「語りえぬものを語る」を読んで  ‎3非言語体験の場の力と疑いの力

3-1【理由のない疑い】
ここで少し戻って、野矢はなぜ、論理空間と行為空間を2分したかについて改めて考えてみたい。
そこで取り上げたいのが、P278で行われている「理由のない疑い」の議論である。
野矢は、「理由のある疑い」と「理由のない疑い」を対比し、偽札を例にして、手触りが変だとか、何かおかしいと感じて疑う場合を「理由のある疑い」とし、疑おうと思えば疑えるということで疑う場合を「理由のない疑い」としている。そして、前者を「生活の中で生じる疑いの形である。」とし、後者を「あくまでも哲学的な懐疑になる。」としている。(更に、野矢は、「全ては夢かもしれない」というような包括的な疑いと「これは夢かもしれない」という個別の疑いを分け、前者を論理空間の懐疑論、後者を行為空間の懐疑論としているが、私は論理空間と行為空間を2分するようなかたちで捉えていないので、この区分は無視することとする。)
この「理由のない疑い」の議論を、野矢が行為空間の外にある「死んだ可能性」として第11回で挙げた3つのもの、つまり、グルー概念のような所有していない概念を使用する可能性、隕石が落ちるというような習慣によって無視される可能性、お札が勝手に増えるというような世界像・探求の論理(指針)に対する疑いの可能性、と結びつけてみたい。
そうすると、「死んだ可能性」としているものは全て「理由のない疑い」に関わるものであることがわかる。
このエメラルドはグルーなのではないか、近所に隕石が落ちるのではないか、お札が勝手に増えるのではないか、いずれも、疑う理由がない。ただ、疑おうと思えば疑えるような、哲学的な懐疑であると言えよう。つまりは、「死んだ可能性」を疑うということは、「理由のない疑い」なのではないか。と私は考える。
そのことを、更に、先程から行なっている物語性の話と結び付けたい。
そうすると「理由のない疑い」とは、疑う物語がないということになるのだろうか。 いや違う。正確に言うべきだろう。
疑いは提出されているのだから、疑うという物語はある。エメラルドにはグルーかもしれないという物語はあるし、隕石には近所に落ちるかもしれないという物語はあるし、お札にも勝手に増えるかもしれない(ここらへんは実感としては微妙だけれど)という物語がある。
しかし、いずれの物語にも疑う理由の物語がない。なぜ疑う、という疑いを補強するような物語がない。
それはどういうことかというと、隕石の例で言えば、「隕石」という概念には「隕石は近所に落ちるかもしれない。」という疑いの物語がある。これに、他の疑いを補強されるような物語、例えば、「小惑星が地球の近くを通った。小惑星が地球の近くを通ると隕石が落ちる可能性が高まる。」という物語が加わると、それは理由のある疑いとなる。しかし、そのような補強されるような物語がない場合、それは理由のない疑いとなる。
野矢は、このような他に補強されるような物語を持たない、理由のない疑いの物語を持つ概念を、「死んだ可能性」とし、行為空間にはない概念と位置づけたのではないだろうか。と私は考える。

3-2【非言語体験の場の力】
野矢の行為空間の話にもどったところで、「語る」における行為空間の議論の位置づけを振り返ってみたい。
行為空間とは、多分、「語る」における中心的な概念であり、行為空間概念登場以前からの相対主義、相貌論の話とも関わり、その後も物自体・過去自体といった議論へとつながり、この本全体と関わっていると思われる。
そこで「語る」での議論全体において、行為空間の側面から述べるべき大きな問題はないだろうか、と読み返してみる。
そうすると、「語る」の(少なくとも後半の)中心的な議論として、野矢が「力と相貌の二元論」(P341)としている議論がある。これは、P291の言い方によれば「語ることを、語られない自然が支えている」ということであり、第19回P328の言い方によれば「非言語的な体験に触発されて分節化された体験あるいは分節化された世界が成立する」ということである。つまりは、この二元論は、「(非言語体験の場としての)力と(分節化された世界としての)相貌の二元論」ということだろう。
そして、先程述べたように、相貌は行為空間に現れるものであり行為空間と密接不可分の関係にある。そうすると、「力と相貌の二元論」は「非言語体験の場と行為空間の対比」と読み替えることもできるのではないだろうか。
ここにも、行為空間について議論すべきことがある。

