8-1 まとめ:アミニズムの導入まで
まとめとして、ここで、これまでの議論を踏まえ、数式もどきに再登場してもらうことにする。
直近で示した数式はこうだった。
「伝達」=「作者(発信者)、読者(受信者)、哲学書(対象)」=「以下同様の規則、独我論・独今論、アミニズム(希望)、私、他者、時間、空間+α」
しかし、議論を踏まえ、修正し、更に並べ替え、言葉を補うと、「私の哲学」とは、
「伝達」=「作者(発信者)、読者(受信者)、哲学書(対象)」=「作者としての私(作者性(原点性))、読者としての私(読者性)、読者としての他者(読者性)、読者ではない他者(哲学書上のみ)、区別(時間的区別・空間的区別・原点的区別)、独我論・独今論、アミニズム(希望=以下同様の規則・伝達(哲学)の成立)+α」 というようになろうか。
ここに記載した全てについて改めて触れることはできないが、ここまでの議論の大まかな流れを振り返ると、まず、私は、合意が得られやすいように形式的な捉え方から「私の哲学」というものを捉え、そこに「伝達」というものを見出し、そして「伝達」に「作者、読者、哲学書」という3つの側面を見出した。更には、自分自身に対する伝達という側面も踏まえ、主に読者性の担い手についての分析を経て、独我論・独今論に至り、また、それに対抗するものとして希望という意味でのアミニズムを導入した。
このようにして、私は、「私の哲学」において「伝達」という土俵を設定し、独我論・独今論といった懐疑主義的な主張と対峙することに注力し、区別、アミニズムという概念を持ち出すことにより、一定程度の勝利をおさめることができたと考えている。いや、おさめなければならない。それがアミニズムである。

8-2 独我論・独今論の意義
しかし、独我論・独今論について、「伝達」という土俵を設定したことの意味は、独我論・独今論に勝ったか負けたかというような矮小な話を超えた意味があると考えている。
通常、独我論・独今論のような懐疑主義は、私が陥っていた徹底的な懐疑主義のように、要は、難癖をつけているだけ、というように受け止められがちだ。何も夢だと思う理由などないのに「これは夢ではないか。」などと疑っているデカルトの夢の懐疑のように、疑いのための疑いのようなものだと思われがちだと思う。
しかし、私が「伝達」という土俵を設定して提示した「私の哲学」における独我論・独今論は、そのようなものではない。この独我論・独今論は、哲学自体の成立に対する否定ということを除けば、つまりは、作者の意図を完全に理解してくれる理想的な読者が存在することの否定という実感を伴ったものなのである。
例えば、何か物事を説明しても、なかなか相手方に伝わらず、わかってもらったと思っても実はわかってもらえなかったというようなことはよくあることだろう。私が理想的な読者はいないのではないか、と疑ったのは、このような素朴な実感に裏打ちされている。これが、独我論である。
また、先ほど思いついた哲学的なアイディアについてメモをする前に忘れてしまうというというようなことは、よくあることだろうし、また、自分が書いた文章について読み返した時、何が書いてあるのかよくわからなかったりすることも、容易に想像がつくのではないだろうか。私の独今論はこういうところから出発している。
このように、独我論・独今論については、通常の意味合いでは、疑うために疑うような、疑う理由のない底なしの懐疑のように受け止められがちであるが、哲学の伝達の場に限定をすることで、理由なく難癖をつけているようなものではなく、実感に裏打ちされた、理解が得られやすい懐疑となるのではないだろうか。
そして、このことで独我論・独今論が本来の力を取り戻すことができるのではないかとすら考えている。

8-3 独今論の傷跡 この文章の意義
ここまでは当初書き始める前におおむね想定していたものであったが、実際に書き始め、独今論について考察を深めるなかで、哲学の成立自体を否定するような独今論の破壊力に気付かされた。結局は、この破壊力についても、ドグマというものの位置づけを踏まえると、ドグマとして再拡張されたアミニズムで受け流されざるを得ないが、私にはこの独今論の傷跡が残っている。
つまり、私には、これまでの自分自身の哲学的思考を確実に受け止めた上で哲学を語ることができていないのではないか、という懐疑が傷跡として残っている。
確かにこの懐疑はアミニズムにより乗り越えられ、傷跡はないものとされるだろう。しかし、率直な思いとして、私はこの懐疑にどこかで同意できてしまう。
この懐疑への同意が何を意味するのかと言えば、この文章すらも、実は分断された思考を継ぎはぎしたもので、実は一塊の思考などではないのではないか、ということだ。それでも哲学を肯定するならば、この文章も含めた哲学は誤読によってできているとでも言わざるを得ないのではないか、ということだ。
しかし最後に、何度でも強調したいが、それでも、私がこの文章を一塊の思考として「伝達」しているという確信は揺らがない。
そして、「伝達」=「作者(発信者)、読者(受信者)、哲学書(対象)」=「作者としての私(作者性(原点性))、読者としての私(読者性)、読者としての他者(読者性)、読者ではない他者(哲学書上のみ)、区別(時間的区別・空間的区別・原点的区別)、独我論・独今論、アミニズム(希望=以下同様の規則・伝達(哲学)の成立)+α」という数式を「伝達」から導くことができたということの意義は、様々な概念が導かれたことにあったというよりも、「伝達」に、これだけの概念を導くことができる力があることを確認し、「伝達」という出発点の正しさを補強できたということにこそ、あったではないかと考えている。