「私の哲学」 ~私が哲学的な文章を書き、あなたに伝達していることについて語る~ ‎4 読者性・アミニズム

4-1 私という読者
私は先ほど、「哲学的思考を行うということは、哲学を自分自身に対して伝達することだと考えている。」と述べた。この理由については、先ほど「読者性」から「以下同様の規則」が導かれると述べたことで大体の説明ができているのではないかと思うが、詳述することとしたい。
具体例として、散歩をしながら哲学的な思考をしている場面を考えてみる。散歩の途中なので、思考の結果をメモに書き留めたりはしていないとする。散歩のルートについては、勝手ながら、私の家から最寄り駅に行くまでの道をイメージしてみることにする。線路のガード下をくぐってから小さな公園を抜け、コンビニ等の数軒の店の前を通って駅に着く、5分くらいの道のりだ。まず、私が、ガード下あたりで「白い犬がいるとする。」などと考え、更に、小さな公園を通りながら「その白い犬が実は猫の見間違いだったとしたらどうだろう。」などと考えたとしよう。
このような状況を想像すると、私には次のような疑問が立ち上がる。このガード下での思考と小さな公園での思考の2つの思考をそれぞれ独立した思考だと考えた場合、ガード下あたりで登場した白い犬と、小さな公園で登場した白い犬は、どうして同じ白い犬だと言えるのだろうか。小さな公園で「その白い犬が実は猫の見間違いだったとしたらどうだろう。」と考えた時の「その白い犬」が、ガード下で思考した「白い犬がいるとする。」の「白い犬」を指すということは明らかなのだろうか。
この疑問の解決方法について考えてみる。
まず、一つの案として、小さな公園で、一気に「白い犬がいるとする。その白い犬が実は猫の見間違いだったとしたらどうだろう。」と考えてはどうだろう。これならば、ガード下での思考を、小さな公園での思考が取り込んでいる。小さな公園でこのくらいの単純な思考を一気に行うことは、それほど違和感はないだろう。しかし、この続きを考えながら、駅に着くころには、更に複雑な思考になっているかもしれない。そして、更に電車に乗りながら考え続けたとしたらどうだろう。などと考えると、どのくらいで私の能力を超えることになるかはわからないが、どこかで、この解決方法はとれなくなるのではないだろうか。少なくとも、哲学書一冊分のような複雑な思考を、このように一気に行うことはできないだろう。
ガード下での思考と小さな公園での思考が独立していない、と考えたとしても、同じ問題が生じる。途中で、桜がきれいだな、などと思考が中断されることをどう考えるのか、一晩寝た前後でも思考が連続していると言えるのか、というようなことだ。
つまり、どこかで思考は、息継ぎをするように分けて行われざるを得ない。今回の白い犬の例よりも、もっと複雑な思考をしながら家から駅まで歩いていたとすれば、ガード下での思考と小さな公園での思考は別の思考でなければならない。ガードの下を過ぎたところで一息入れられていなければならない。
この息継ぎの前後の思考は別の思考だから、その思考をつなぎ合せる必要がある。そこで「以下同様の規則」が登場する。「以下同様の規則」により息継ぎの前の「白い犬」と息継ぎの後の「白い犬」がつなぎ合わされ同じ犬だとされるのだ。このように、自分一人で行われる思考においても「以下同様の規則」が導入される必然性が生じる。
「以下同様の規則」の登場の仕方が若干唐突かもしれないが、先ほどの「A=A」の同一律が、ここでは「白い犬=白い犬」として登場していることを鑑みれば、先ほど述べたような意味での「以下同様の規則」が導入されるということに違和感はないのではないだろうか。
そして、私はこの「以下同様の規則」は「読者性」から導かれる、と言っている。つまりは、少なくとも、本一冊分のような複雑な思考を成立させるためには、その思考が例え自分一人だけで行うものであったとしても「以下同様の規則」、「読者性」、更には「伝達」が介在していなければならない。つまりは「伝達」=「作者、読者、哲学書」=「以下同様の規則+α」 という意味での「伝達」を介在させなければいけない。
このようにして、自分一人で複雑な哲学的思考を行うためには「以下同様の規則」の力が必要であり、そのためには自分から自分自身に対する「伝達」という概念を導入する必要があるということが明らかとなった、と私は考えている。
なお、この説明は、散歩の例えで言えば「ガード下で」「小さな公園で」「一気に思考を行う」というように、時間という考えを既に導入してしまっているという点で不正確なものとなっている。「ガード下で」「小さな公園で」という時点をひとつの時点と捉えるべきなのか、ひとつの時点で「一気に思考を行う」とはどういうことなのか、そもそも「時間」という概念を導入してよいのか、といったことについては現段階では何も検討を行っていない。しかし、私が、「哲学という一塊の思考について、自ら考え出し、自ら理解するということについては伝達するという観点を用いずに説明はできない。」とし、「自分が自分に対して伝達することも、伝達に含まれる」と述べる理由についての概要は表現できているのではないかと思う。
