6-1 独今論と「読者としての私」
ここまで、比較的順序だてて整理して説明をしてきたつもりだが、実は、順序だてた説明ができないため意図的に後回しにしたことがふたつある。
一つは、独今論について語るなかで、「自分自身に対して伝達することも伝達に含まれるのでなければ、哲学という一塊の思考は成立しない、~これも私には耐えられない。」と述べたことの問題である。
私は、先ほどは、この耐えられなさを、哲学の受け手である「読者としての私」に読者性がないことの耐えられなさと同列に語ってしまったが、実はそうではない。
哲学の受け手である「読者としての私」に読者性がないということは、つまりは、他者の読者性を認めないとした独我論と同様に、読者がいるかどうかという問題であり、既に述べたとおりである。
しかし、独今論を認めた場合、哲学が成立しないということは、この文章が成立していることすら否定することとなるのだから、先ほど述べたような問題とは、全く別の問題がある。
では、具体的にはどのように哲学が否定されるのか説明するためには、もう一つの後回しにした問題について語る必要がある。
それは「読者としての私」についてである。先ほど、「私」については「私」=「作者」と結論付け、「読者としての私」は「私」ではなく「他者」だとしたが、そこには、更に、まだ述べていない問題点が残っている。
その問題点を明らかにするために、改めて、自分自身の中で哲学的な思考を行うということを、「作者としての私」と「読者としての私」という概念を用いて整理してみることにする。
仮に、(時点という概念を不用意に用いることに片目をつむって)時点Aと、それより未来の時点Bがあるとする。
時点A、時点Bを導入し、そこに「作者としての私」と「読者としての私」があるとすると、私には、時点Aにおける作者としての私と読者としての私、時点Bにおける作者としての私と読者としての私、という4つの私がありうる。
これを、「私(A作者)」、「私(A読者)」、「私(B作者)」、「私(B読者)」と表すことにしよう。
なお、ここでは「私(A読者)」は省略することにする。何故なら、「私(A読者)」とはA以前の時点(例えばA‘)における「私(A’作者)」の哲学書の読者なので、「私(A読者)」について語るためには、更に導入する時点を増やさなければいけなくなり、議論が複雑になってしまうからだ。「私(A作者)」、「私(B作者)」、「私(B読者)」の3つに絞り、その関係を確認してみよう。
哲学的な思考を時点A、Bを通じて行ったとする。そうすると、まず、「私(A作者)」が語った哲学が、「私(B読者)」に伝わる。そして、「私(B読者)」と「私(B作者)」は、同じ時点における同じ私であるので、「私(B読者)」として理解した「私(A作者)」の哲学を踏まえ、「私(B作者)」は更に哲学を語っていくことになる。つまり、図示すると「私(A作者)→私(B読者)=私(B作者)→」となる。
これに、A以前の時点(例えばA‘)等の省略した時点も踏まえ、連続して哲学的な思考を行っている場面を図にすると、「・・・→私(A’読者)=私(A‘作者)→私(A読者)=私(A作者)→私(B読者)=私(B作者)→・・・」となり、思考が行われる限り、このような関係が続いていくことになる。
これが、自分自身に対して哲学を伝達するということの意味であり、私が私に対して哲学を伝達することで一塊の思考が成立するということの意味である。
この図において、これまで何を説明してきていて、何を説明していなかったのだろうか。
この文章においては、これまで、「作者としての私」から「読者としての私」への伝達という、この図における「→」のみを注目していた。しかし、実は、ある時点における「作者としての私」と「読者としての私」は同じであるという、この図における「=」も、哲学的思考が成立するためには必要なのである。
ここに、これまで述べなかった「作者としての私」と「=」で結ばれるものとしての同時点における「読者としての私」がある。(なお、ここまで「読者としての私」として登場していたのは、「→」で結ばれるものとしての別時点における「読者としての私」であった。)
このことを確認したうえで、独今論により、自分自身に対する伝達が否定され、哲学という一塊の思考が否定されたということの意味を、改めて捉え直してみたい。
