「あるようにあり、なるようになる 運命論の運命」を読んで~「なるようにある」の考察~ 3 ベタとスカ

3 ベタとスカ
3-1 三つのスカ
まず、この本には三つのスカが登場することに着目するところから始めたい。
三つのスカ、つまり空白とは、まず一つ目が、第4章で「表現(排中律)は「空白」を招き寄せる。」(p.60)とされる、排中律との関係から語られる空白である。
二つ目が、第16章で「「空白」は、未来時制という言語的な装置が創り出す言語的な仮想である。」(p.197)とされているように、未来との関係から語られる空白である。
もう一つが、第19章の小見出しともなっている「「空白=瞬間」としての現在」(p.237)という現在における空白である。
これらは、そのいずれもが、「言語的な装置が創り出す言語的な仮想」として扱われているとおり、同じものを指すと言ってよいのではないか。
こんなところを手がかりにして議論を始めていきたい。

排中律、未来、現在に現れる三つのスカは、スカの神の三つの側面だと言ってもよい。
そう考えるなら、ある側面では、排中律・未来・現在をつなげて考えることもできるはずだ。
このようなやり方で、現実と時間の区分や未来と現在という時制区分を越えて、概念同士を結合して捉えてみるという着眼点が、現実と時間との関係を捉えるうえでは役に立つと思われる。この線で検討を続けてみよう。

3-2 二つのベタ
それでは、スカの神の領域にないもの、つまりベタの神の領域にあるものはなんだろうか。

この本の、少なくとも第24章までの議論を辿ってみると、おおまかには、運命は、現実と時間という側面から捉えられている。まず、現実は、排中律・様相と、それらではどこまでも捉えきれない現実性・絶対現実という関係で描かれる。その後、時間について、未来、過去、現在という三つの時制に分けて考察が進められていく。そして、ついには、「運命」は「ある、なる」に至る。
この一連の流れにおける中心概念である、「排中律・様相」、「絶対現実・現実性」、「未来」、「過去」、「現在」から、スカの神の領域にある「排中律・様相」、「未来」、「現在」を除くと、「絶対現実・現実性」と「過去」が残る。
そこから、この二つがベタの神の領域にあると言えるのではないかという推測ができる。絶対現実・現実性と過去、という結合が成立するということである。
もし、そのように考えることができるなら、この本における、ベタの神とスカの神の拮抗は、単純化すると、ベタの神の領域にある「絶対現実・現実性+過去」と、スカの神の領域にある「排中律・様相+未来+現在」との関係性のことを指すということになる。

では、本当にそのように考えることができるか、ということになるが、過去と現実性とを結びつけるという捉え方は、「ある、なる」から逸脱した独自の解釈ではないだろう。
まず、過去についての「<過去の確定性・変更不可能性>」(p.206)という描写は、現実についての「現実的な必然性」(p.145)という描写と、とても似ている。過去と現実は必然性・確定性を介して結びつく。これは、運命論が、確定した過去を必然的な現実として受け止めるところから始まっていることからしても、常識的な捉え方と言えるだろう。

また、常識的な捉え方から進み、「ある、なる」において行われている「純化」とでも言うべき独自の操作を経ても、過去と現実は結びつけることができる。(今後、「純化」という言葉を何度か使うが、「ある、なる」において「純化」という言葉は使っておらず、純化そのものは語りえないということにこそ重要性がある。)
「ある、なる」において、「現実」は、一旦は「現実的な必然性」とされるが、これは「様相の潰れ」へと繋がる中途状態であり、ついには、絶対現実に至る。
「過去」についても、第17章において、想起過去、想起逸脱過去、想起阻却過去と深められていく。そして、ついには、「特定の記述を失い、「∅だった」のような内容を持たない過去」(p.213)としての想起阻却過去に至る。
「ある、なる」における純化を経た、現実と過去、つまり、絶対現実と想起阻却過去は、とても似ている。絶対現実は現実であり、想起阻却過去は過去である、ということを除き、内包・内容に違いはない。なぜなら、いずれも無内包、無内容だからだ。
更に言うならば、絶対現実は無内包なのだから「現実である。」という内包はなく、想起阻却過去も、特定の記述を失っているのだから、「過去だった。」という内容を持たない。
よって、語りうる限りでは、「現実である。」という内包を持たない無内包の絶対現実と、「過去だった。」という内容を持たない想起阻却過去とは、見分けがつかないとさえ言えるはずだ。

ここでは、想起阻却過去と絶対現実が同じものを指すとまでは言わない。しかし、純化され、言語によっては違いを捉えられないほど一体化した過去と現実は、いずれも、ベタの神の二つの側面であるとまでは言えるだろう。

3-3 ベタの神とスカの神の正体
スカの神の三つの側面である排中律、未来、現在は、いずれも「言語的な装置が創り出す言語的な仮想」なのだから、スカの神の正体は言語だとすることに異論はないだろう。
一方、ベタの神の正体は、「ある、なる」の「なる」の時間的な議論を経たものとしての「絶対現実」だと位置付けることにも、大きな異論はないだろう。
しかし、私は、すぐには、ベタの神とスカの神の拮抗を、「絶対現実」と「言語」の拮抗と単純化したくはない。
第24章では様々な<中間>が挙げられている。もし、全ての<中間>の根本に、「絶対現実」と「言語」の<中間>があり、他の<中間>は、そこから派生しているということであれば、様々な<中間>を根本と派生というように構造化し、単純化して描き出すことができるかもしれない。しかし、少なくとも、「ある、なる」ではそのような語り方はしていない。
最終的には、そのように結論付けられるのかもしれないが、ここには、もう少し踏みとどまって考えるべきことがあるように思われる。

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