生き残りの倫理学

2013年1月10日に書いたもの。
8章構成で長いけど、1つの記事にまとめました。
・・・

ちょっと息抜き的に書いたものです。最後の方は私の哲学の問題意識のまとめっぽいところもありますが、前半は私の趣味です・・・

1 フリーマン・ダイソン
私はフリーマン・ダイソンが好きだ。ダイソンは高名な物理学者であり、「フリーマン・ダイソン 科学の未来を語る」などの一般向けの科学書の作家だが、私は文系人間で物理学はさっぱりわからないので、正確には後者の作家としてのダイソンが好きだ。彼の本では、例えば「脳に超小型の無線機のようなものを埋め込むことにより人々の間で意識を共有することができるようになる。」、「遺伝子操作した巨大な植物でできた天体に居住することができるようになる。」というような、語る人によってはSF小説のネタになってしまいそうなアイディアも含めつつ、説得力のある真摯な姿勢で、人類の百年、千年単位での科学的発展可能性を見据えた提言が行われている。
私は、そこで語られる科学技術の可能性の壮大さに魅力を感じる。一方で、科学技術は野放しに発展して大丈夫だろうか、という危機感を感じる。
この危機感は「科学技術の発展可能性を前にして、私たちはどう科学に向き合うべきか。」という倫理学的な問いでもある。(ダイソンも倫理が重要だと言っている。)
この問いをひとつのきっかけとして、私は倫理学や形而上学的な哲学に興味を持つようになった。最初は応用倫理学的な視点から手がかりが見つけられないかと考えたが、そこに私が望む視点はなかったことから、今は主に形而上学的な哲学に興味が移っている。ただ、形而上学とは言っても、なんとか「べき論」につなげることはできないか、という問題意識を捨て去ることができない。私の興味は、広い意味での倫理学の分野で彷徨っているようだ。
彷徨ってみたところの率直な感想を述べるなら、既存の倫理学は科学の発展に全く追いついていない。科学の発展に対抗するためには倫理学は飛躍的に発展する必要がある。
確かに、倫理学が発展すると言っても、そもそも哲学的な問いに答えはあるのか、哲学に発展などということがありえるのか、という大問題がある。答えを求めず考え続けることこそが哲学だという意見もありうる。
しかし、私たちは、現に、科学技術の壮大かつ急速な発展を前にして、「私たちはどう科学に向き合うべきか。」という倫理学的な問いに対して早急に答えを出すことを求められている。たとえ答えがないとしても、答えを出さなければならない。
私はそこに焦りを感じている。焦りから、少しでも先に進むことは出来ないだろうか、目標地点を確認して目指す倫理学のあり方を素描するくらいのことはできないだろうか、という思いがある。
そのような思いからこの文章を書くこととした。この文章では、まず「私たちはどう科学に向き合うべきか。」という漠然とした問いを具体的な問いに変換することで目標地点を示し、その後、問いに対してどのような答えがありうるのか、現時点での方向性を素描していきたい。焦りからくる不正確さも多々あるとは思うが、答えがなくても答えをださなければならないという事情を鑑み、ご了承いただきたい。

