2種類のごちそうさま 9 受動的非難

9 受動的非難

それでは、予告したとおり、受動的非難に話を移す。まず、受動的非難と対比されるだろう受動的感謝についておさらいすると、これまで述べてきたとおり明確に説明することはできないが、あえて言えば「感謝の対象を限定しない感謝」、「自然に意識させられている感謝」である。そして不完全な受動的感謝として、例えば「この料理が出されるまでには、栽培してくれた人や調理してくれた人がいたので、食事を手に入れることができた。
だから、その人達に感謝しましょう。」というような感謝の原因についてのストーリーがありえた。
その対になるものとしての受動的非難を想定するならば、それは、あえて言えば「非難の対象を限定しない非難」、「自然に意識させられている非難」である。そして、受動的非難を不完全ながら表現するならば「この料理が出されるまでには、栽培した人や調理した人がいたので、食事を手に入れることになってしまった。だから、その人達を非難しよう。」というような非難の原因のストーリーがあると言えるだろう。
ここで、具体例を考えていて疑問を感じる。料理が出てきて非難するというのは、どういう状況だろう。例えば、毒キノコ料理が出てきて、死にそうに苦しんだ後に言った台詞なら違和感はない。しかし、そういうことなのだろうか。
ここで、感謝の原因のストーリー、非難の原因のストーリーというものを、丁寧に捉え直してみたい。これまで、食事を手に入れることができた原因についての感謝のストーリーとは、例えば、牛を育ててくれた酪農家や、調理してくれた料理人が、ハンバーグを準備してくれた。だから、酪農家、料理人に感謝しよう、というストーリーだった。
しかし、実は、ハンバーグを準備してくれたことと、感謝することの間には、原因のストーリーとは別な意味でのストーリーが隠されている。それは、ハンバーグを食べるとお腹がいっぱいになる、とか、ハンバーグを食べると空腹で死なずに済む、とか、ハンバーグを食べると満足感が得られる、というようなストーリーだ。つまり、感謝するということは、ハンバーグが好ましいものである、というストーリーがある、ということが前提となっていた。
しかし、実際には、次の4通りが考えられる。
1 好ましいもの(ハンバーグ)に対して感謝する。
2 好ましいもの(ハンバーグ)に対して非難する。
3 好ましくないもの(毒キノコ料理)に対して感謝する。
4 好ましくないもの(毒キノコ料理)に対して非難する。
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1と4は当然であり、これ以上の説明は不要だろう。問題は2と3だが、私は、2のような状況について、何にも満足することができない、わがままな王様のような人をイメージできる。そして、3のような状況については、例え毒キノコで苦しんでも、それを与えてくれたことに対して感謝するような聖人のような人をイメージできる。(釈迦の伝記に、そういうエピソードがあった気がします・・・)つまり、2と3は、通常はありえないが、絶対にありえないとは言えない、というようなレベルの事態だろう。ありえるのだから2や3も考慮の対象から除くことはできない。
2や3のような極端な状況まで考慮すると、好ましいものを与えられたから感謝し、好ましくないものを与えられたから非難する、とは言えなくなる。これは、その対象が好ましいか、好ましくないかによっては感謝と非難のいずれなのかは決まらないということである。
これまでは、無意識の領域にある受動的感謝については、言葉で言い表すことはできないが、何らか関わることはできるように考えていた。例えば、美味しい料理を空腹のときに食べると受動的感謝が生じる、というように、好ましいことを与えられれば、受動的感謝が生じるということが前提となっていた。しかし、そうではない。
また、受動的感謝は、完全に把握することはできないが、調理してくれた人だけでなく、栽培してくれた人にも感謝する、というような列挙を続けることによって、不完全ながらも一部は把握することができると考えていた。しかし、3通り目の例である「好ましくないもの(毒キノコ料理)に対して感謝する。」は、「好ましくないもの(空腹)に対して感謝する。」と言い換えることさえできる。その場合、何も与えられず空腹であることに対して感謝をすることとなり、調理してくれた人がいないことや、栽培してくれた人がいないことに対して感謝をすることになる。同じ感謝に対して正反対の理由を挙げることさえできる。つまりは、受動的感謝に何が含まれていてもよいということだ。美味しいハンバーグを食べたことについて、牛に対する受動的非難があるかもしれないし、空腹であることについて、食事を提供してくれない母親に対する受動的感謝があるかもしれない。これまでは、受動的感謝を不完全ながら、一部でも把握するための手がかりとして、受動的感謝という好ましいものを生じさせるに至った好ましい原因を探す、というやり方をとってきたが、そのやり方は通用しない。何が含まれてもよい、ということは、感謝の対象、原因を探す手がかりがない。感謝の原因のストーリーを描くことができない。これは、これまで述べてきた限定列挙としての能動的感謝(非難)のストーリーであっても、例示列挙としての不完全な受動的感謝(非難)としてのストーリーであっても、受動的感謝(非難)というものを全く捉えられていないということだ。
以上の2つのことは、受動的感謝には全く関わることはできず、全く把握することはできないということを意味している。それは、受動的非難も同様である。
そして、このことは、これまで述べてきた、「受動的感謝(非難)は言葉では言い表すことができないが、無意識の領域に現にある。」という不思議さを更に深める。これまでは、完全に言葉で言い表すことはできないが、不完全に、一部なら関わり、言葉で言い表すことはできると考えていたが、そうではなく、全く、一部でも言い表すことはできない。
しかし、それでも現に感謝(非難)がある、という不思議さが受動的感謝(非難)にはある。
このように考えると、これまで肯定的な感情を感謝、否定的な感情を非難、としてきたが、感情という用語を受動的感謝、受動的非難に対して用いることは適切ではない。感情ならば、うれしい、悲しいなどということがわかり、肯定的か否定的かが把握できてしまう。受動的感謝、受動的非難とはもっと潜在的で把握できないものである。
しかし、この「把握できない」とは全く把握できない、ということではない。そこから、感謝・非難をしようとする意識が顕在化していることがわかる。また、感謝・非難をしようとする意識の原因として、潜在的な受動的感謝、受動的非難があることがわかる。
なぜなら、先ほども述べたように、感謝・非難は「意識する」ものであり、意識されなくとも既にあるのでなければならないからだ。潜在的な感謝を意識することが顕在的な感謝であり、潜在的な非難を意識することが顕在的な非難でなければならない。実際に感謝・非難が意識されたことをもって、間接的に潜在的な受動的感謝、受動的非難があることがわからなければならない。

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