10 まとめ

ここまで述べてきたことの要点をまとめる。
冒頭からの感謝(非難)のあり方はどのようなものか、という問いの答えは、「能動的感謝(非難)」、「不完全な受動的感謝(非難)」、「潜在的な受動的感謝(非難)」という3段階に分けられるようなあり方をしている、というものである。
そして、その答えに至る流れは次のようなものであった。感謝(非難)には顕在化した感謝(非難)とは別に潜在的な感謝(非難)があると。これを受動的感謝(非難)と呼ぶ。
しかし、その潜在的な受動的感謝(非難)を具体的に説明しようとすると、それは不完全なものにならざるを得ない。これを不完全な受動的感謝(非難)と呼ぶ。一方で、その具体的な説明を打ち切ることが能動的感謝(非難)である。また、顕在化した感謝(非難) とは、不完全な受動的感謝(非難)と能動的感謝(非難)のことである。不完全な受動的感謝(非難)によっては説明できないところに本来の受動的感謝(非難)があるが、この段階においては、間接的にしか存在することがわからない。実際に感謝(非難)が意識されたことをもって、「意識する」という言葉の意味を手がかりに、間接的にでも潜在的な感謝(非難)があることがわからなければならない。これが、受動的感謝(非難)が存在するということだ。
この「実際に感謝が意識されたことをもって、間接的に潜在的な受動的感謝があることがわからなければならない。」という結論を逆手にとって用いた一つのアイディアが思いつく。「より多く、より強く、実際に非難よりも感謝が意識されたならば、その分よい状況になる。」というアイディアだ。
ここには多くの論理的な飛躍がある。まず「わかる」という認識論的な議論と「ある」という存在論的な議論とを混同している。「現に感謝があるとわかるから、受動的感謝もあるとわかる。」ということと、「現に感謝があるから、受動的感謝もある。」ということは違う。また、受動的感謝にプラスの価値があり、受動的非難にマイナスの価値があるということを勝手に決め付け、更に、単純な足し算、引き算を行い、プラスの価値が多くて強く、マイナスの価値が少なくて弱いほうがよい状況だ、ということが導けるということを勝手に決め付けている。
しかし、この混同と決め付けを受け入れられるならば、「より感謝することが望ましい。」という実際の生活に生かすこともできそうな結論を手に入れることができる。よって、なんとか、この混同と決め付けを受け入れる余地がないのか検討してみたい。
まず、「わかる」ことと「ある」ことの混同についてである。
まず、この混同の何が問題なのかを整理してみよう。より多く、現に顕在化した感謝があるならば、潜在的な受動的感謝のうち、間接的に把握できる部分、つまり「わかる」部分は多くなる。しかし、潜在的な受動的感謝自体が増えたかどうかはわからない。これが問題だ。それは、洞窟の天井を照らしてコウモリを観察しているときに、懐中電灯の明かりを強くし、視野を広げるのと似ている。照らされて確認できるコウモリの数は増えるが、洞窟に住んでいるコウモリの数は変わらない。いや、明かりを嫌がって逃げて洞窟内のコウモリの数は減ってしまうかもしれない。または、考えにくいが明かりに興味を示して隣の洞窟からコウモリが来て、洞窟内のコウモリの数は増えるかもしれない。「わかる」部分が増えても、「ある」ことには全く影響はないかもしれないし、仮に影響があったとしても、どういう影響があったかもわからないということだ。洞窟内に「ある」コウモリは、明かりに照らされている「あることがわかる」コウモリと、明かりに照らされていない「わからないがある」コウモリに二分できる。明かりを強くすると、「あることがわかる」コウモリは増えるが、明かりに照らされていない「わからないがある」コウモリにどのような影響があるかはわからない。よって「ある」コウモリの総量にもどのような影響があるかはわからない。
しかし、このことについては、「わからないがある」というものを考慮に入れても仕方ない、という割り切りをして混同を受け入れるしかないのではないか。
ここでの議論は、実際の生活に活かすための議論、つまり、知識についての議論ではなく、知識の活用についての議論であると限定するならば、活用の場面では、活用できない「わからないがある」ものについては考慮せず、活用できる「あることがわかる」ものに焦点をしぼり、活用できるもののみを考慮することに問題はないのではないだろうか。
「わからないがある」コウモリを切り捨てれば、「ある」コウモリと「あることがわかる」コウモリは等しくなる。つまり、「わかる」ことと「ある」ことの混同は解消される。
言い換えれば、存在論と認識論のギャップを無視し、存在論を切り捨て、認識論のみで存在を捉えようとすることで混同を解消することができるということだ。
このようにして、潜在的な受動的感謝自体を切り捨て、受動的感謝が間接的に表出したものとして顕在化し「感謝が現にあるということ」のみを考慮することができる。
次に、価値についての決め付けであるが、受動的感謝は肯定的で、受動的非難は否定的だということまでは問題がないだろう。その区分がなければ、これまで、感謝と非難という対比をしていたことまでがおかしくなってしまう。問題はその先で、この肯定的な何かと否定的な何かを価値という同じ土俵に乗せ、多いとか少ないとか、強いとか弱いとかといった比較ができるということの飛躍である。
