「あるようにあり、なるようになる 運命論の運命」を読んで~「なるようにある」の考察~ 4 派生的疑問

4 派生的疑問
4-1 因果の充満の特別さ
まず、本題に入る前に、ベタの神についての「時間的な議論を経たものとしての「絶対現実」」という述べ方の問題点について触れておきたい。
正直、この述べ方は、「ある、なる」のうち「ある」に偏りすぎていると思う。また、「ある」に偏っているがゆえに、「ある」、つまり、「存在」と同一視してしまう危険性も孕んでいる。この「ある、なる」の議論が、言語と存在という、どこか手垢が付いた切り口が繰り返されているだけと受け止められてしまう危惧があるのだ。
だから、私は、あくまでも「「なる」という時間的な議論を経たものとしての「絶対現実」」だということを強調しておきたい。「ある、なる」の議論は、この時間的な議論を経たところに魅力がある。本当は「絶対現実」より、もっと言い方があればいいのだが、「ある、なる」には残念ながら見当たらないし、私も思いつかない。

「ある」への偏りとして特に気になるのが、時間的な議論のなかでも、特に、第22章の因果の充満という議論が、この「絶対現実」という用語では捉えられないという点だ。
この問題意識は、この文章の冒頭で派生的な疑問として挙げた「この本では因果の充満とは、因果的運命論の限界として扱われているが、それ以上の特別な意味があるのではないか。」という疑問につながる。

因果の充満とは、「全ての原因・結果が、全面的に肯定であり、そこに否定や欠如が入り込む隙間は全く無いことになる。」(p.275)という、いわば、因果関係において、「ある」を極大化した捉え方である。
そして、常識的な「ある」から遠く離れ、因果の充満をイメージするためには「一つの媒質内で波動が伝播するイメージ」がよく、「もう「二つの別個の物事のあいだの関係」とは言えなくなってしまう」というところまで至る。そのような描写からは、大河のような「一つの媒質」の大きな流れのようなイメージが浮かび上がってくる。
この「一つの媒質」には、当然、外はない。なぜなら、全てが充満し、その関係性が全てを一つの流れに取り込んでいるのだから。
そのように考えるなら、この大きな流れとは、「絶対現実」の流れそのものと言ってよいだろう。
因果の充満という議論には、このような方向性で、現実と時間を捉える力があるのではないだろうか。

充満した大河の流れのイメージを経るならば、私は、「絶対現実」とは、無内包と言うより、内包の完全な充満と言ったほうがいいと思う。完全に充満しているからこそ、そこに内包として指示すべき個別の何かなど無いのだ。そのような意味では完全な充満を無内包と言うことは間違いではないのだが。
「ある、なる」でも「現実それ自体は完全に充実している」(p.63)という捉え方がされているので、重点の置き方の違いなのだろうが、ここでは、「無内包」より、「充満」をイメージしたほうがよい場面があるということを指摘しておきたい。

そして、更に続けるならば、その充満は、静的な充満ではなく、動的な流れとしての充満だということに留意しなければならない。草木が成長したり、椅子に座っていた人が椅子から立ったり、毛布に潜り込んでいたネコが毛布から這い出して毛布の上に座ったりといった変化も含んだものとしての充満なのだ。
そこには、「ある、なる」で行った「時制的な視点移動という<関与・操作>」(p.301)から透かし見て、「時間推移」を捉えようとしたのとは違う、もう一つの「時間推移」を捉える道筋があるように思える。「ある、なる」においては、「時制的な視点移動という<関与・操作>」の働きを純化していくことにより、時間原理Ⅰと時間原理Ⅱのシーソー関係を見出し、そこに時制区分と対になるものとしての純化された時間推移が提示されていた。
しかし、「時間推移」というものを捉えるには、そのような作業だけでは足りず、この純化の作業を駆動させるものとしての、「大河の流れのようだ」というイメージが必要なのではないだろうか。(ただし、後述するように、イメージによる把握という道筋は述べ方として不徹底である。)
このイメージによる把握の適否は別にして、ベタの神を「絶対現実」と呼ぶならば、「充満」した「時間推移」という側面を含んだうえでの「絶対現実」という捉え方を忘れないことが、最低限必要だろう。