この否定には2つの意味がある。一つ目は先ほど述べたような、独今論により、私という読者がいることを否定されると言った意味での否定である。これは、作者から読者への伝達、つまり、例えば「私(A作者)」から「私(B読者)」への伝達を否定するという、「→」の否定である。
もう一つは、独今論においては哲学が成立しないこととなってしまうと言った意味での否定である。これは、「私(A作者)」から「私(B読者)」への伝達を否定するということではない。なぜなら、一旦、違う時点での「読者としての私」の読者性が否定され、「→」が否定されたとしても、アミニズム、つまり「読者としての私」はいるかもしれないという希望により「→」は復活し得るので、哲学の伝達が成立しないとは言えないからだ。
では、何が否定されたかと言えば、例えば「私(B読者)」と「私(B作者)」という同じ時点における同じ私が作者として、また、読者として現れるということである。つまり「=」の否定である。この否定により、これまでの自らの思考を理解した上で更に思考を積み重ねることにより、一塊の複雑な思考を成立させる、ということが否定される。これが、哲学が成立しないということの意味である。
よって、前者の否定、つまり「→」の否定は、独我論において他者の読者性を否定したのと同じような意味しかないが、後者の否定、つまり「=」の否定は哲学の否定という全く別の否定である。
なぜ、この二つの否定の間で大きな差が生じるのか、ということについて、言い方を変えて述べると、この差は「区別」があるところでの否定なのか、「区別」がないところでの否定なのかという差である、という言い方もできよう。
独我論においては、「作者としての私」と「読者としての他者」という、空間的区別が働いていた。区別の向こうはわからないので、この区別により、読者は空間的な区別の向こうにいるため、読者はいないかもしれないが、いるかもしれないという希望も持てる、というアミニズムが働くことができた。
また、独今論においても、「私(A作者)」から「私(B読者)」への伝達ということであれば、同様に、時間的区別が働き、「私(B読者)」は時間的区別の向こうにいるため、読者はいないかもしれないが、いるかもしれないという希望も持てる、というアミニズムが働くことができた。
つまり、これらの前者の読者の否定については、「区別」というものがあるからこそ、アミニズムが働く余地があった。
しかし、後者の哲学の否定、つまり、例えば「私(B読者)」と「私(B作者)」という同じ時点における同じ私が作者として、また、読者として現れるということを否定するということには、同じ時点の同じ私のことだから、時間的区別や空間的区別は働かず、『「区別」の向こうだから、わからないけれどいるかもしれない。』というような希望を持つことはできない。よってアミニズムが働かない。これが後者の哲学の否定である。
「区別」を用いたアミニズムが働かないかたちで、哲学が否定されるということは、アミニズムで乗り越えることができないという意味で重大な問題だ。
そして重要なことは、この哲学の否定は、理由のない疑いのための疑いのようなものではない、ということだ。既に述べたとおり、私には、常に作者として私を読み込んでおり、読者には私を読み込んでいない、という素朴な実感がある。よって、作者には「私」というものを読み込まざるを得ない。これは、同時に、読者には「私」は読み込むことができないということを意味する。この素朴な実感に裏打ちされた「読者としての私」の否定が哲学の否定につながっている。
このように、私は、これまで問題を隠しつつ説明を行ってきたが、実は、独今論と「読者としての私」という観点からは、哲学の否定という大問題が生じるのである。

6-2 再拡張されたアミニズムと原点的区別
それでも私は、一塊の思考の結果としてこの文章を書いている、と信じている。あえて、過去、現在という用語を用いれば、現在、作者としてこの文章で書いていることは、過去における私の思考の成果を読者として受け取ったものに基づいているという確信がある。つまり、「作者としての私」と同一時点において、「=」で結ぶことができる「読者としての私」を立ち上げようとする更なるアミニズムが働いている。ここに、哲学を否定するという独今論の破壊力をも乗り越え、再度拡張されるアミニズムの根の深さがある。
