2013年8月31日の作品

PDF:ロックの日

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6月9日はロックの日なので、ロックに関する2013年6月9日に思いついたこと、ロックとは何か、について書くことにする。

ロックについて語るならば、まず、ロックというものに対するイメージを合わせておく必要がある。
一般的には、ロックの本場はアメリカやイギリスで、ロックを一番体現しているのは、ビートルズだったり、エアロスミスだったり、ニルヴァーナだったりするのかもしれない。ロックにはそういうイメージがある。(洋楽はよくわからないけど)
だけど、僕は、日本のロック好きなので、ロックといえば、尾崎豊だったり、銀杏ボーイズだったり、theピーズだったり、曽我部恵一バンドだったりする。
これから書こうとすることは、日本とイギリスでは、どっちが本物のロックか、なんて話ではないから、この文章を読むにあたっては、僕がイメージしているのは、そういう日本のロックだということをわかってもれえればいいし、せめて日本のロックバンドもロックだということにしてもらえればいい。

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僕が好きな日本のロックバンドのなかでも、ロックとは何かを語るならば、怒髪天は外せない。
怒髪天というバンドは、最近、遅咲き親父ロックバンドみたいな取り上げられ方でテレビにも時々出ている、40代後半(2013年現在)の、あまり華やかではないバンドだ。多分、代表曲を言うよりも、桃屋のCMに出ている人、と言ったほうがイメージがわくかもしれない。
その怒髪天のボーカルである増子直純は、ロックとは何か、という問いに対して、直球で答えている。
普通、ロックバンドというものは、ロックとは何か、というような一番大事なことは、言葉だけでは伝えず、曲に乗せて間接的に表現するものだが、怒髪天は違う。当然、曲でも伝えているが、惜しげもなく、直接的な説明をしている。
それは、確か、数年前の、ロックの学園というイベントだった。僕は、テレビか何かで見たのだと思うが、増子は先生役として、生徒役の観客を前に、こんな授業をしていた。
「ロックはヤバい優先。だから「遅刻」or「ズル休み」だったら「遅刻」の方がヤバいからロック。「フる」or「フラれる」だったら「フラれる」の方がヤバいからロック。だけど、一番大事なのは「生きる」or「死ぬ」で、「生きる」の方がヤバいからロック。だから生きてる人はみんなロック。生きてるだけでオッケー!」というような内容だ。
(記憶が定かではないので、いくつかのブログを見て書いています。)
怒髪天ファンの僕としては、これが、ロックとは何かという問いの答えだとしてもいいのだが、その意味することころを、僕なりに掘り下げて解釈してみたい。

まず、ロックが選択の問題として提示されているということに注目したい。
怒髪天のロクデナシという曲にも、「どちらにしようか迷ったら、どっちがロックだ、これで決めるぜ」という歌詞がある。
例えば、大学に進学するかどうか、友達の彼女を好きになってしまったときに告白するかどうか、日曜日の夜に明日からも出勤すると決心するかどうか、そういった選択の場面で、どっちがロックなのか、というかたちで、ロックは登場する。
(本当は、ロックの学園で増子先生が使った例を使いたいが、忘れてしまったので、僕なりの例で説明する。)
それでは、大学に進学するのと、高卒とでは、どっちがロックなのだろうか。
また、友達の彼女に迷惑を顧みず告白するのと、告白しないのとでは、どっちがロックなのだろうか。
来週も会社に行くのと、会社を辞めてしまうのと、どっちがロックなのだろうか。

その選択において、増子は、「ヤバい優先」と言っている。
「ヤバい優先」を言葉通りに解釈するならば、自分を危険や何らかのマイナスに晒す方がかっこいいということだ。その考えでいけば、先ほどの例ならば、将来のことなんて考えずに大学なんて行かず、とりあえず告白して、会社なんて辞めるのがロックだということになるだろう。
そんなふうに生きるのがロックだというイメージは、ステレオタイプ的な破滅型のロックンローラー像とも一致する。

しかし、一方で、増子は「「生きる」or「死ぬ」だったら「生きる」の方がロック」「生きてるだけでオッケー」とも言っている。
これは、なんだか、「ヤバい優先」と矛盾しないだろうか。
ヤバいを追求するならば、最終的には、究極的にヤバい結末である、死に至るのではないだろうか。尾崎豊だって死んでいるし。
そこには、「四十五歳になってサティスファクションをまだ歌っているくらいなら、死んだ方がましだ」と昔に言っておきながら還暦を過ぎても歌い続けているローリングストーンズのミックジャガーのような矛盾があるように感じる。(村上春樹の本で読んだ話です。)