この飛躍は、肯定的な何かと否定的な何かを、それぞれ、受動的感謝、受動的非難と名付けたこと、更には感謝、非難と名付けたことで既に始まっている。洋服を買ったときの感謝、食事を食べたときの感謝、といったものを同じ感謝という言葉でくくり、更には昨日の食事への感謝と今日の食事への感謝を同じ感謝という言葉でくくっているということは、既に、それぞれの感謝は同質な部分があるということを認めている。つまりは同じ土俵にあるということを認めている。そして、同じ感謝なのだから、1回の感謝よりも2回の感謝のほうが感謝は多い、というような比較を可能としている。
また、感謝と非難を対比するものとして導入したことで、感謝をプラスとするなら、非難をマイナスとする、というような比較も可能としている。感謝と非難を同じ土俵に乗せ、肯定的なものが多く、否定的なものが少ないほうが良い状況だ、という分析を可能にしている。つまり、これまで述べたような意味で感謝、非難という言葉を用いるならば、この決め付けは受け入れざるを得ないということだ。
このように、この議論を知識の活用についてのものであると限定し、また、感謝、非難という言葉が導入されたことをもって、混同と決め付けの問題が解消されたものとして、「より多く、より強く、実際に非難よりも感謝が意識されたならば、その分よい状況になる。」という結論を受け入れてみることにしよう。そうすると、色々なことが言える。
まず、よりよい状況にするためには、より多く、より強く、実際に感謝が意識されるようにすればいいのだから、より感謝の機会があり、より強く感謝を意識すればよいということが言える。
具体的に、感謝を意識できる機会としては、例えば、商取引の機会がある。商取引の機会を増やせば、より感謝の機会が増え、よりよい状況になるということだ。また、商取引以外でも、家族関係、友人関係といった感謝の機会を増やすことでもよい。これは、労働は美徳であるということにも通じる。労働は商取引で交換をされるモノであり、労働が増えるほど商取引が増えるということだから、労働は望ましいということである。また、商取引が契約としての双方向のものか贈与のような一方向のものかどうかはどちらでもいい。
贈与を受けたことに感謝をし、贈与できたことに感謝をするならば、両者に感謝があるということであり、双方向の契約の場合と何ら変わりはない。他者との関係が生じているということが重要であり、その関係の原因が、商取引によるものか家族関係によるものか、ということに本質的な違いはない。
そして、強く感謝を意識するとはどういうことかというと、最大限に幅広い対象に感謝をするということだと言えよう。同じように居酒屋でハンバーグを食べたとしても、居酒屋の店員に対してだけ感謝をするよりも、ハンバーグになった牛を育てた少女や、太陽の恵みにも感謝をするほうが、強く感謝を意識していることとなる。これは、これまでの考えで言えば、能動的感謝に留まらない不完全な受動的感謝をすべき、ということだ。
つまり、より多く商取引などの機会を持ち、能動的感謝の不完全性に気付いて例示列挙としての不完全な受動的感謝をすることが好ましいということだ。
しかし、ここに問題がある。商取引関係、家族関係、友人関係というようなものは、感謝だけでなく非難を生む場合もあるのが、美味しいハンバーグにも非難する人がおり、毒キノコにも感謝する人がいるように、何が非難につながり、何が感謝につながるかはわからない。よって、ここで述べた感謝を増やすというやり方は正しくても実行できない。これが、なぜ、この世界が、商取引や家族関係といった関係に満ちており、皆が感謝の言葉を発しているのに、なかなか住みよくならないか、という疑問に対する答えなのではないかと思う。あえて更に飛躍し、潜在的な受動的感謝を持ち感謝を生むか、潜在的な受動的非難を持ち非難を生むかの根源的な違いを、人生に対する態度だと捉えるならば、人生に対して否定的な態度で臨むということが、その失敗の原因なのかもしれない。
以上、なかなかに美しい結論を導くことができたと思っているが、実は、このように私が望むような結論を導けたことにはからくりがある。そのからくりの伏線は、そもそも、冒頭で「感謝」に着目し、肯定的なものとして捉えたことに端を発している。そして、感謝に感情、満足といった広範な意味を読み込み、また感謝を「意識する」という側面から捉え、潜在的な感謝がある、としたことにある。
これまで、それらを、感謝というものの不思議さだとしてきた。しかし実は、ここまでで述べた感謝の不思議とは、現実というものの不思議の一部である。現に現実があり、その現実から色々な働きかけを受け、また、現実に対して働きかける。そのような現実との関わり方を、感謝という側面から切り取ったのが今回のこの文章である。だから、感謝が重大な意味を持つという結論になるのは当たり前だ。感謝というものの重大さに異をとなえられたなら、この文章は前提から崩壊する。
しかし、もし、この文章の読者であるあなたも感謝を重視し、違和感なく感謝の不思議さを受け入れられたなら、あなたも私と似ているということである。そして、私にとってそうであるように、あなたにとっても、この文章が何らかの意味があるのかもしれない。