平成24年の冬から春にかけて、私が初めて書いた長文です。
野矢先生の本に触発されて書いたものです。

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1-1【はじめに】
野矢が「語りえぬものを語る」(以下、「語る」という。)において行っている議論は、まるで繊細な糸のようだ。
野矢は、多分意図的に、その糸を束ねずに、その繊細なままキャンバスに敷き詰め、絵画のように仕上げようとしている。糸が1本にまとまってしまうことで、糸本来の繊細な美しさを失わせてしまうことを恐れているかのようだ。
「あえて束ねない」これが野矢があとがきで「哲学的風景をともに見てもらう」と表現しているスタンスなのではないか。
しかし、私は、あえて、私なりにこの糸のうちの何本かをキャンバスから剥がし、束ねてみたい。
多分、野矢も、そのような姿勢を読者に期待しているのではないかと思いつつ。

1-2【論理空間と行為空間】

 この本から、論理空間と行為空間の議論を中心に、いくつかの糸を取り出し、束ねることにする。
まず、「論理空間」についてであるが、この概念は「語る」の第1回から登場する。
(なお、この文章では、「概念」という言葉を、現実に書き留められた文字列のような意味で使ったり、頭の中にイメージしたアイディアのような意味で使ったり、と、あまり、明確な意味合いで使うことができていない。他にもそのような不正確な言葉があるかもしれないがご容赦いただきたい。)
「語る」における「論理空間」とは、ウィトゲンシュタインの論理哲学論考に沿ったもので、可能な事実の総体、最も広い意味での可能性である論理的可能性の総体のことである。
一方で、「行為空間」についてはかなり進み、第11回P183において、それまで議論の中心となっていた「相対主義」とバトンタッチするように初登場する。
「行為空間」の導入までの経緯はこうだ。まず、「行為空間」が導入される直前の第10回で、ネルソン・グッドマンが考案したグルー概念が紹介され、グルー概念は、ブルーやグリーンといった用語を用いた定義が可能なので、翻訳可能であるが、体がついていかず、理解不可能な概念だとしている。そして、第11回に入り、グルー概念は、翻訳可能であることから論理空間に含まれる概念ではあるが、グッドマンに言われなければ思いつきもしなかった、実際には一顧だにされなかった概念であり、グルー概念は所有していない概念であるとしている。そして、所有していない概念を使用する可能性は「死んだ可能性」だとしている。他にも、「死んだ可能性」として、隕石が落ちるというような習慣によって無視される可能性、お札が勝手に増えるというような世界像・探求の論理(指針)に対する疑いが挙げられている。一方、私(野矢)の行為に関わる可能性は「生きた可能性」であり、「論理空間の中で生きた可能性によって作られる部分空間を行為空間と呼ぶ」としている。P209では、そのことをまとめて「行為空間は、①概念所有、②習慣による囲い込み、③世界像、という三つの観点から制限を加えられた論理空間の部分である。」と述べている。