ロックバンドのボーカルが言うことに論理的整合性を求める必要なんてないのかもしれない。
観客に何かが伝わればいいのかもしれない。そしてライブが盛り上がればいいのかもしれない。そこに厳密さは不要なのかもしれない。
しかし、僕は、ライブで増子から観客に対して何かが伝わると言うことは、そこには何か、正しさがあるのではないかと感じる。
その何かを、僕が、多少は得意だと自負している哲学的な視点、というほどのものでもないが多少は厳密な言葉で捉えたいと考えていた。
そして、僕は、6月9日ロックの日に、そのためのアイディアを思いついた。
ここで、そのアイディア、つまり、ロックとは何か、という問いについての、僕なりに再構成した答えを披露したい。

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そのアイディアは、こうだ。
そもそも、ロックというものを、二つの道のうち、どちらを歩むのか、というような選択の問題として捉えたことに誤解があったのではないか。
そうではなく、実は、ロックとは、そこに、別の選択肢があるということに気付くことができる生き方の姿勢のこと自体を言うのではないか。
それが、僕が6月9日に気付いたことだ。

具体的に、先ほどの大学受験の例で説明すると、なんとなく、親の言いなりで大学受験をしようとする優等生の高校3年生がいたとする。その高校生が、本当にこのまま大学に行ってもいいのかな、バイトして金を貯めて海外を見てみたいな、と思ったら、それはロックだ。
一方で、不良で勉強もイマイチだった高校3年生が、ふと、医者になって人の命を救いたい、と思って医学部を受験するため勉強を始めたい、と思うならば、それもロックだ。
つまりは、大学受験をするとか、しないとか、そういう結論にロックがあるのではなく、今まで気付かなかった別の選択肢があると気付くことがロックなのだ。
だから、周囲に迷惑をかけてはいけない、とばかり考え、友達や友達の彼女に気を遣って告白できなかった男子が、自分の気持ちを貫き通してもいいんじゃないか、と思うこともロックだし、逆に、自分の気持ちばかり考えていた男子が、友達や、友達の彼女に気を遣って告白を思いとどまるべきじゃないか、と気付くこともロックだということになる。
他にもいくらでも例は挙げられるかもしれないが、そこに共通していることは、今までどおりではない選択肢があることに気付けたということであり、また、その前提として、そこに選択肢があることに気付けるような生き方ができたということだ。
これが、僕が考えるロックだ。

そう考えると、増子の「ヤバい優先」という言葉も、危険優先、というような字句どおりの解釈ではない別の解釈ができる。
今までの生き方を漫然と続けることは楽だ。そこに別の選択肢を見出すことは、決して楽ではない。それでも、その楽ではない姿勢を持たなければ、ロックではない。
あえて、楽ではない面倒さを背負い込む生き方を選ぶということが、ロックであり、当たり前だと思っていた景色に疑問を持ち、現状に満足しないことがヤバい、ということなのではないか。
そう考えれば、僕が考えるロックと、増子の「ヤバい優先」は整合する。

また、同じく増子の「生きてるだけでオッケー」についても僕が考えるロックに引き寄せた解釈ができる。
それは、こういうことだ。(少々理屈っぽくなるけど、勘弁してください。)
別の選択肢があることに気付くという、僕が考えるロックを徹底すると、人生を生きるにあたって、お金持ちになるべきとか、偉くなるべきとか、社会の役に立つべきとか、といった絶対的な物差しはなくなる。
まあ、お金持ちになるのがロックじゃない、というのは、なんとなくイメージしやすいが、実は、社会の役に立つ、というような、通常、誰もがいいことだと認めるようなことも、ロックという視点からは、決していいことではない。
なぜなら、社会の役に立つようなことであっても、それが絶対にいいことだと凝り固まるならば、他の選択肢を見失うということになる。それはロックではない。
かといって、当然だが、社会の役に立たないのが絶対にいいことだと凝り固まるのもロックじゃない。
何にしても、絶対にこうだ、という判断はロックじゃない。つまり、ロックを徹底するならば、「絶対」なんてない。
そうやって、色んな価値観のようなものが削ぎ落とされたところに「生きてるだけでオッケー」がある、と考えることができる。
金持ちがよくもないし、貧乏がよくもないし、偉いのがよくもないし、偉くないのがよくもないし、社会の役に立つのがよくもないし、社会の役に立たないのがよくもないし、確かに言えるのは、生きてるってことだけだよ、だからそれでオッケーだよ、ということだ。
なんだか、哲学的だったり、仏教的だったりするけれど、そういうところに、ロックは通じていると僕は思う。