3-3【言い訳】
ここで言い訳をさせて頂きたい。
正確に言うと、「力と相貌の二元論」には「非言語体験の場と行為空間の対比」という側面はあるとは思うが、そのように全て言い換えていいかどうかは怪しい。
「相貌」と「行為空間」は密接に捉えてよいのは確かだと思うが、「行為空間」とは、その「生き方」と表現されている側面を強調すると、「力と相貌」の「力」寄りに位置づけることも可能だと考えられる。
このことを詳細に検討することが、この文章の趣旨ではないので、この先には進まないが、多分、この概念相互の関係の複雑さをそのままとすることが、冒頭で言った、野矢は議論の糸を束ねないということの一つの大きな側面なのではないかと思う。
そこを、あえて束ねるということは、どうしても私なりの解釈が入らざるを得ないだろう。よって、「非言語体験の場と行為空間の対比」を強調する観点は、私が「語る」から読み取った解釈であり、野矢が語ろうとした別の側面を取り逃がしている可能性があるということは注意して頂きたい。

3-4【非言語体験の場の力 2】
言い訳を述べた上で、「非言語体験の場と行為空間の対比」ということについて少し考えてみたい。
ただ、非言語体験の場と行為空間を対比すると言っても、「非言語体験の場」がどこにあるのか、私の立体地図、または肉(岩)の比喩において、「非言語体験の場」はどこに位置づけられるのか、というようなことは、ここで語ることはできない。正直に言ってわからない。
ただ、非言語的な場からの「力」が、どのように行為空間に働くか、については少し語ることがあるように思う。
野矢は、「力と相貌の二元論」としての文脈のなかで、この「力」について、大きく分けると2つの側面を見ているように思われる。
ひとつは、「動物的な本能的習性」としての側面だ。これは、第12回で斉一性の原理の文脈において取り上げられているヒュームの用語である「習慣」について述べているあたりから登場している。例えばP204では「動物が示すさまざまな本能的習性と違いはない。」「動物的な身体反応」としているような箇所だ。第19回P327において「非言語的な体験は、私の反応を~触発するのである。」としていることとも同じであろう。つまり、この触発とは動物的な本能的な習性なのである。
また、この観点は、第20回P349で「(過去について語ることは)すべて、過去自体に触発された私の身体反応である」と過去についての場面に拡大されて適用されており、過去についての議論においては「身体的記憶」(P348)が、この「力」の一側面として現れていると考えられる。
もうひとつの側面は、「抵抗」だ。この側面については、主に第21回の自然科学についての議論のなかで挙げられている。P369において自然科学の「知識の活用」としての側面が強調され、「(例えば、ロケットを飛ばそうとして失敗する。)その抵抗こそ、非言語的な場としての世界が理論に向けてくる」(P370)とされている。
当然、このことは自然科学に限定されるものではなく、野矢も第20回注2のなかで、「知識を踏まえて行為することのポイントは、行為を通してその知識が世界と接触・交渉することになる。」としている。(野矢の言う知識とは、「卵はゆでると固くなる」というようなものなので、私の用語では物語と言い換えることができるだろう。)
また、「動物的な本能的習性」と同様に「抵抗」も、過去に拡大されている。野矢が第20回注1で行なっている「過去整合説」の議論の中で、それを弱めたものとして、「整合性のチェックはさらに行為・実践との関係から捉え返さねばならない。」としている「プラグマティズムの真理観に近いもの」(P355)が「抵抗」にあたるだろう。
この「動物的な本能的習性」と同様に「抵抗」の力のふたつの側面の関係を述べていると思われる箇所がある。第17回P288で「以下同様」の規範的意味について、「あなたのこれからやることは、いま与えられた説明の観点から適切さが評価され、不適切ならば訂正されることになる。」としている箇所だ。同じことは第19回328においても「言語使用の適切さがその言語共同体の中で評価され、ときに訂正を受ける。」と拡大して述べられている。つまり、「あなたのこれからやること」や「言語使用」がそもそも始まることは「動物的な本能的習性」に支えられ、「評価・訂正」が行われることが「抵抗」にあたる。
この野矢の「相貌」への「力」についての議論は、全面的に「行為空間」への「力」についての議論に置き換えることができると考えられる。
つまりは「行為空間は、非言語体験の場から触発された本能的習性により成立し、非言語体験の場からの抵抗により形作られている。」と言えるのではないか。
これが、私が考える非言語体験の場の力である。