それでは、この再拡張されたアミニズム、つまり、「作者としての私」と同一時点における「読者としての私」を立ち上げるとは、どういうことなのだろうか。
再度、「区別」概念に登場してもらうことにする。時間的区別、空間的区別として導入した、あの「区別」概念である。
そうすると、この問いは、再拡張されたアミニズムを導入するためには「作者としての私」から同一時点における「読者としての私」を「区別」する必要があるが、その場合の「区別」とはどういうものだろうか、という問いに置き換えることができる。
答えを考えるにあたって、初めに、少なくとも言えることは、この「区別」は空間的区別とも時間的区別とも違うものだということだ。
しかし、「作者」の原点性、つまり「作者としての私」が起点となり、そこから何が区別されるか、という観点で検討を行うという意味では、空間的区別や時間的区別と違いはないだろう。つまり、空間的区別においては、「作者としての私」から見た「読者としての他者」が区別され、時間的区別においては、「作者としての私」から見た別時点における「読者としての私」が区別されたのと同じように、この区別においても、「作者としての私」から見た同一時点における「読者としての私」が区別される、という視点で区別が捉えられるべきだということだ。
そこで私は、この「作者」の原点性というもの自体が、この新たな「区別」を立ち上げているのではないかと考える。なぜなら、私は、同一時点で「作者としての私」であり、「読者としての私」であるのかもしれないが、この「私の哲学」においては、「作者」としての原点性の有無により、同一時点での「作者としての私」と「読者としての私」は明確に「区別」されるべきだからだ。
そして、この原点性により、「作者としての私」が優先され、「読者としての私」は、「区別」の向こう側にあるものとして、独今論により否定される一方で、再拡張されたアミニズムにより希望を持たれもする。これが再拡張されたアミニズムを導入するまでの経緯である。
この「区別」を原点的区別と呼ぶこととしたい。つまり、区別には、時間的区別、空間的区別、原点的区別の3つがあるということになる。
こうして原点的区別により再拡張されたアミニズムが成立し、「作者としての私」と同一時点における「=」で結ばれる「読者としての私」が立ち上がり、哲学が成立しうることとなる。
なお、付言すれば、これまで「伝達」という観点から出発して色々なことを語ってきたが、この「伝達」とは、「伝達する」ということであり、「伝達される」ということではない、ということに、原点的区別の「原点性」、つまり「作者」の優先性は起因しているのではないだろうか。つまり、哲学とは、語るものであり、語られるものではない、ということである。つまりは、今まで「伝達」としてきたものは、実は「伝達する」であり、この原点性は「伝達」という「私の哲学」の根幹に関わっているものなのである。
この捉え方は、(自己顕示欲が強くて、人から学ぼうとしない、というような私の個人的な性格とは関係がなく、)「私は哲学の読者である。」という哲学でさえ、私が作者として語らざるをえない、という哲学の原初的な構造に由来している。(と思う。)

6-3 区別の共通性1 時間的区別・空間的区別
独我論・独今論について検討し、「区別」という観点から原点的区別というものまで持ち出し、「私の哲学」の根幹の「伝達」自体にまで話は至った。それでは、これ以上、これらの「区別」について更に語るべきことはあるのだろうか。
ここで視点を変えて、「区別」の共通性という見地から考えてみたい。
これまで、私は、区別されたもの同士は何が異なるのか、つまり、例えば空間的区別においては、「作者としての私」と「読者としての他者」との違いは何か、というような相違点を中心にみてきた。しかし、区別とは、何らか共通しているものに相違点があるからこそ区別であり、共通性がなく相違点だけがあるならば、無関係でしかない。
よって、空間的区別における「作者としての私」と「読者としての他者」、時間的区別における、別時点での「作者としての私」と「読者としての私」、そして、原点的区別における、同一時点での「作者としての私」と「読者としての私」については、いずれも相互に何らかの共通性があるはずだということだ。