2 人類の絶滅
まず、私に具体的にどのような焦りがあるのか述べておきたい。「私たちはどう科学に向き合うべきか。」という問いを考えるうえで、常に私の念頭にあるのは、人類が絶滅する場面である。運が悪いことに地球に巨大隕石が落ちることをNASAが明らかにした。または、狂気の独裁者により第三次世界大戦が始められ、核ミサイルが大量に発射された。あるいは、研究所から殺人ウィルスが漏れ出した。そして人類は、あのとき火星に移住しておけばよかった・・・核を廃絶しておけばよかった・・・ウィルス研究を禁止しておけばよかった・・・などと後悔しつつ滅亡する。そのような場面だ。
つまり、「私たちはどう科学に向き合うべきか。」という問いは、私にとっては「人類が滅亡に瀕していることを踏まえ、私たちはどう科学に向き合うべきか。」という問いである。このまま人類が滅亡してよいのだろうか、という焦りが私にはある。
しかし、この問題意識は、当然ながら「私たちはどう科学に向き合うべきか。」という問いの一部である。そのように問いを限定してもよいのだろうか。
科学への向き合い方を考えるにしても、人類というような括りで考えるのではなく、例えば個人という括りで考えることができるし、もし人類という括りで考えたとしても、絶滅というような極端な場面を想定せずに考えることもできる。少なくともこのような2つの意味で、私の問題意識は「私たちはどう科学に向き合うべきか。」という問いの一部でしかない。
例えば、「胎児の着床前診断ができるようになったが、診断により障害児であることがわかった場合、堕胎することは許されるだろうか。」というような問いは、個人的な倫理の問題が含まれ、また人類の生き残りに直接関係しないという意味で、人類の絶滅という観点を超えた問いであるが、科学の発展に伴い生じている倫理学的な難問であることには変わりはない。
しかしそれでも、私は「私たちはどう科学に向き合うべきか。」という問いを考えるにあたっては、人類の滅亡ということのみを念頭に置いても大きな問題はないのではないかと考えている。
まず、個人という観点を無視しているのではないかという疑義については、人類の滅亡ということを考えるうえでは、人類と個人との関係について考察することは必須だという意味で、無視してはいないと反論できる。
また、絶滅に至らないような状況を無視しているのではないかという疑義については、絶滅というような極端な状況を想定することで、そこに至らないような倫理的な問題も浮き彫りになるのではないかと反論できる。例えば、先ほどの着床前診断の例も、「着床前診断をしなければ人類が絶滅するとしたら、着床前診断をすること、または、しないことは許されるのか。」という問いに変換すれば、人類の滅亡という問題意識のなかに含むことができる。
確かに、「原則として着床前診断を行うべきではないが、行わなければ絶滅するならば行ってもやむを得ない。」というような答えはありうるので、絶滅という極端な状況が原則論と一致しないことはありうる。しかし、純粋な哲学的思考を行うためには、人類の滅亡という極端な状況を想定することは思考実験として有効だ。極端な状況を想定することで原則論自体を揺り動かすのが思考実験の意義であるはずだ。とするならば、極端な状況が原則論と乖離することはあまり気にするべきではないとも言える。
そう考えると、「私たちはどう科学に向き合うべきか。」という問いを人類の絶滅という問題意識のみに絞って語ったとしても、その問いのかなりの部分を掬い取ることができるのではないだろうか。

3 私たちは生き残るべきか
それでは、人類の滅亡という問題意識を念頭に、「私たちはどう科学に向き合うべきか。」という問いの具体的な内容を考えてみたい。
私の当初の問題意識は、「哲学や倫理学は人類を絶滅から防ぐために何ができるのだろうか。」という問題意識であった。具体的には、「人類が生き残るためには多少は我慢しなければならない、という倫理学的な錦の御旗により、私利私欲のために自ら絶滅を引き寄せているような状況を変えることはできるだろうか。」という問題意識であった。
しかし、そのことを考えようとして、その手前に、より大きな問題があることに気付いた。「私たちは生き残るべきか。」という問題である。
科学技術の発展により、私たちは現在、最大の絶滅のリスクに晒されると同時に、科学技術を用いて絶滅を避けるチャンスも手にしている。言い方を変えれば、私たちは絶滅する最後かつ最大のチャンスにあると考えられる。絶滅のリスクとしては、巨大隕石のような自然的な災害に加えて戦争のような人為的な災害が想定されるが、多分、数百年後、科学技術の発達により、このようなリスクは克服され、私たちは絶滅が困難になる。
どのような科学技術によるかはわからないが、いずれにせよ、ここ数百年の危機を乗り切れば、私たちは絶滅を避け、長期間、もしかしたら数百万年以上にわたり存在し続けることができる。そして、多分、一旦、絶滅を避けることが技術的に可能になったなら、その技術を手放すことは極めて困難だろう。
つまり、この数百年の間の私たちの選択により、私たちが数百年のうちに絶滅するか、今後天文学的単位で長期間にわたり存在し続けるかが決まる。だから、現在を含めたこの数百年の世代で「私たちは生き残るべきか。」という問題について答えを出さざるを得ない。その答えがイエスであれば、私たちは生き残りに向けて努力しなければならない。またノーであれば、私たちは自分自身の生き残りに向けた努力を防がなければならない。
だから、「私たちはどう科学に向き合うべきか。」という問いのなかでも「私たちは生き残るべきか。」という問いは極めて重要な問いである。