3-5【非言語体験の場の力の及ぶ範囲】
次に、非言語体験の場の力は、野矢のいう行為空間の外の論理空間、つまり、「死んだ可能性」の領域に及ぶのだろうか、ということを考えてみたい。
まずは、非言語体験の場の力のうち「本能的習性」の側面について考えてみる。
「本能的習性」は、ヒュームの用語「習慣」を「動物が示すさまざまな本能的習性と違いはない。」としているところから始まっており、「習慣」と言い換えてもいいほどのものだ。つまりは、「死んだ可能性」のうち「習慣によって無視される可能性」と関連があるということは明らかだろう。
また、「本能的習性」は、「死んだ可能性」のうち「(グルー概念のような)所有していない概念を使用する可能性」とも関連がある。グルー概念のような所有していない概念とは、野矢の言い方では体がついていかない概念である。この体がついていく・ついていかない、ということは「動物的な身体反応」が引き起こされるか・引き起こされないか、ということと同意であろう。
つまりは、このふたつのことをまとめて、「死んだ可能性」とは、「本能的習性で所有できない可能性」とも言いかえることができるのではないか。
また、非言語体験の場の力のうち「抵抗」の側面であるが、これは、先ほど言ったように、自然科学の文脈で主に用いられたものである。そして、自然科学について第26回で語られるなかで、フックの法則のような自然科学の法則について、「法則は、ひとたび探求の指針として採用されたならば、現実世界がその法則に反するという事実によってはけっして反証されない。」(P464)「「この法則が維持されるように現実を解釈せよ」と探求の指針を与える」(P466)「こうした指針は、法則と現実世界のあり方がずれていることを、むしろ積極的に認める。」(P466)とされている。
探求の指針の文脈においては、この現実世界のずれを「抵抗」と呼ぶのだと考えられる。つまり、「抵抗」は「死んだ可能性」のうちの「探求の指針への疑いの可能性」と関連があることは明らかだ。
しかし、抵抗がどのように探求の指針への疑いを否定させるのか、については検討が必要だろう。
探求の指針とは、非言語体験の場からの抵抗によって諸法則が頓挫しないように保護する働きがあると言える。この抵抗の力が、なぜ、探求の指針を保持させることになるのか。
それは、このように説明できるのではないか。
探求の指針は、他の探求の指針によって置き換えられる以外には否定されない。つまり、他の探求の指針によって置き換えられるのではなく、それ以外のやり方で探求の指針を否定しようとする「探求の指針への疑い」とは、非言語体験の場からの抵抗の力を過大に見積るということになる。そして、非言語体験の場からの抵抗の力を過大に見積るということは、本来の「抵抗」の意味合いを否定しているとも言えるのではないか。
また別の言い方をするならば、探求の指針は抵抗を受けることを前提にしている。仮に非言語体験の場からの抵抗がなけければ法則自体が成立しないのではないか。非言語体験の場からの抵抗がないとは、つまり、勝手気まま、という状況だろう。そのような状況で、何か法則のようなものが生まれ、探求の指針として位置づけられることはありえない。ということは、「抵抗」が探求の指針を生み、保持しているとも言えるのではないか。
つまりは、「抵抗」の観点からは、「死んだ可能性」とは、「抵抗によらず探求の指針を疑う可能性」とも言いかえることができるのではないか。
以上を踏まえると、「非言語体験の場の力」である「本能的習性」も「抵抗」も、「死んだ可能性」(行為空間外の論理空間)には及ばないと言えるのではないか。
では、何が野矢の行為空間外の論理空間、つまり「死んだ可能性」である論理空間を成立させているのか。
ここで注意しておきたいことがある。
これまで、行為空間という語について、野矢の行為空間と私の行為空間性としての厚みのようなもののどちらをイメージすべきかを必ずしも限定していなかった。しかし、ここからは、私の行為空間性の厚み、つまりは、ある概念の物語の厚みのようなものをイメージして頂きたい。(ここから、野矢の部分空間としての行為空間と、私の論理空間の厚みとしての部分空間性とを分ける必要が出てくるので、前者を「野矢の行為空間」、後者を「部分空間性」とする。)
そうすると、「死んだ可能性」である論理空間にも行為空間性、物語があるということを思い出して欲しい。
つまりは、ある物語、これまで述べたことを踏まえれば、「理由のない疑いの物語」と最低限の「以下同様」の物語が、「死んだ可能性」である野矢の行為空間の外の論理空間を成立させているということだ。
このようなかたちで、野矢の論理空間の部分空間としての行為空間の議論は、形を変えて再登場してくるのではないか。