4-2 様々な<中間>
次に、冒頭で列記した派生的疑問のひとつである「第24章で<中間>が数多く出てくるが、こんなにたくさんの<中間>を同じ言葉でまとめて表現してよいのか。」という疑問について、第24章を細かく読み解きつつ考えてみたい。
当然、これは、「様々な<中間>の根本に「絶対現実」と「言語」の<中間>がある。」と言えるなら、全てを「絶対現実」と「言語」の拮抗として構造化し、単純化することができるのではないか、という期待も込めての作業となる。

4-2-1 排中律の<中間>
まず、第24章の冒頭では、排中律の<中間>について語られる。
ここでは、二つ性と一つ性の<中間>などが挙げられるが、「排中律は言語と現実の<中間>で働く。」(p.296)とあるとおり、その<中間>の根源には、言語と現実の<中間>があると言ってよいだろう。
「ある、なる」において、排中律は、純化のためのろ過装置として働いている。
現実と言語が混在している沼に、排中律という装置を設置し、純化した現実を取り出そうとする。また、スイッチを切り替え、同じ沼から、純化した言語を取り出そうとする。
だから、排中律は、ときには現実と対立するフィルターのように振る舞い、ときには言語と対立するフィルターのように振る舞う。
そして、ろ過の働きはどこまでも<中間>的だから、排中律は、ろ過の過程において、一つ性、二つ性といった様々な形を見せることになる。
だから、「ある、なる」を読んでいると、文脈のなかで排中律という語が、「現実」寄りなのか、「言語」寄りなのか、その位置づけがよくわからなくなることがある。この文章でも、排中律を言語に寄ったものとして使っている場面が多いが本来、あくまで<中間>なのである。
しかしそれは、入不二の表現がまずいのではなく、私の理解がまずいわけでもない(と思う)。
現実から言語を取り除き、絶対現実として純化しようとする場面では、ろ過されるものである言語自体に言及することはできないから、フィルターである排中律について言及せざるを得ないという、やむを得なさがある。(ろ過の過程では「言語」という語も使われているが、それはあくまで、純化されていない「言語」だ。)
もし、言語というものを直接的に触れて操作することができるなら、ろ過作業にあたって、排中律というフィルターは必要ない。直接触れることができないからこそ、フィルターを使っているのだ。
そこには、「言語」という語を使わず、ろ過される対象である「現実」という語と、ろ過装置である「排中律」という語のみを使って、現実と言語の拮抗を描かなければならない、という表現の難しさがある。

4-2-2 <中間>の<中間>・現実A
引き続き、第24章では、「「中間」も「端」も<中間>」(p.296)であるということが述べられている。
これは、先ほどの、ろ過装置の例えと重なる。
ろ過される対象である、現実、言語には直接触れることはできない。フィルターを通じて、どこまでも<中間>的なろ過の作業のなかで、<中間>的にしか言及できないということが、ここで述べられていると言ってよいだろう。

次に、相対現実、様相との関係で、<中間>について触れられている。
まず、絶対現実と相対現実の<中間>とは、「一つ性と二つ性の中間」(p.298)という文脈のなかで登場していることからしても、先ほどの排中律と同様に、現実と言語の<中間>に含まれるものと捉えることで問題ないだろう。
ここで留意しておきたいのは、この<中間>が、「特定の内容を持つこの現実-現実A-は、絶対現実と相対現実の<中間>である」(p.298)というように登場していることだ。
排中律によりろ過し、純化していたのは、「この現実-現実A-」だったのだ。つまり、言語と現実の混合物である現実Aをろ過し、純粋な言語と、純粋な現実(絶対現実)を取り出そうという試みが、「ある、なる」のうち「ある」の議論だったということになる。
このように<中間>という言葉は、現実Aというろ過される対象、排中律というろ過装置そのもの、<中間>的なろ過装置の働き方、といったいくつかの意味を込めて用いられている。