そこで、区別されるもの同士の共通性に着目してみたい。
空間的区別について言えば、哲学の「作者としての私」と「読者としての他者」との間では、伝達が生じるためには作者と読者は別である、という意味での「区別」がなければならないが、一方で、伝達ができるという意味での何らかの共通の土俵に立っていなければならない。この、何らかの共通の土俵、共通性とは何かと言えば、先ほど、読者性の議論において述べた、作者が述べたことを読者は、そのとおり理解できる、という「以下同様の規則」であろう。「以下同様の規則」が両者に及ぶからこそ、作者と読者が共通の土俵に立ち、伝達が生じうる。なお、原点性があるため、正確には「作者としての私」から「読者としての私」に対して「以下同様の規則」が及ぶと言うべきだが、原点性を捨象すれば、「以下同様の規則」が両者に及ぶ、という言い方ができるはずだ。
時間的区別についても同様で、哲学の「作者としての私」と「読者としての私」との間では、伝達が生じるためには作者と読者は別である、という意味での「区別」がなければならないが、伝達ができるためには、作者が述べたことを読者はそのとおり理解できなければならない、という意味で、「以下同様の規則」が両者に及んでいるという共通性がなければならないだろう。
このように、空間的区別と時間的区別における、区別されるもの同士の共通性とは、「以下同様の規則」であると言える。

6-4 区別の共通性2 原点的区別
一方で、原点的区別においては、区別されるもの同士に、検討するまでもなく、同一時点における「作者としての私」と「読者としての私」という明らかな共通性がある。同一時点における同一の私、これ以上の共通性はなく、相違点について述べることが難しいほどだ。しかし、共通点と相違点は相互に関連している。区別における相違点を乗り越えるものとして共通点はあるはずだ。つまり、同一時点における同一の私だから共通だ、ということだけでは、共通性の検討としては十分ではない。この問題を考えるためには、まず、原点的区別における相違点とは何なのか考える必要がある。
原点的区別により分断されたものは、自分自身から哲学を伝達され、自らの思考を理解した上で更に思考を積み重ね、自らに伝達することにより、一塊の複雑な思考を成立させている、という思いであり、「作者」と「読者」の相違、つまり、哲学を「伝達する」ことと、哲学を「伝達される」ことの相違が、原点的区別における相違点であると言える。
それでは、原点的区別における、相違点と対比されるものとしての共通性とは、なんだろうか。
原点的区別の相違点が「伝達する」ことと「伝達される」ことなのだとすれば、共通点は「同一時点における同一の私だ。」というようなものではない。
相違点が「伝達する」ことと「伝達される」ことなのだから、共通点は、表面的に言えば、いずれも「伝達」の一側面である、ということになる。そして更に、伝達されたことを読者として理解し、作者として伝達することが、一連の継続的な思考、つまり哲学を成立させているという見地から述べるならば、『「作者としての私」であること(つまり「伝達すること」)』も、『「読者としての私」であること(つまり「伝達されること」)』のいずれもが、哲学という営みの一側面であるということ、が、共通性の正体とも言える。

6-5 区別の共通性3 アミニズム
これまで、アミニズムとは、希望である、と述べてきたが、この区別における共通性、つまり、空間的区別と時間的区別における「以下同様の規則(があると言えること)」と原点的区別における『「伝達」(または、哲学という営み)の一側面であると言えること』が、アミニズムの正体であるとも言える。
よって、「作者としての私」が「読者としての他者」や別時点の「読者としての私」に「以下同様の規則」という共通性が認められることを強調し、また、「作者としての私」が同一時点の「読者としての私」に「伝達」の一側面を担い、ともに哲学を成立させているという共通性が認められることを強調することが、アミニズムなのだという言い方もできよう。
つまり、以下同様の規則、伝達(哲学)の成立に関わる区別と共通点について、区別(否定)を強調すれば独我論・独今論に至り、共通点(肯定)を強調すればアミニズムに至る。