3-6【脱線:理由のない疑いの先にあるもの】
野矢の行為空間つまり「生きた可能性」を成立させる「非言語体験の場の力」と、野矢の行為空間外の論理空間、つまり「死んだ可能性」を成立させる「理由のない疑いの物語」及び「以下同様」とはどのような関係にあるのだろうか。
まず、明らかに言えることは、前者には「非言語体験の場の力」があるが、後者にはそれが欠けているということだ。また、前者、後者のいずれにも「以下同様」の物語はある、ということも明らかに言えるだろう。
そうすると、問いとしては、野矢の行為空間には、「理由のない疑いの物語」はあるのだろうか、ということに絞られる。
それを考えるためには「理由のない疑いの物語」とは何か、ということを考える必要がある。
「この新緑はグルーではないか?」という疑いを例にとろう。
「新緑」概念には、色々な物語があるだろう。数年前、「家族でドライブをして窓の外から新緑が見えた」とか、といったような。
また、「グルー」概念にも、「新緑」概念ほどではないけれど、いくつかの物語があるだろう。「野矢先生の本でグルーのことが説明されていた。」といったような。
そして、ここでの一番大事な物語である「この新緑はグルーではないか?」という物語がある。
まず、確認しておきたいのは、「この新緑はグルーではないか?」という物語以外の物語の豊かさ、つまり、新緑、グルーのそれぞれの概念に、「家族でドライブをして窓の外から新緑が見えた」というような物語がどれくらいあるかは、「この新緑はグルーではないか?」という物語には関係がないということだ。概念の厚み、豊かさは物語の豊かさのことであるが、どれだけ物語を構成する概念に厚みがあったとしても、物語が厚みを持つ訳でもない。「この新緑はグルーではないか?」と問う場合でも、私が見たことがあるかどうか怪しいエメラルドについて「このエメラルドはグルーではないか?」と問う場合でも、物語としての豊かさに差はない。
では、物語自体の豊かさ、厚み、つまりは内容は何に裏打ちされているのだろうか。 通常の物語であれば、「非言語体験の場の力」と簡単に言えるであろう。
それでは「理由のない疑いの物語」はどうだろう。
私は、「理由のない疑いの物語」は内容のない空虚な物語であるとしか言えない。
内容のない空虚な物語が「疑い」だけを持っている。そうとしか言えない。
ただ、逆に言えば、「疑い」だけは残っているとも言える。
私は、この疑いを、文末に付く「?」であると捉えたい。つまりは「この新緑はグルーではないか?」の実態は「?」であり、すべての「理由のない疑いの物語」は「?」で置き換えられるということだ。
そして、最初の問いに戻ることにする。野矢の行為空間には、「理由のない疑いの物語」はあるのか。
これは、つまり、野矢の行為空間には「?」はあるのか。という問いとなる。
野矢の行為空間に「?」を探してみると、「理由のある疑いの物語」のなかに「?」があることがわかる。例えば、「このミカンは腐っているのではないか?」というような物語に「?」はある。そして、この疑いには、「このミカンは黒くなっている。」「黒くなっているミカンは腐っている場合が多い」というような理由の物語が付加されているため理由のある疑いとなっている。
では、「理由のない疑いの物語」における「?」とは何なのだろうか。
「このミカンは腐っているのではないか?」で言えば、「このミカンは腐っている。」の平叙文に「?」を付加することで、「このミカンは腐っているのではないか?」という疑問文になる。この疑問文にする働きが「?」の働きであると言えるだろう。
それでは、疑問文にする働きとは何なのか。
それは、平叙文から否定文をつくり、両方を見渡す立場に立つということだと思う。
「このミカンは腐っている。」から「このミカンは腐っていない。」をつくり、「このミカンは腐っているかもしれないし、腐っていないかもしれない。」の立場に立つということだ。
ここで重要なことは、「このミカンは腐っているかもしれないし、腐っていないかもしれない。」の立場にあるからこそ、「このミカンは腐っている。」や「このミカンは腐っていない。」と言えるということである。「このミカンは腐っているかもしれないし、腐っていないかもしれない。」の立場に立たず「このミカンは腐っていない。」ことがないならば、「このミカンは腐っている。」と言うことができない。
このことに対しては、「女子学生は男子である。」ことはないが、それでも「女子学生は女子である。」と言うことは(必要はなくても)できるのではないか、という反論がああるかもしれない。
しかし、そういうことではない。この場合でも「女子学生が男子であるかもしれないし、女子であるかもしれない。」の立場に一旦立ったからこそ、そのようなことを言えるのである。
私はこれこそが、言語化の働きであると思う。
つまりは、疑問文にする働き「?」とは、言語化の働きのことなのである。
そうすると、平叙文であっても、言語化した物語として語ることは、言語化の働き、つまり疑問文にする働き「?」が加わっているということになる。繰り返しの例となるが、「このミカンは腐っている。」と語ることは、明示はしていなくても、丁寧に言えば、「このミカンは腐っているか?このミカンは腐っているかもしれないし、腐っていないかもしれない。しかし、理由の物語を鑑みると、このミカンは腐っている。」と語っていることなのである。
そうすると、すべての物語は、言語化の働きであり疑問文にする働きである「?」を含んでおり、「理由のない疑いの物語」は、「「非言語体験の場の力」を欠き、「?」だけが露出された特殊な物語だということになる。