4 生き残るための方策
ここからは「私たちは生き残るべきか。」の答えがイエスであったと仮定し、生き残るためにとりうる対応策を想定したうえで、どの対応策をとるべきかという倫理学的問題について考えたい。
まず生き残るための対応策であるが、私は積極的には空間的拡大と時間的拡大、消極的には耐性強化、事前防止という4通りの方策を思いつく。ここでこの4通りの方策について簡単に触れておくことにする。なお、ここに挙げたものだけが取りうる方策ではないかもしれないし、いくつかを組み合わせてもかまわないという意味では無理に4つに分ける必要もないかもしれない。

【空間的拡大】
空間的拡大とは、文字通り、空間的に拡散することで絶滅のリスクを軽減するということだが、その具体的なやり方は多分、宇宙進出である。太陽系の別の惑星に移住できれば巨大隕石等で地球が壊滅的な状況となっても私たちは生き残る。また、他の恒星系に移住できれば、光速を超えた移動ができない限りは移動に要する時間的な制約が防御壁となり、大規模な戦争のような意図的で地球単位で収まらない災害が生じたとしても太陽系単位で収まる局地的な被害として乗り越えることができよう。今後、数百年でそこまでの科学的発展を遂げられるかどうかは怪しいが、太陽系の別の惑星への移住が実現し、惑星単体で独立した文明が維持できるようになった時点で、私たちが絶滅する可能性は極端に低くなる。

【時間的拡大】
時間的拡大とは、個人的な妄想としてはタイムマシンがよいなあ・・・などと考えてしまうが、多分、人工冬眠のような手法となるだろう。宇宙進出に比べれば、大規模な災害に対する対抗手段としては脆弱かもしれないが、ソフトウェアとしての知的財産と、ハードウェアとしての知的活動の担い手である私たちを長期間保存することができれば、大規模な災害の影響が消えた時点で文明を立て直すことが可能となる。そういう観点で言えば、未来の子孫に対して知的財産を残そうとするような手法を広く時間的拡大と言ってよいだろう。

【耐性強化】
人類が災害を乗り切るための直接的な方法としては、人類自身を遺伝子操作するなどして、酸素の消費量を少なくしたり、高熱に強くしたりして環境の変化への耐性を強化するというような選択肢がありうる。なお、このようなミュータント的な方法だけではなく、防護服を開発したり、シェルターを設置したりするようなことも耐性強化に含んでよいだろう。そういう意味では、毛皮を着て、家を建てるようになったときから、既に耐性強化は行われていると言えるかもしれない。
また、この消極的な手法は、空間的拡大、時間的拡大といった積極的な手法と組み合わせることもできよう。例えば、人類を真空に耐えられる体にすれば宇宙開発は容易だろう。また、冬眠できるようになれば時間的拡大により災害を乗り切ることは極めて容易になるはずだ。

【事前防止】
国連のような国際的な調整機関を設立して戦争を抑止したり、警察力を強化してテロを抑止したり、ある種の生物学的研究を制限してウィルスの事故を防いだり、といった対応を事前にとり災害を防ぐ取組みは、現に行われているし、これからも行われるだろう。ただし、これらの取組みは、事前に予想される災害に対応するという性格上、不測の事態による絶滅の可能性を避けることはできないという限界があるため、確実に絶滅を回避するためには他の方策を併用しなければならない。
なお、私が事前防止の手法のうちで比較的効果が高いと考えているものは、テロ対策としての洗脳である。
当面、私が最も危惧している災害はテロである。なぜなら科学の発展により、より少数の者でより大規模な災害を起こすことができるようになるはずだからだ。例えば、個人レベルで遺伝子操作により凶悪な殺人ウィルスを作り上げることは遠くない未来にできるようになるかもしれない。そして、そのウィルスに宇宙空間を乗り越える能力があり、宇宙規模で拡散させることができれば、ある程度の空間的拡大と時間的拡大による対策がとれていたとしても、私たちが絶滅する可能性は高まるだろう。
このように科学技術の発展によりテロの危険が高まる一方で、テロのような個人単位の行為は戦争などの国家単位の行為に比べて事前の対策が困難であることは変わらない。とするならば、テロを防ぐために有効な対応策は何であれ、例え洗脳であっても、真剣に採用を検討する必要があるかもしれない。