なお、これまで、イメージしやすいように、思考という用語を使ったが、この文章においては、思考を指す概念は、既に「哲学書」という用語で登場している。つまり、私が、私という読者に対して、(頭の中で)1冊の哲学書を書き、伝達するということが、思考というものの正体だ、ということだ。
言い換えれば、自分自身に対して哲学が伝達される場面を想定することで、本、音声といった実際に用いられた「言語」という意味を込めて用いられている「哲学書」という用語は、先ほど述べたとおり、自分自身に対する伝達という場面で「実際に用いられている」思考を含んでいることが明らかになる、ということだ。

4-2 読者性の担い手 ~独我論~
「読者」というものについて更に読者の存在という観点から述べることとしたい。
私はこうして文章を書きながら、この文章を読んでくれる読者はどこかにいるとぼんやりと考えている。しかし、読者はどこにいるのかということを考えると、少し自信がなくなる。私が人気作家だったら(哲学界にそういう人がいるのかは知らないが)サイン会に来ている読者などをイメージできるかもしれない。しかし、実は、私には、この文章を読んでくれる人が具体的に存在している状況というのは、あまり想像できない。例えば、この文章をブログに掲載したとする。だれが目に止めるというのか。そして、更に運良く熟読してくれて、更に私が書いた意図を踏まえて内容を理解してくれるような奇特な人が現れる、などということがありえるのだろうか。この文章の読者なんて、本当にはいないのではないかという不安が私にはある。
しかしながら、悔し紛れかもしれないが、このような意味での、読者がいないのではないかという不安は作家として成功しているかどうかとは関係ないのではないだろうか。実はどんな人気作家にとっても、先ほど述べたような理想的な読者性を満たす読者などいないのではないだろうか。
ここで、ある実験を考えてみる。何人かに同じ哲学書を読んでもらい、その後、感想文を提出してもらうなどをして、どの程度作者の意図等を理解しているか判断し、理解している順に列に並んでもらったとする。その結果、しっかり読み詳細の感想を書いた哲学好きの人が最初の方に並んで、哲学には興味がない大人がその後ろに並び、最後の方にはひらがなしか読めない幼児が並ぶというようなことになったとしよう。この場合、列の後ろになるにつれ、徐々に並んでいる人の理解度が落ちていくことになる。
このような理解度順の読者の列があった場合に、何人目から先は読者性がなくなります、というように読者性の有無を明確に区分することは可能なのだろうか。仮に列の5人目と6人目に理解度に大きな差があり、5人目までは哲学を大学で学び専門用語の理解も適切だが、6人目以降は哲学に興味がなく用語も誤解しており、さっぱり哲学書の趣旨を理解していなかったとする。一見、そこで区切ることもできそうだ。しかし、更に5人目と6人目の間に10人を追加したとする。そのなかには、私のように専門用語も少しは知っている素人もいるし、哲学書を読んだことがなく専門用語についての知識は無いがいわゆる哲学のセンスがある人もいる、というような状況であったとしよう。その場合、どこに読者性の境を設けるべきか判断に迷うことになるのではないだろうか。列をどこで区切るにせよ、その判断は恣意的にならざるを得ない。
この、読者を理解の有無により明確に二分することはできないという問題を、砂山のパラドクスにおける「山」概念の曖昧さのような「理解」概念の曖昧さの問題と受け止めることもできるかもしれない。
しかし私は、そこに別の問題を見いだしたい。理解度順で先頭に並んでいる一人目の読者から既に読者性は失われている、ということが示されているのではないかと考えたい。
なぜなら、少しでも理想的な読者からのずれが生じた場合、そのずれに関する部分については、その読者の読者性は失われることとなるからだ。理想的な読者は、全てを作者と同じように理解しなければならない。そして、哲学書が全体で一つの思考を表しているのであれば、少しでも読者性が欠ければ、全体を理解したとは言えない。全体を理解するためには、読者は完全に作者の思考を取り込み、作者と同じように考えているか、全てにおいて更にそれ以上のことを考えているのでなくてはならない。そのような理想的な読者など現実にはどこにもいないのではないか。
いや、一人だけ理想的な読者となりうる者がいる。作者自身だ。作者自身であれば、作者と全く同じというようにも言えそうだ。ということは、作者が読者として語りかけているのは、実は作者自身だったということだ。
そこには、他者は登場せず、作者が作者自身を読者として哲学書を書いているという独我論的な状況が浮かび上がってくる。
このようにして、読者の読者性について厳格さを追求すると、哲学においての独我論に至る。

4-3 読者性の担い手 ~アミニズム~