3-7【比喩の限界】
と、ここまで読んできて、読者が感じるだろう、この文章の最も大きな欠点は、イメージに訴えた比喩が多いことだと思う。
しかし、これは、「語りえないもの」について比喩を用いることで語ろうとしているというこの文章の性格上、ある程度はやむを得ないものだと思っている。
ここで注意しなければいけないのは、比喩は比喩でしかない、ということだ。そのような意味では、この文章は、本当に語るべきことのスケッチ、本当に語るべきことの予告編とならざるを得ない。
その誤りは、野矢が行為空間の内外という議論を提出した時点で始まっているだろう。
野矢は、第13回において、論理空間成立の基礎としての「以下同様」の力を強調している。論理空間に概念が成立する基礎として、「以下同様」の力が必要だ。
一方で、P223では「行為空間において初めて、「以下同様」という言葉は効力を持つ。」としている。
とすると、野矢の目玉焼きの図式における黄身(行為空間)と白身(行為空間外の論理空間)のうちの白身には、「以下同様」は及ばず、論理空間は成立しないこととなる。
そうすると、野矢の論理空間における行為空間の内外という議論は成立しなくなる。
これはおかしい。この図式を描くためには最初から「以下同様」を先取りしていなくてはいけない。
また、同様のことは、概念の習得における行為空間の変化の場面でも現れる。
「以下同様」が行為空間性に依拠するならば、どうして、ある時点の行為空間と、ある時点の行為空間を比較し、そこに変化をみてとることができるのか。ある時点の行為空間と、ある時点の行為空間とを同じ行為空間と捉えるということは、「ここに現れている空間を行為空間とします。以下同様に、そう解釈します。」という規則が働いているということではないのか。そして、そのことは、当然、行為空間内で語ることはできない。
その問題は、私の立体地図または岩(肉)の比喩も同じだ。
立体地図や岩(肉)という一塊りとして見るには、ある種の規則性が必要だ。
私は、「物語」の塊としたが、ある「物語A」を別の「物語B」と、「物語」という面では同じだということで集めて塊とするということは、既に「「物語」と判断されるものについては塊にして集めます。以下同様に、そう解釈します。」という規則が働いているということではないのか。
そうすると岩(肉)という物語の塊のなかに、「以下同様」の物語がある、などということは言えなくなる。また、塊を俯瞰的に見て切断などの作業を行うということはありえない。
このように、模式化した説明というものは、模式化して説明を行うこと、それ自体で「以下同様」の力を招き入れざるを得ない。よって、模式化して「以下同様」を語ることはできない。
それが、この比喩の限界なのかもしれない。

3-8【以下同様 または 時間】
しかし、そこにはまだ語るべきことがある。

この比喩を成立させるためには、「以下同様」を先取りする以外に、もうひとつのやり方がある。
それは、「無時間性」を認めるというアプローチだ。
というか、「時間」の導入と「以下同様」の導入はセットなのではないか。
最初の「猫」という発話と、次の「猫」という発話は違うという前提があるからこそ、「以下同様」が必要となる。そこで、時間の流れを否定した場合、最初の「猫」という発話と、次の「猫」という発話は不可分となり、同じものとならざるを得ない。
「時間」を認める道と認めない道とで、どちらをとるべきなのか。
そこに、もう一つの語りえないものを語ろうとする道筋があるのではないかと思う。

 

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