5 どのように生き残るべきか
仮に「私たちは生き残るべきか。」の答えがイエスであったなら、生き残りのために、ここで挙げたような手法を採用することになるだろう。そこで、どの手法を採用するべきかという倫理学的問題が生じる。つまり「私たちはどのように生き残るべきか。」という問題がある。「私たちはどう科学に向き合うべきか。」という問いを人類の滅亡という観点から考えるならば「私たちは生き残るべきか。」の次には「(仮に生き残るべきなら)私たちはどのように生き残るべきか。」という問いがあるはずだ。
それでは、ここからは、「私たちはどのように生き残るべきか。」という問いをより具体的なものとするため、具体的な生き残りのための方策を採用することに伴い生じうる具体的な倫理学的問題を列挙していくことにしたい。

「宇宙に私たちではない知的生命は存在すべきか。」
私たちが空間的拡大による生き残りを選択し、宇宙進出を目指したなら、宇宙は私たちで満ちることになる。宇宙に私たち以外の知的生命がいるかどうかはわからないが、仮にいれば、そこに生存競争が発生する可能性がある。その結果、私たちの宇宙進出により、私たち以外の知的生命が絶滅するかもしれない。よって、私たちが宇宙進出を目指すべきかどうかを考える上では、この問いを避けることはできない。
なお、私たち以外の知的生命が存在するかどうかを科学的に検証し、その可能性が低いならば宇宙進出を目指すべきである、というような折衷的で現実的な判断をするとしても、私たち以外の知的生命の存在可能性をどの程度考慮するかという観点は重要となろう。

「どこまでが私たちか。」
人類の後継者をどの程度まで柔軟に考えられるだろうか。例えば、先ほど耐性強化のために人類自身を遺伝子操作するような手法がありうるとしたが、人間としてどこまでの遺伝子操作が許されるのだろうか。極端な例としては、科学の発展を加速させるため複数の人間の脳を接続するというような操作もありうるかもしれない。そのようにして操作された人類を、私たちはどの程度まで人類の後継者として許容することができるだろうか。
更には、シリコンチップでできた人工知能を人類の養子とし、文明の後継者に任ずるというような選択もありうる。これはもはや「人類」ですらないだろう。このような選択をどこまで認めるかどうかは、どこまでが「私たち」と考えるかどうかにかかっている。

「どこまで思考のあり方に手を加えることは認められるか。」
「どこまでが私たちか。」に類似の問題だが、身体的な特徴ではなく、思考の特徴について、どこまで手を加えることが許容されるのかという問題がある。
私が念頭に置いているのは、先ほど述べたようなテロ防止のための洗脳が認められるか、つまり「人間を、人類の絶滅に繋がるような思考自体ができないように操作することが認められるか。」という具体的な問題だ。
洗脳という手法は有効である一方でデメリットも極めて大きい。そのデメリットは、テロリストの人権というような瑣末な問題に留まらない。私が問題視していることは、洗脳された場合、ある方向の思考ができなくなり、将来的にもある方向の思考をする可能性が失われるということである。例えば、全人類が洗脳され「他の動物を犠牲にしてまで人類は地球上に存在するべきか。」という疑問を感じることができなくなれば、ある種の倫理観から起こされるテロは防げるだろう。しかし、あわせて「他の動物を犠牲にしてまで人類は地球上に存在するべきか。」という倫理学的な問いは永遠に失われる。
何が正しいのか、という哲学的な問いに対する、ある方向からの検討が永遠に失われたならば、私たちは正しさにたどり着くことはできない。もし、私たちが正しさにたどり着けないならば、私たちに存在すべき知的生命としての資格があるのだろうか。
ここでは極端な例として全人類の洗脳という方法を想定したが、そこまでいかなくとも、個人的な自由を制限することで、社会的には洗脳に近い効果が得られる。個人の思考自体への制限は行われてなくても、社会的な意味での思考を制限することは可能である。現に、ある程度自由が制限されていることを踏まえれば、この問いは現に重要な問いである。

