右と左

これは、2012年12月31日に書いた文章。結構前だなあ。民主党とかないし。それにちょっと意味がわからない。
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最近の日本は右傾化していると言われる。言葉の本来的な意味からすれば保守化しているということだ。グローバル的な経済的競争、高齢化の到来、古くからの共同体の崩壊といった困難な状況にある現在、既に手に入れているものを守りたいという思いと、失敗する余裕がないという思いが交錯し、変化を好まないのは当然だろう。
しかし、変化しないと維持もできないという当たり前のことを思い起こせば、保守的であっても何らかの新しいことはしなければならない。つまり、保守的であっても新しいことをする。また一方で、当然ながら、革新的であっても、全てを新しくすることはできないので、維持されるものはある。つまり、保守的であっても革新的であっても、新しいものと古いものの両方が必要だということは変わらない。
保守、革新と言っても、程度の差であり、あえて言えば、どちらを重視しているというイメージを打ち出すかという広告戦略の違いに過ぎない。キャッチフレーズを「今までどおりの安心」とするか「現状打破」とするかの違いだ。具体的な施策については、変えるべきものは変え、変えるべきでないものは変えないという意味で、そうは変わらない。
それなのに右、左と言ったとき、その中身もかなり違うように思われるのは、そこに別の意味が重ねあわされているからだ。保守、革新という基準以外に何をもって右、左とするのかは、その時代によって異なる。フランス革命の時代であれば、中世的で共同体的な価値を重視するのが右で、近世的で個人的な価値を重視するのが左だというような意味があり、冷戦時代であれば、自由を重視する資本主義が右で、平等を重視する共産主義が左だというような意味があった。
しかし、右、左という言葉に込められる意味は、その時点における従来の状況によるという意味では、先ほど言った保守、革新という区分を超えるものではない。ある時点において従来の状況を保守するのであれば右、革新するのであれば左だということに過ぎない。フランス革命の時代であれば、これまで中世的で共同体的な価値が重視されていたので、それを保守的に維持するのが右で、近世的で個人的な価値に革新するのが左になり、冷戦時代であれば、これまでの自由な資本主義を保守的に維持するのが右で、新たに共産主義に革新するのが左となったというように言える。
そこを混同したことにより、現実には、右、左というレッテルを貼ったことによる混乱が生じている。混乱により、右、左という言葉にここで述べたような別の意味が重ねあわされているように思える。例えば、冷戦時代の右、左という印象がとても強かったため、そこから今でも抜け出せず、自由を重視する小さな政府を志向することを右、平等を重視する大きな政府を志向することを左と呼んでいる。
本来は、従来大きな政府が志向されていたなら、それを維持することが右であり、それを変革して小さい政府を志向することが左であるはずである。フランス革命時の観点で言えば、従来の中世的で共同体的な価値が重視することが右で、新たに近世的で個人的な価値を重視することが左であったことから、現在でもそのような意味が右、左という言葉に込められている。しかし、現在の日本からすれば、長らく近代的な個人的価値が重視されてきたことを踏まえ、近世的で個人的な価値を重視しつづけることが右で、新たに中世的で共同体的な価値が重視しようとすることが左となるはずである。
そこで、近代の大きな政治的事件だと思われるフランス革命と社会主義革命の2つの革命に注目し、それにより貼られたレッテルを剥がして、現在の日本の状況を捉え直してみよう。これまでの日本では、大きな政府が志向され、近世的で個人的な価値が重視されてきた、ということを踏まえ再整理すると、現在の日本における政治的な立場は次の4パターンが考えられる。
①大きな政府(保守)で個人的価値重視(保守)
②大きな政府(保守)で共同体的価値重視(革新)
③小さな政府(革新)で個人的価値重視(保守)
④小さな政府(革新)で共同体的価値重視(革新)
ここで、それぞれのパターンについてイメージをしてみる。
①大きな政府(保守)で個人的価値重視(保守)
これは、個人の権利等を重視し、大きな政府により、きめ細やかなサービスを提供していくものであるから、福祉国家的である。ばらまき的な施策に陥りうると意味も込めて現在の民主党に近いと言ってよいかもしれない。
②大きな政府(保守)で共同体的価値重視(革新)
これは、共同体的地縁や階級等を用いつつ、国家の統制等を強めるということであり、その例としては開発独裁的な国家が挙げられよう。 あえて言えば、軍事という国家権力を強化し、天皇制等の伝統的な階級的価値を強化しようとしているという意味で現在の自民党に近いだろう。
③小さな政府(革新)で個人的価値重視(保守)
これは、国家の統制が最小限な状況において個人的価値が重視されるという意味で、アメリカが典型例である競争社会と言えよう。
④小さな政府(革新)で共同体的価値重視(革新)
これは、国家の統制が国民に浸透しない状況で共同体的地縁や階級等により社会が成立しているという意味で中世的であると言えよう。
ここで、私のお勧めは④だ。
私の見立てとしては、今社会に蔓延している不幸の主たるものは現代文明特有の不幸であり、現代文明の不幸の原因は、極度の言語化にあると考えている。そして、言語化の最も大きな弊害は思考の停止だと考えている。この思考停止が不幸を招いている。
思考停止とは、例えば、この文章で取り上げた、右、左というレッテル貼りの例がある。私はこの文章で、右、左とレッテルを貼り停止していた思考を再起動したつもりだ。
(ただし、この文章も言語である限り、言語化の弊害から免れることはできない。多分、右、左について2つの評価軸で判断するということにも、どこか誤りがあるだろう。)
それ以外のレッテル貼りによる思考停止の例としては、権利という言葉がある。権利のなかにも、実際は、相手を貶めるためだけに主張している、守るに値しない権利もある。それでも権利と言われれば、必ず尊重しなければならないように思えてしまう。これが権利というレッテルを貼るということである。
また、似たような例としては契約という言葉も挙げられる。有効な契約書に基づき、非人間的な結果を招くこともある。実態を見れば、契約により酷い結果を招くことが明らかであるにも関わらず、だ。それでも契約と言われれば、尊重しなければならないように思えてしまう。これが契約というレッテルを貼るということである。
権利、契約と言われれば、その実態が捨象され、それだけで尊重すべきものとなる。このようなレッテル貼りによる思考停止が言語化の弊害だと考えている。
言語化という観点から見れば、大きな政府であるということは、法律等の言語的なルールにより、国家による判断、命令が明確に言語的に行われる機会が多いということだ。また、近代的な個人的価値を重視するということは、西洋的な契約、権利といったものを重視するということであり、言語を重視するということである。
つまり、①が最も言語的で、④が最も言語から離れている。よって④を選択することで、言語化による思考停止を緩和することができる。
当然、④を選択し、中世に戻ろうとしても、現代文明の真っ只中にある限り、それほど言語から離れられる訳ではない。しかし、この一呼吸、言語から距離を置いてみようとする姿勢により、言語の限界を意識することが出来る。そこが重要なのではないだろうか。

PDF:migitohidari

 

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