「作者と同じ」に解釈してくれる理想的な読者とはどこにいるのか、という問題について、「そのような読者など現実にはいない。」という独我論につながる厳格な解釈をとらずに、他者に対して「作者と同じ」に解釈してくれるという希望を持つということが「読者」の意味である、という方向で述べることもできるだろう。この場合、希望という名において、他者に対して「作者と同じ」という読者性を付加することになる。これならば、私以外の読者が存在するということが維持される。
しかし別の疑問が生じる。他者に読者性が与えられるかどうかは、どのように決まるのだろう。
また先ほど出した理解度順に並んだ読者の列の例と似たような例を出してみよう。今度は、哲学者が哲学書を書き、3人の友人に「読んでくれ。」と言い、渡したとする。友人Aは、哲学好きだったのでしっかり読み、詳細な感想をくれた。友人Bは哲学には興味がなく「読んだけれど難しくてよくわからなかった。」という感想しかなかった。友人Cは読んですらくれなかった。とする。
この場合、友人Cは、そもそも読んでいないのだから、読者性云々について議論することはできないように思われる。友人Aは、厳密に作者の意図どおりに解釈してくれる可能性は、先ほどの独我論につながる厳格な議論を踏まえると限りなくゼロに近いかもしれないが、もしかしたらという希望は持てそうだ。友人Bは、読んではくれているが、わかってくれていない。現時点では「もしかしたら意図通りに解釈してくれるかもしれない。」という希望すら持てないだろう。しかし、将来、哲学に興味を持ち、ふとしたきっかけで、あの本で言いたかったことはこういうことだったのか、などとわかってくれる可能性が全くないとは言えない。希望を持てるかどうか難しいところだ。
とすると、友人Aには読者性があり、友人Bは微妙であり、友人Cは読者性がない、ということになるのだろうか。それとも、先ほどの独我論での話と同じように、友人Aであっても現実には作者の意図どおりに解釈してくれる可能性は限りなくゼロに近いのだから希望など持てず、友人A、B、Cつまり全ての他者に対して読者性などない、と宣言すべきなのだろうか。
私は、そのいずれでもないと思う。
他者に対する「希望」が読者性の正体であるならば、少なくとも、友人Aを否定することはできない。友人Aのような読者の読者性を否定することは全ての読者性を否定することにつながるのだから、つまりは「希望」というものを否定することになる。よって、「希望」という視点から読者性を捉えるならば、友人Aの読者性を否定することはできない。
それならば、友人B、Cについてはどうかといえば、私は友人B、Cの読者性も否定できないのではないかと思う。
何故なら、作者は、友人Aに対して読者となってくれるという「希望」を持ちつつ文章を書いていたのと同じ希望を、友人B、Cに対しても持っていたに違いないからだ。
結果として、たまたま、読んでくれなかったり、理解してもらえなかったりするかもしれない。しかし、あくまで、作者が持っている「希望」が問題となるのだから、友人Cが実際に読んでくれたかどうか、というようなことは問題にならない。作者は、この3人が読者となりうるという「希望」を持ち文章を書いている。そういう意味では、3人の友人全員に読者性を認めることとなる。
それでは、この「希望」という側面から捉えた読者性について、どの程度拡大できるのか。私は少なくとも全ての人間というところまで拡大できると考えている。文章を読んでくれるかもしれない人全てだ。そして、更に拡大できるかもしれない。知性があるならば、人間でなくとも、宇宙人でもいいかもしれない。また、人間の言葉を理解させる方法があるならばイルカでもいいかもしれない。このような拡大は、作者が希望を持てる限りどこまでも進めることができるだろう。ネズミでもいいだろう。魚でもいいだろう。サボテンでもいいだろう。岩でもいいだろう。というように。この他者への読者になりうるという希望の投影を、大森荘蔵が他者に心があるかどうかという問題を論ずる際に用いられた(と野矢が言う)アミニズムという用語をもじって、哲学においてのアミニズムと呼ぶ。
つまりは、読者性を最も厳格に捉えたところに独我論があり、最も幅広く捉えたところにアミニズムがあると言える。

4-4 読者性の担い手 ~独今論~
私は、独我論として、他者の読者性を否定し、自分自身のみを読者とするという考え方について述べた。それでは、自分自身を読者とすることについては、本当に確かなことなのだろうか。自分自身を読者とした「自分自身への伝達」は確実で疑問の余地もないものだろうか。
私は冒頭で「伝達」というアイディアを導入した際に、哲学は伝達されていないかもしれないが、伝達されていると思われるということは否定できない、と述べた。
このうち、他者に対する伝達について、伝達されていると思われても実は伝達されていない、と否定するのが独我論であったが、自分自身に対する伝達についても、同様に、伝達されていると思われても実は伝達されていない、と否定する考え方があっても全く問題は生じない。つまりは、自分自身は必ずしも理想的な読者とは限らないという考え方だ。先ほどのガード下をくぐって小さな公園を通るという散歩の例を用いれば、ガード下での私にとって、小さな公園での私は、実は必ずしも理想的な読者としては存在しないということだ。
