合に早めに撤退する判断力などというのも必要となるが、これらを手っ取り早く身につける方法は、経験を積むことだからだ。場数をこなすだけの肉体的余裕、精神的余裕、時間的余裕が重要だ。
このうちの時間的余裕については、それを保持できるかどうかは運まかせと言ってよいかもしれない。トイレに急いでいるとき、見知らぬ人に微笑む余裕はないだろう。
また肉体的余裕についても自分の努力だけではどうしようもないかもしれない。徹夜続きで眠い時に、あえて他者に声をかけるのは無理だろう。
しかし、精神的余裕(気力と言ってもいい)のほうはやりようがある。なぜなら気の持ちようだからだ。そして他者に声をかけるその行為こそが気力の充実につながりうるからだ。

どういうことか。
気力が減少しているならば、それは大抵が過去に嫌な出来事があったからだ。それも大抵が人間にまつわる嫌な出来事だ。誰かから嫌な思いをさせられたり、誰かに嫌な思いをさせたり、自分で自分自身に嫌な思いをさせたり。少なくとも僕は、そういったことで気力を消耗する。
それならば、過去にあった人間に関する嫌な出来事を、人間に関するいい出来事で上書きすることができるのではないか。他者に声をかけるというのは、あまりにも些細な成功体験だけど、僕の勇気で他者や自分自身を少しでもハッピーにできたと思えたら、過去の嫌な出来事は多少なりとも色褪せるのではないか。声をかけるという極めて人間的な行為により、人間関係の苦しみを多少は上書きし、少しは気力を回復できるのではないか。
僕はそう思うのだ。

以上がこの本を読んで考えたことだ。僕はこんなことを考え、少し積極的になってみよう、と決心した訳だけど、実はカフェで声をかけるなんていうのは当分実行する気もない。
なぜなら、もっといいことを思いついたからだ。
まずは、昔出会ったけど疎遠になった人に声をかけてみよう。高校時代の友人。大学時代の知人たち。これなら無視されるようなリスクも負わずに済む。僕の時間的余裕や体力的余裕は、まずは、そういう人たちにこそ使うべきではないだろうか。
そして実際にこの正月に少しだけ実行に移した。数人と連絡をとり後日会う約束をした。この本が旧友とつながろうとする僕の背中を押してくれた。ありがとう!

(この本は誰かにあげようと思う。もらってくれた誰かを通じて、この本の魅力が広まるかもしれないし、広まらないかもしれないから。そんな偶然を楽しむことこそが、この本の意図のように思えるのだ。)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です