様相の議論においても、<中間>は様々な場面で現れている。ここでは、「もっとも基礎的な<中間性>は、無様相と様相の<中間>性であり」(p.300)とされている。
ここで言われる無様相とは無様相の絶対現実のことであり、そもそも、様相の議論は、相対現実と絶対現実の<中間>性の話から出発していることからしても、様相の議論における<中間>は、相対現実と絶対現実の<中間>と同様に、現実と言語の<中間>に含まれると考えてよいだろう。
ここで、特に着目すべきは、この様相の議論においては、様々な<中間>が現れており、まさに<中間>はどこまでも<中間>であるということが見事に描かれているということだ。
また、排中律に加えて、「様相」と「様相の潰れ」もまた、ろ過装置となっていることにも留意しておくべきだろう。「様相の潰れ」が、まだ議論が<中間>に留まっていることを示す、リトマス試験紙のような働きをしつつ、様相という議論の構造を通じてろ過作業を前進させている。

4-2-3 時間推移と時制区分の<中間>
ここから、第24章の<中間>にまつわる議論は、「なる」の時間の土俵へと移っていく。
まず、「時間は、時間推移と時制区分の<中間>で働く。」(p.301)とされる。
ここでの議論は、先ほどの「ある」の議論と同様に、「この時間推移-時間推移A-」をろ過し、純粋な時間推移と、純粋な時制区分とを取り出そうとする方向にあると言ってよいだろう。
この場合のろ過装置は、時間原理Ⅰと時間原理Ⅱだ。
時間原理Ⅰと時間原理Ⅱの<中間>をフィルターとして、時間推移Aを純粋な時間推移と時制区分とに純化しようとする。この<中間>は、「ある」の議論の場合と同様に、「中間」も「端」も<中間>というかたちで重層的に働く。だから、<中間>は、時間原理Ⅰと時間原理Ⅱの間で働くだけでなく、時間原理Ⅰのなかでも働き、時間原理Ⅱの内側の、未来、過去、現在のそれぞれの時制区分のなかでも働く。

なお、純粋な時間推移と時制区分との<中間>とは、「なる」の時間的な議論を経たうえでの、現実と言語の<中間>のことだと言ってよい。
どうしてそう言えるのかといえば、まず、時制区分は「時制という言語的な装置」(p.196)とされていることからも、時制区分とは言語のことである、ということは言ってよいだろう。
ただ、ここで、言語「的」とされているとおり、通常の意味での時制区分は言語そのものではない。あくまで、「ある、なる」の議論を経て純化された時制区分と言語とが重なる。
一方、時間推移は因果の充満について述べた際に既に登場している。そのときの議論を振り返るなら、時間推移とは「充満」した「時間推移」という側面を含んだうえでの「絶対現実」のことだと言ってよいだろう。
以上を踏まえ、現実と時間推移を結合し、言語と時制区分とを結合して扱うことができるということになる。これが、「ある、なる」における、最も簡素な、「ある」の現実論と「なる」の時間論の接続の描写となるだろう。