「誰が生きられるのか。」
私たちが絶滅の危機に瀕したとき、誰をノアの箱舟に乗せるのか、つまり、誰が人工冬眠や宇宙脱出をするのか、という問いがある。
この問いは、最終的には、私とあなたとではどちらが大事か、というような話に至る可能性もあるが、あくまで人類の生き残りというレベルで捉えれば、子孫に残すべき遺伝的形質をどのように選ぶべきかというレベルの問題で解決する可能性もある。
しかし、私はもうひとつ問題があると考えている。現実に誰が生き残るかどうかを倫理的に正しく決定することは可能なのか、という問題だ。この程度の問題が解決できないならば、私たちは生き残るべきでないかもしれない。平和裏に誰が生き残るかさえ決められない者に、生き残る資格があるのだろうか。
だから、私は、この問題は「私たちは生き残るべきか。」という問いの副次的な問いなのではないか、と考えている。

「避難させる知識をどのように選択するのか。」
ノアの箱舟に乗せるものとしては、私たちというハードウェアだけではなく、ソフトウェアとしての知的財産もある。とすると、ソフトウェアとしての知的財産についても、どの知識を残すかという問題がある。例えば、トマトの栽培方法と最近流行ったアイドルの名前とではどちらが子孫に引き継ぐべき知識なのか、という問題だ。
こう書くと簡単な問題のようにも思えるが、それは、子孫に残す知識を操作すべきか、という問題でもある。ウィキペディアのような電子的アーカイブが準備され、物理的にかなりの量の知識を避難させることも可能となってきた状況において、残すべきかどうか判断に迷う知識、例えば核兵器の作り方のような知識を意図的に子孫に残さないことは許されるのだろうか。
また、電子的アーカイブ化により物理的な制限がなくなってきたとは言っても、例えば、残す知識の多さに比例して、ハードウェアとしての文明の担い手も多数必要となることを考えると、どの程度の知的財産が子孫により維持できるかについては、技術的な制約があるはずだ。とすると、「どこまでが私たちか。」という問いと類似の問いとなってしまうが、どの程度の知的財産が子孫により維持されれば、私たちが子孫に知識を残したことになるのかについても考えておく必要もある。

「現世代は将来のためにどの程度コストを払うべきか。」
例えば、私たちの生き残りのために宇宙開発を行うなら、そこには莫大な金銭的なコストがかかる。また、ロケット打ち上げに伴う環境破壊のような金銭以外のコストも払う必要がある。
つまり、生き残りの努力は、現世代の生活レベルにとってはマイナスに働く。このコストを現世代はどの程度払うべきなのだろうか。そこには、宇宙、知的生命というような集合レベルの問題意識と、物質的に恵まれた生活を送りたいというような個人レベルの問題意識との衝突があるだろう。
ただし、この問いは、他の問いに比べれば重要性は低いかもしれない。なぜなら、例えば宇宙開発に努めなくとも、宇宙開発はノロノロとでも進み、スピードは遅れても空間的拡大は維持されるだろうからだ。生き残りに必要な技術開発に集中投資しなくても、私たちが絶滅するリスクが減るテンポが遅れるに過ぎない。
また、個人の欲求は、個人間の脳の結合により個人という意味自体を消失させるというような飛躍的な手法で解決する可能性もあり、また、先ほど挙げた洗脳のような方法で乗り切ることもできうる。そう考えれば、個人と集合の対立という捉え方自体、所与のものとするべきではないのかもしれない。
しかし、現実には、ある技術的な課題を乗り越えるために、莫大なコストを私たちに強いる可能性もある。例えば、宇宙開発のためには軌道エレベータが必須だということになり、軌道エレベータは運用を一歩間違えれば大災害を引き起こすのだとしたら、私たちはどのような選択をすべきなのだろうか。