私は、この考え方はとりうると考えている。これは、どういうことかと言うと、地球が一瞬後には崩壊してしまうかもしれない、とか、時間というものは否定され今しかない、というような大げさな考えをとらなくともよい。ただ、先ほど考えていたことを思い出せなかったりするというような状況を思えばよい。小さな公園を通りながら、ガード下で考えていたことを思い出そうとしても、うまく思い出せない、ということに似たことはよくある、という当たり前の話だ。私は実感として、自分自身の理想的な読者ではない。
少なくとも私はこの文章を書くにあたって、これまで書いた文章を正確に全て踏まえながら、この文章の続きを書いているとは思えない。先ほど、この文章のアミニズムについての部分を書いていた私にとって、この部分を書いている私は理想的な読者ではない。
このように考えると、自分自身といえども決して理想的な読者ではなく、読者性はない、と考えることに違和感はないだろう。
このことを、独我論と対比するという程度の効果を狙い、哲学においての独今論と呼ぶこととする。ただし、過去や未来が存在しないということを言っているのではなく、別の時点における自分自身が理想的な読者にはならないという意味で、過去と未来とが現在から分断されているという表現をしているに過ぎない。よって、この名称が誤解を呼ぶならば、他の名称でもいいだろう。しかし、通常の用法としての独我論と私がこの文章で用いている独我論とのずれとちょうど同じようなずれが、通常の用法としての(永井均が用いるような)独今論と私がこの文章で用いている独今論とでも生じているという意味では、独我論と独今論という対比がうまくできていると考えている。つまり、通常は私以外の世界や今以外の世界が存在していないのではないか、というような意味合いで用いられている独我論や独今論が、私以外の読者や今以外の読者が存在していないのではないかというような意味合いで、ずらして、哲学においての独我論や独今論として用いることができている、ということである。よって、この文章においては、このような考え方を独今論と呼ぶこととする。
なお、この独我論と独今論は、必ずしも同時に適用される必要はない。他者に読者性はあるが私には読者性がないという独今論的な状況もあれば、先ほど独我論として述べたような、他者に読者性はないが私には読者性があるという状況もありえる。
しかし、ここで注目しておくべきは、独我論と独今論が重ねて適用されている状況である。この場合、他者としての読者も、私としての読者もおらず、読者はどこにも存在しないこととなる。どこにも読者がいない状況で、作者が空しい伝達を試みつつ、伝達されていると思っている状況である。
このような、他者としての読者も、私としての読者もおらず、読者はどこにも存在しないという考えを「独我論+独今論」とでも名付けることとしよう。

4-5 独我論、独今論の耐えられなさ:拡張されたアミニズム
この「独我論+独今論」という思考の道筋は確かにありうる。しかし、この文章の作者である私にはこのアイディアを受け入れることは、耐えられない。この文章を書いていて、他者という読者も私という読者も否定しつつ、それでも作者として文章を書くということは想像できない。文章を書くことの意味がわからなくなってしまう。
更に具合が悪いことには、私は、自分自身に対して伝達することも伝達に含まれるのでなければ、哲学という一塊の思考は成立しない、と述べた。つまりは、独今論においては哲学が成立しないこととなり、つまりは、私が行っている、この営みは成立していないことになってしまう。これも私には耐えられない。
私は、この耐えられなさにより「独我論+独今論」は受け入れられないと考える。
では、この耐えられなさとは何なのだろうか。
先ほど、独我論と対比させる考え方としてアミニズムを登場させ、読者性を有しないかもしれない読者に対して読者性があるという希望を持つことをアミニズムと呼ぶこととした。これと同じことが、独今論においても可能であり、私という理想的な読者がいるという希望を持つということも、アミニズムと呼ぶことができるのではないだろうか。そして、この希望、つまりアミニズムを立ち上げるものが、独我論における私以外の読者がいないという状況の耐えられなさであり、独今論における私という読者がいないという状況の耐えられなさなのではないだろうか。
このようにして、独我論、独今論による読者の否定、哲学の否定という耐えられなさを認めるならば、それを乗り越え、読者としての他者を承認し、読者としての私を承認し、伝達を維持するために、希望つまりアミニズムが導入されざるをえない。
ここで、アミニズムは、独我論と対比されるものから、独今論とも対比されるものに拡張される。

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