また、同じことは別の言い方もできる。「生きてるだけでオッケー」とは、つまり生きるということだけど、その反対にある死、特に意図的に自ら選ぶ死、つまり自殺というものを通じて述べることもできる。

自殺をするということは、つまりは自ら死ぬという生き方を選ぶということだ。ところが、ロックとは、漫然と生き続けるのではなく、そこに選択肢を見出そうとする姿勢だ。だから、この死ぬという生き方に対しても、別の選択肢を要求する。そこに、死ぬのではなく生きる道があるということを示すのロックだ。だから、ロックであるならば、漫然と自殺してはいけない。
漫然と自殺をするのではなく、自殺を止め行き続けることの方がロックだ、ということになる。
これが、「生きてるだけでオッケー」ということだとも言うことができる。

しかし、ロックには続きがある。ロックは、漫然と生き続けることも認めない。漫然と生きるのではなく、自殺する選択肢もあるではないか、とロックは語りかける。
だから、本当にロックであるならば、漫然と生きるのではなく、かといって漫然と死ぬのでもなく生きなければならない。だから生きる限りは死の選択肢もあったことの後悔を背負わなければならない。メメント・モリ「死を思え」とは、そういうことではないか。(少なくともミスチルが歌ってるやつは違う。)
この、どちらの選択肢を選ぶことも許さないという働きは、生きるか死ぬか、ではなく、もう少し個別的な問題でも同じだ。
先ほどの大学進学の例でも、大学に進学せず、海外に出た優等生に対して、ロックは、それでも大学に行くという道もあったのではないかと語りかける。
いつも自分のことばかり考えていた男子が友達の彼女への告白を思いとどまった例でも、ロックは、その男子に対して、それでも告白するという選択肢もあったのではないかと語りかける。
つまり、ロックに生きるとは、そんな後悔にまみれつつ生きるということでもある。
そこまで考えるならば、ロックというものは、また少し別な側面を見せる。
「生きてるだけでオッケー」とは、そんな後悔にまみれつつも、それでもロックな人生を生きていくことについての応援歌のようなものだとも言える。

ここで、もうひとり、ロックとは何かを語るうえで、取り上げておきたい人がいる。みうらじゅん先生だ。
みうらじゅん先生は、最近は、ゆるきゃらの名付け親としても有名だが、実は漫画家として、「アイデン&ティティ」というロック漫画を描いている。
この漫画を非常にざっくりと説明すると、主人公である中島がバンドマンとして生きていく姿を、ロックの神様であるボブ・ディランがいつも見守るという話だ。(こんな説明ではわからないと思うけれど、映画にもなっているので、読んだり、観たりしてください。)
本当のボブ・ディランのことはよく知らないけれど、この漫画でのボブ・ディランは歌う。「やるべきことをやるだけさ」
この言葉にも僕は、「生きてるだけでオッケー」と同じものを感じる。
僕の言葉で語ってしまうと、つまらなくなってしまうが、あえて言いかえるならば、「ロックであるならば、色々とキツい選択をしなければならない。それに、どんな選択をしても後悔は残るだろう。だけど、やるべきことをやってるんだから、それでいいんだよ。」、そんなメッセージだ。
「やるべきことをやるだけさ」「生きてるだけでオッケー」、そんなミニマルな言葉たちは、後悔にまみれた人生を送らざるを得ないロックキッズたちを優しく包んでくれる。
それも含めて、ロックなのだろう。

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ここで、文章を終えたほうがかっこいいのかもしれないが、僕は、哲学が好きなので、ここで終わることができない。
あえて、ここまで述べたロックとは何か、という問いについての答えを整理してまとめると、こうなる。
「漫然と生きるのではなく、別の道があるということを意識しつつ生きるということがロックである。
また、別の道があることを知るキツさや後悔を優しく包むものもロックである。」

しかし、ここで、僕は思う。
こんな風にまとめて書いてしまうと、なんだか違う気がする。こんな言葉ではロックを捉えきれていない。こんな言葉に満足せず、更に別の言葉で捉える必要がある。と。
僕は、哲学が好きで、こんなことをぐるぐると考えている。そして、今後も考え続けるだろう。
僕は、こんな哲学に人生のある部分を賭けている。
うまく言えないけれど、僕は、僕自身のそんな哲学的な営み自体がロックなのではないかと感じる。
というか、そんな、僕が選んだ生き方が、僕にとってのロックなのだと信じたい。