「科学に特権的な地位を与えるべきか。」
私には、生き残りの積極的な手法としては、宇宙開発や人工冬眠というような科学的手法しか思いつかない。だから、なんとなく科学技術の発展が必須だと考えてしまう。
しかし、他の手法としては、例えば、神に祈るというような宗教的な手法もありうる。私自身が否定的なのでよい具体例が思いつかないが、科学技術とは別のアプローチもありうることは確かだろう。そう考えると、科学に特権的な地位を与えるべきかどうかについては、まず考えておく必要がある。
ただし、これは、科学にどれだけのコストをかけるべきかという先ほどのコストの話にも重なるし、科学偏重を思想的な洗脳の結果だと捉えれば、洗脳の話にも重なるので、独立した問題ではないのかもしれない。

6 もうひとつのリスク
このように、いくつかの問いを列挙してきたが、その前提としては、隕石、戦争、テロといった災害を絶滅のリスクと考えてきたということがある。
しかし実は、私が同程度に重視するリスクとして、「知的文明維持の意欲の減少」がある。これは、私たちの子孫が、祖先から引き継いだ知的文明を維持、発展させる意欲を失うということである。
現在でも、科学は複雑化、高度化により、科学の最先端に到達できるようになるまでに学ぶべきことが増大している。つまり、下積み期間が長くなることで、科学的な成果を上げることが困難になってきている。また、科学的研究は、研究分野の細分化により、達成したときに得られる果実も矮小化しているように思われる。更には、物理学のある分野では、大統一理論への到達が期待されているように、科学の発展による知的フロンティアの減少という問題もありうる。そういう意味で、科学に対する知的好奇心を維持しにくくなることを危惧している。
これに対応する方策としては、技術的には教育のあり方を見直すというようなアプローチはあるだろうが、根本的な解決方法としては、例えば意欲というものに関係なく学ぶことができるコンピュータを文明の継承者とすることもありうるかもしれない。仮にそのような解決策をとるならば、「どこまでが私たちか。」という問いはより重要な問いとなるだろう。

7 答えの方向性
それでは、これらの問いに対しては、どのような答えがありうるのだろうか。
私には、どの問いにも共通の側面があるように思われる。そこで、ここでは、個々の問いに対してのありうる答えを列記するのではなく、その共通の一つの側面について述べていくことにしたい。
ただし、その共通の側面とは私にはある一つのことを指しているように思われるのだが、どうも断片的にしか繋がらず、うまく説明することができない。そこで、これからいくつかの述べ方をするが、いずれも同じ一つの側面を断片的に述べようとしているものとして読んでいただきたい。

【擬人化】
「どこまでが私たちか。」という問いに象徴されるように、どこまでを自分自身と同等のものとして捉えるかにより、ここに挙げた問いの答えの方向性は決まってくるように思われる。
例えば「宇宙に私たちではない知的生命は存在すべきか。」については、地球外知的生命を自分自身と同等のものとして考えるならば、同等に存在すべきものと考えることにつながるだろう。また、子孫たちを自分自身と同等のものとして捉えるならば、子孫たちのために多くのコストを払うことを厭わないだろう。
この自分自身との同等性についてイメージを喚起した言い方をするなら、擬人化とも言える。地球外知的生命や遠い未来の子孫たちを擬人化できるかどうかでこれらの問いに対する答えの方向性が決まってくる。
時間的な広がりを捨象し、空間的な広がりだけで考えても、宇宙全体、知的生命、共同体、家族、個人といった多くの段階があるが、その各段階のうち、どの程度まで擬人化できるかどうかが問われている。
そして、「私たちは生き残るべきか」という私が最重要視している問いについても、実は、宇宙全体というような括りで擬人化できるかどうかという問いなのかもしれない。仮に擬人化できるなら、自分自身に対する肯定感を投影して宇宙全体を肯定するか、自分自身に対する否定感を投影して宇宙全体を否定するか、のどちらかなのかもしれない。
(なお、擬人化とは、これまでの私の文章ではアミニズム、同一律などとして登場しているものの新たな言い替えだと考えている。)

