「私の哲学」 ~私が哲学的な文章を書き、あなたに伝達していることについて語る~ 7 徹底的な懐疑主義

7-1 追い出すべきもの:懐疑主義
こうして、私がこの文章で語ろうとしたことは、ほぼ語り終わった。ここで、私は、このような方向でこの文章を書いた動機を述べたい。
私は、このような方向で考察を始めた動機はいくつかあるが、その最も大きなものは、懐疑主義的な考え方のうちのある一つを私の哲学から追い出したいという思いである。
「懐疑主義」と聞いて、最初の方で「懐疑的で独我論的な傾向のある哲学などでは、「伝達」という概念自体を否定するような哲学もあるだろう。しかし、「その哲学自体は伝達されている」という特徴は全ての哲学に共通であると思われる。」と述べたことを思い出すかもしれない。そして、そのような哲学を自己矛盾に陥っているとして追い出そうとしていると思うかもしれない。
しかし、そうではない。既に述べたように、私はデカルト的な反論を受けて「哲学は伝達されている」という主張は早々に取下げ、「哲学は伝達されていると思われる、ということは疑い得ない。」というラインまで撤退している。よって、「哲学は伝達されていると思われるが、実は伝達されていない。」という懐疑主義的な主張は成立しうる。これが、この文章で述べた独我論であり、独今論である。
私が追い出したいのは、このような懐疑主義ではなく、この世界の全ての存在を疑い、否定し、無視するような徹底的な懐疑主義だ。何も積極的な論拠を示さずに、懐疑のための懐疑のような理由のない懐疑を提示し、全てを懐疑に晒すような懐疑主義とでも言えばいいのだろうか。
おわかりかもしれないが、徹底的な懐疑主義とは、私がこの考察を経ることで乗り越えたいと思っている私自身の考えだ。だから、徹底的な懐疑主義というものを説明するために、これまでの私自身の考えについて書いていくことにする。

7-2 徹底的な懐疑主義
私は、デカルトの「我思う故に我あり」という言葉について、哲学に本格的に触れる前から論理の飛躍があると思っていた。何故、我思えば、我があるのか、ということがわからなかった。デカルトにより近代哲学が始まったとされるが、私には、何かが始まったということは、なんとなく感じるのだが、何が始まったのかがよくわからなかった。
そして考えてみると、その疑問は、文の内容によるものではなく、文というものの性質そのものによるもののようだった。よって「我思う故に我あり」という文でなくとも同じだった。例えば、「我思う故に~あり」というように、「~」に色々な言葉を入れ、後段を色々と置き換えてみる。そうすると、例えば、「我思う故に「思い」あり」とか「我思う故に「我思う」あり」というようなトートロジーとなり、一般的には論理的に正しいとされるバージョンもできる。しかし、それでも私の疑問は消えず、この前段の「我思う故に」から、どんなものであれ後段の何かがなぜ引き出せるのかがわからなかった。文として何かの主張を引き出すということの意味がわからなかった。
この疑問について、この文章における議論を踏まえて言い直せば、「以下同様の規則」がどうして成立するのかがわからなかったとも言える。
例えば「我思う故に「思い」あり」という文で言えば、最初の「思う」と2つ目の「思う(思い)」が、なぜ同じ「思う(思い)」なのかがわからなかった、ということだ。また、先ほど用いた「A=A」のような数式で言えば、(左辺を指して)「これは「A」だ。」と言われれば、「わかった。」と答え、(右辺を指して)「これは「A」だ。」と言われれば、「わかった。」と答えるが、「よって「A=A」だ。」と言われると、「どうして?」と立ちすくんでしまうのだ。
それでも哲学書を読むためには、読み進めなければならない。そうすると、哲学書に「白い犬がいるとする。その白い犬が・・・」などと書いてあったときに、私は、なぜ1番目の「犬」と2番目の「犬」が同じだということになるのだろう、というところで止まってしまうことになる。「犬」を例に出したが、これは犬というような用語でなくても、真理などというような用語でも同じことだ。それなのに、哲学者達は、どんどん先に進み、真理とか、現実とか、時間とか、言語とか、豊富な用語を使い、色々な哲学的な議論を進めていってしまう。
私はその疑問に片目をつむったまま読み進めることで色々なことがわかってきた気にはなったけれど、根本的なところで何か気持ち悪さが残っていた。哲学書を読むと、いつも、どこかに感じてしまう疑問があった。「何が語られ始められているのだろう。」これが私の徹底的な懐疑主義としての実感だ。
その実感をあえて言明すると「確かな言明を行うことは不可能である。」とでも言えようか。だが、この言明すらも懐疑に晒される。これが、私が追い出そうとした懐疑主義だ。
この懐疑主義を、今まで述べた用語を用いて述べるならば、「以下同様の規則」への疑いと言えばよいのかもしれない。「以下同様の規則」は何によって成立しているのか、仮に、「以下同様の規則」を否定するならば何が残るのか。そこはつるつるの大地なのではないか、という疑いである。