4-2-4 未来、過去、現在の各時制における<中間>
そして、第24章は、未来、過去、現在という時制ごとの描写へと移る。
現実(時間推移)と言語(時制区分)の拮抗は、未来においては、言語(時制区分)が優勢である。言語が優勢だからこそ、「言語(時制)によるベタな現実への反逆」(p.302)である「未来の「無」」が立ち上がる。しかし、あくまで、優勢に過ぎないから、反逆は完遂されない。
一方、過去においては、現実(時間推移)と言語(時制区分)では、現実(時間推移)が優勢である。現実が優勢だからこそ、想起阻却過去という究極の無関係である何らかの現実を垣間見ることができる。しかし、あくまで、優勢に過ぎないから、阻却も完遂されない。
そのような拮抗、つまり<中間>性が、未来、過去においても見いだされる。
最後に、現在における現実(時間推移)と言語(時制区分)の拮抗についても描かれるが、現在における<中間>については、明らかに未来や過去に比べて複雑なものとして描かれている。これを紐解くには、章を改めたほうがいいので、ここでは分析しないことにする。
(その後も第24章は、因果における<中間>、思考の<中間>へと考察が進んでいくが、この部分は第25章以降と結びつけて扱ったほうがいいと思われるので、この文章では扱わない。)

このように第24章の流れを再確認した結果、当初の目論見どおり、様々な<中間>の根本には、現実(時間推移)と言語(時制区分)の<中間>がある、というように整理することができた。これは全てを「絶対現実」と「言語」の拮抗として構造化し、単純化する目処がついたということであり、私の理解のためには重要な成果だ。
しかし、第24章全てを使って「ある、なる」が述べているように、この<中間>は、重層的な中間である。例えば、様相の議論において様々な<中間>が見出されたことで鮮やかに示されているように、<中間>の<中間>と言ってもよい拮抗に満ちているということが同じくらい重要だ。

4-3 「現に」という副詞
この現実と言語の<中間>は、「ある、なる」やこの私の文章が伝えようとしている現実性にまつわる問題について、文章で伝えられないということと、なぜか現に伝えられているということとの<中間>でもある。
これは、「ある、なる」でも、現実の感覚の問題について、ケーキの例えを用いて、「現に生じている感覚ではなく、生じうる感覚を持ち出すことによって、概念(観念)との差をつけている。」(p.72)としている問題のことである。この問題について「ある、なる」では、「「現実」は、「現に腰の痛みを感じる」~のように、体験内容の外側から副詞的に付加されるしかない。」(p.73)と副詞的に付加するということで、解決しようとしているが、この「ある、なる」の文脈ではそれでよいとしても、本当はそれでは済まない。
なぜなら、いくら「現に」という言葉を足しても、文章に書かれた言葉は現実ではないのだから、現実に届かないからだ。
「現に腰が痛い」「現に椅子に座っている」「現に雨が降っている」と言っても、現に腰が痛くなく、椅子に座っておらず、雨が降っていなければ、現に腰が痛く、椅子に座っており、雨が降っているということはない。もしかしたら、たまたま、腰が痛かったり、椅子に座っていたり、雨が降ったりしているかもしれないが、それは、そのような文章を読んでも読まなくても、そうであるはずで、文章の表現とは全く関係ない。
そのような意味で、現実性を文章で伝えることは不可能である。
しかし、一方で、現実性を文章で伝えることは、とても容易にできているとも言える。「現に腰が痛い」と書かれていれば、現に腰が痛くなくても、そこで伝えようとしている現実性について理解できる。そうでなければ、「ある、なる」やこの文章を理解することなんてできないはずだ。
また、現実性をきちんと伝えようとする配慮や技術なんてなくても、現実性は伝えられるとさえ言える。小学生の作文で「夏休みにおばあちゃんちに泊まった。」とあれば、「現に」という副詞なんてなくても、現実と理解できる。更には、全ての記述は、現実性が付与されているとも言える。どんな荒唐無稽なSFでも、抽象的な表現にあふれた詩でも、それを理解できるならば、そこには現実性が付与されているはずだ。そう考えると、「現に」という副詞は、何も付与していないとさえ言える。
このように、現実と言語の<中間>は、「現実性は文章で全く伝えることができない」と「現実性は文章で完全に伝えられるし、また、全ての文章に現実性は必ず付与されている。」の<中間>であるというかたちでも現れる。その<中間>に「現に」という副詞の付加があるということになる。

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