【私という観点の呪縛】
現在の宇宙論によれば、ビッグバンで始まった宇宙は膨張して冷却し、ビッグフリーズというかたちで終わりを迎えるということだ。何が終わりなのかはよくわからないが、宇宙が何も生み出さなくなるという意味で言えば、終わりを迎えるということなのだろう。
とすると、終わりを迎える前に生み出された知的生命には何らかの宇宙の観察者としての意味があるのかもしれない。更には知的生命の科学力をもって、宇宙の終わりを乗り越えられる可能性さえある。宇宙はそのような知的生命を望んでいたのかもしれない。もしそうだとすれば、宇宙に私たちは存在すべきであり、そのためには私たちはどのような変質も受け入れ、いかなるコストも支払わなければならない。
これは極端なストーリーだが、このように、私という個人の観点を離れ、より大きな観点から考えることで、何らかの答えが見つけられる可能性がある。
なお、この文章の最初の方で述べた、人類の滅亡ということを考えるうえで個人という観点は無視できず、人類と個人との間の関係について考察することが必要だとしたことの私なりの答えの方向は、このようなものだ。

【言語の限界】
私は哲学において答えが出ない最大の理由は、言語を用いて言語自体を哲学するという自己言及的な困難さにあると考えている。
控えめに言っても哲学にとっての最大の武器は言語であるにも関わらず、その言語自体が掴みきれないものであるということが、哲学全体を捉えどころがないものにしている。
倫理学は哲学の一分野であるということを踏まえると、この文章で挙げたような倫理学的な問いについても、その捉えどころのなさから免れることはできない。
しかし、言語について新しい知見を得ることができれば、これらの問いの答えに一歩近づくだろう。

【現実】
私たちは現実の真っ只中にいる。私のこのような倫理学的な考察も現実には役に立たないと言われるかもしれない。それでも現実に私たちは、答えを出さなければならない状況にある。
また、この文章は観念的な言語であると同時に、現実に存在する。その現実に、哲学、倫理学の土俵で、観念的な言語を武器に挑もうとしている。
このように、この文章についてちょっと考えただけでも、そこにあるのは現実ばかりだ。
その現実に言葉で立ち向かおうとしているということを踏まえると、ここには、言語で現実を捉えることができるか、という問題があるのかもしれない。もしそうならば、私が感じている言語の限界という問題意識に極めて近い。
ただ、何かが足りない。「言語の限界」という言葉では、現実の言語の限界をうまく示せていないような気がする。

【単純性】
私たちは、ここで述べたような哲学的、倫理学的問題について、答えがなくても早急に答えを出さなければならない。そのためには、「当面の」答えを選ぶための基準を持たなければならないかもしれない。
私は、その基準の最有力候補は単純性、つまり、その答えがどれだけ単純かだと考えている。
ただし、単純性というものを重視している最大の根拠は、論理的なものではなく私の直感によるものだ。私には、「私が哲学的思考をするうえでは、あるアイディアを思いついたとき、無意識に、より単純化することができないかどうかというテストをしているように感じている。」という直感がある。
この直感を超えるような理屈付けができるかどうかが、単純性という基準に意味を持たせることができるかどうかの分かれ目になるのかもしれない。

8 さいごに
私は以上のような方向で考えている。つまり、無理やりつなぎ合わせれば、「私は、現段階で擬人化という概念に注目をしている。それが私という観点の呪縛の正体であり、言語の限界を超え、言語と現実をつなぐ紐帯になっているのではないかと見込んでいる。そして、この仮説は、擬人化というただ一点に注目しているという意味で単純であるが故に正しい見込みがある。」ということだ。
しかし、単純性により答えを導き出すことは本当に正しいのだろうか。哲学において単純な答えを探すということは、窓やドアのない密室で掃除をしているに過ぎないようにも思う。哲学的疑問をゴミに例えてはいけないかもしれないが、単にゴミを一箇所に集めただけで、部屋の中のゴミの総量は変わっていないのではないのだろうか、という思いを拭い去ることができない。
なかなか正しさにたどり着くことができない哲学に、人類の絶滅という大問題に立ち向かう力はあるのだろうか。そう考えると余計に焦ってしまう。

PDF:ikinokori

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