7-3 徹底的な懐疑主義を越えて
ここで、私は、「伝達されているという思い」を確かなものとして「徹底的な懐疑主義」から決別して歩み始めたい。確かに、私が哲学という土俵に立たない限りは決して「確かな言明を行うことは不可能である。」という徹底的な懐疑主義を否定することはできない。しかし、私が一旦、哲学という土俵に立ち哲学を行うならば、この文章で述べたとおり、哲学を行うという営み自体から「伝達されているという思い」が確かなものとして導かれる。ここで私は、「私の哲学」において、デカルトの言葉を言い換え「我哲学する(我思う)故に伝達あり」と宣言したい。
この宣言によって、「私の哲学」における徹底的な懐疑主義は崩れる。なぜなら、反「徹底的な懐疑主義」側は既に「伝達されているという思い」という肯定の論拠を提出していることから、徹底的な懐疑主義側は、積極的に肯定できる論拠が何もないから肯定しない、という懐疑論特有の論法を用いることはできなくなるからだ。そして徹底的な懐疑主義が成立するためには、少なくとも一つは何らかの「伝達されているという思いを肯定しない論拠」を肯定しなければいけなくなり自己矛盾に陥る。
また、「以下同様の規則」への疑いという面から述べると、「以下同様の規則」を否定しても、そこには「伝達されているという思い」が残るということだ。
ここで、私は徹底的な懐疑主義を乗り越えることができたと考えている。しかし、どのレベルで乗り越えることができたのかは注意しておく必要がある。
これまで私が述べたことを、先ほど、「伝達」=「作者(発信者)、読者(受信者)、哲学書(対象)」=「以下同様の規則・・・+α」 という数式もどきで表現した。
このうち、例えば、先ほどの「以下同様の規則」について言えば、「「以下同様の規則」を否定しても、そこには「伝達されているという思い」が残る」というような言い方をしなくとも、読者性から、数式の左辺の「以下同様の規則」は認められていたのではないか、「以下同様の規則」が徹底的な懐疑主義を突き破ったとも言えるのではないか、と思われるかもしれない。また、中辺の「作者」についての作者性の議論を持ち出し、哲学の「作者としての私」は否定出来ないことから徹底的な懐疑主義は成立しない、というような言い方ができると思われるかもしれない。(この場合、デカルトが言った「我思う故に我あり」にとても近くなる。)このように、この文章における数々の考察を経て、「伝達」=「作者(発信者)、読者(受信者)、哲学書(対象)」=「以下同様の規則・・・+α」ということが認められたのではないかと思われるかもしれない。
しかし、私が「伝達あり」と宣言したことの確信は、その手前にある。この数式の中辺と右辺(=「発信者、受信者、対象」=「以下同様の規則・・・+α」)は当面の最良と思われる説明を行うために導入したものであり、今後更によい説明に置き換えられる可能性はある。しかし、仮に今後、この図式のうちの中辺と右辺が再考されることがあったとしても、「伝達あり」との左辺についての確信は揺らがないのではないかと思っている。私が徹底的な懐疑主義を越えたと考えているレベルは、あくまでも左辺の「伝達あり」においてなのである。
これまで長々と述べたことを全否定しているようにも思われるかもしれないが、これが正直な思いだ。

7-4 ドグマ
言い方を変えてみよう。
「私は、「伝達あり」との左辺についての確信は揺らがないのではないかと思っている。」と言った。これは、表現を変えれば、「哲学は伝達されていると思われる。」ということが、「私の哲学」の基礎付けであり、「私の哲学」の必要条件とも言えるというとになろう。
一方で、徹底的な懐疑により、「哲学は伝達されていると思われる。」という主張以外の全ての主張は未だ肯定されていない。ということは、「哲学は伝達されていると思われる。」以外の主張から何かを出発することは、「私の哲学」としては認められないということだ。つまり、これは、「私の哲学」の十分条件でもある。
このことをつなぎあわせると、「哲学は伝達されていると思われる。」ということは「私の哲学」の必要十分条件であり、「私の哲学」は全てそのこと「のみ」から始まるべきだということになる。
一般的に哲学において、このような基礎付けはドグマとして否定されることが多いだろう。しかし、全ての哲学には、それぞれの哲学者なりの「哲学の捉え方」があるという意味において、ドグマが含まれていると私は考えている。
そして、「私の哲学」における「哲学の捉え方」を確認するという行為は、実は、哲学に必然的に含まれるドグマを確認する行為であると考えている。なぜなら「哲学の捉え方」とは、哲学以前に既に定められているという意味でドグマだからだ。
ここで私にとっての「私の哲学」の立ち位置を確認しておきたい。「哲学は伝達されていると思われる。」というドグマは、数ある哲学におけるドグマのなかで、私にとって、最もましなドグマだということだ。

7-5 確信・ドグマ・再拡張されたアミニズム
この確信、ドグマは、独今論により、哲学の成立が否定されようとしたときに、原点的区別という概念を持ち込み、哲学の成立を維持した再拡張されたアミニズムと同じものであると考えられる。なぜなら、再拡張されたアミニズムは、あの「伝達」=「作者(発信者)、読者(受信者)、哲学書(対象)」=「以下同様の規則・・・+α」という数式における、左辺、つまり「伝達(する)」ということ自体から成立したものであり、この数式における「伝達」以外の中辺と右辺をいくら否定しようとしても、中辺と右辺に何かを加え、それを乗り越えようとする、左辺、つまり「伝達」への確信そのものであるとも言えるからだ。

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