私の独我論 1私の独我論

1-1独我論者

それでは本題に入ることにする。この文章は、哲学のうち、特に独我論の分野について語ったものだ。なぜ独我論かというと、私は多分、子供の頃から独我論者だからだ。

というと、「所詮この世界は夢だと思って生きている人」だと思われるかもしれないが、そうではない。あえて、世界、夢という言葉を使うならば、私は「この世界は夢だ」であっても「この世界は夢ではない」であっても、何かを断言すること自体に疑問を持っている。より正確に言うと、「断言する」ということが、どういうことなのかもわからないし、そもそも、「わからない」ということが何を指すのかもわからない。私は、この世界が夢ではないと断言するところから始まる色々な主張、例えば、自然科学についての主張が当たり前のものとして取り扱われることに疑問を持っている。私の独我論はそういう疑問に満ちている。

しかし、私は全てを疑問に付すことができ、確かなことが何もないと思っている訳ではない。全てが疑わしいと言って済ませることができない。そこには、疑問に付されない「何か」があると思っている。だから、いわゆる懐疑論者ではない。

そこで私は考える。私があると思っている「何か」とは何なのだろうか。独我論者ならば、「何か」とは「私」ということになるのだろうけれど、私は、そもそも何かを断言すること自体に疑問を持っている。私は「私」があると断言することに疑問を持っている。だから、正確には、私は、文字どおりの独我論者ではないのだろう。それならば、その、疑問に付されない「何か」を、私自身の哲学において、現時点で、どこまで明らかにできているのだろうか。そんなことを整理してみたい。

1-2三種類の独我論

私が知っている独我論は三種類ある。哲学史的に言えば、まずデカルト的な認識論的独我論、次にウィトゲンシュタイン的な意味論的独我論、そして永井的な存在論的独我論がある。

ただ私が知った順番でいくと、デカルト的な認識論的独我論、永井的な存在論的独我論、ウィトゲンシュタイン的な意味論的独我論となる。だから「私があると思っている何か」として、私が最初に出会った答えは、デカルト的な「私」だ。

確か高校生の頃だと思うが、私は先ほど述べたようなことをぼんやり考えるようになった。つまり、私にとっての哲学的疑問について考えるようになった。そして「我思う故に我あり」という言葉を何かの機会で知り、ああこれか、と思った。そのとき感じたのは、他にも同じようなことを考えている人がいてよかった、という安堵だった。そのような経緯があるので、私は世間的には独我論者なのだろうな、と思っている。

しかし、安堵を感じたのは少しの間だけで、更に考えると、デカルトが言うことはなんだか怪しいと思うようになった。なぜ、「我」「思う」「故に」「我」「あり」という言葉が成立していると言えるのだろう、また、仮に「我思う故に我あり」という言葉が成立しているとして、その言葉がなぜ「正しい」と言えるのだろう。そんな疑問を持った。

そして、どうも「正しい」ということは底が抜けていて、「正しい」ことの正しさを言うためには、「正しさ」の「正しさ」を言わなければならない、というように、底なし沼のような構造になっているらしいことに気付いた。つまり「我思う故に我あり」は正しくはないと思ったのだ。(哲学的には、「正しい」より「真である」のほうが多分正確なのだろうけれど、私の当時の問題意識は、どのような生き方が正しいのか、という道徳的な側面が強かったので、当時思った「正しい」という言葉のままにする。)

その後、デカルト以降の哲学者が答えを知っているかもしれないと思い、何冊か哲学者のカタログのような本を眺めてみたところ、世の哲学者は、どうも私の疑問に答えを出せていないらしいことを知った。そして哲学は役に立たないと思い、哲学から離れた。私は当時、底なし沼の底を埋めるためには、宗教的に無条件で底を「信じる」しかないと思ったのだ。

10年以上経ち、また違う角度から哲学に興味を持ち、次に出会い、なるほどと思ったアイディアが、永井の<私>の独在論だった。

実は当初、永井の哲学は、私の心をあまり捉えなかった。最初に何の本を読んだのかは覚えていないが、永井の語り方は魅力的だった一方で、永井の語る内容は、私の疑問と一致しているとは思えなかったのだ。私としては、永井が言っていることはわかるけれど、それよりも、そもそも永井が書いた文章がなぜ成立しているか、のほうが疑問だった。つまり、永井の文章についても、デカルトの「我思う故に我あり」への疑問と同じような疑問を感じ、そこから抜け出ることはできなかったのだ。振り返ってみると多分、私の疑問は意味論的な色彩が強かったのだと思う。

最後に出会ったのが、ウィトゲンシュタインの独我論、正確には、入不二基義が「ウィトゲンシュタイン」で解説しているウィトゲンシュタインの独我論だ。これは、私の疑問にぴったり一致した。そのなかでも特に私が共感したのは、論理哲学論考における独我論だ。私が思っていたのはこれだと思った。と言っても当然、私は独自に写像のような概念を生み出していたという訳ではない。私が感じていたことを表現するためには、少なくともこれだけの道具立てが必要だということを知り、そして、うまく表現できていると思ったのだ。

しかし、ここで私の疑問が解消したならよかったのだけれど、残念ながら、論理哲学論考には誤りがあるらしい。だから、ウィトゲンシュタイン自身も言語ゲーム論によって、その誤りを乗り越えようと試みたらしい。また、今ならば、永井の独在論やデカルト的なアプローチにも、論理哲学論考を超えた側面があるということもわかる。とにかく、論理哲学論考的な道筋の先には解決すべき問題が残っていることは確かだ。私の疑問はまだ解決できていない。この続きについては、私自身で考えなければならないようだ。(また、それでも揺らがない論理哲学論考の独我論の特別さについて、そんな気分にさせられるのは何故なのかも考えてみる必要がありそうだ。)

1-3意味論的独我論

整理にあたっては、まず、認識論的独我論、存在論的独我論、意味論的独我論という三つの独我論について、私にとっての位置づけを明確にしておく必要がある。

話の都合上、まず意味論的独我論から始めることにしよう。先ほど挙げた入不二の「ウィトゲンシュタイン」によれば、ウィトゲンシュタインは前期、中期、後期において、それぞれの独我論を述べているとされる。それらはいずれも意味論的独我論の典型だと言えよう。この文章では、そのうちの前期の論理哲学論考の独我論と、後期の言語ゲーム論の独我論に着目することにする。

前者については、論理哲学論考が言語の限界を明らかにするものであり、そのような意味で意味論的独我論であることは、説明の必要もないと思われるので説明は省略する。しかし、後者、つまり言語ゲームが意味論的独我論にあたるということについては、私なりの解釈も入ってくるので説明が必要かもしれない。

私は、言語ゲーム論も言語の限界を明らかにしたものだと解釈している。ただし、そのように解釈するためには、論理哲学論考的に言えば、言語ゲーム論が言語の限界を有意味に述べることができなければならない。そのためには、論理哲学論考で指摘された、言語の内と外を知らなければならないという問題をクリアする必要がある。それでは言語ゲーム論において言語の外をどのように知ることができるのだろうか。

まず一見して、言語ゲーム論において言語の外を見出すことはかなり難しそうだ。なぜなら、言語ゲーム論とは、要は全て言語だ、というものだからだ。言語ゲーム論自身も言語ゲームにおいて語られており、言語ゲームの外に出ることはできない。今、私が書いている、この文章も、言語ゲームのなかで行われる営みであり、言語の限界には届かない。この文章において幾ら言葉を継いでも、その言葉を継ぐこと自体が言語の中に留まらざるを得ず、言語の限界に届いていないということを実践的に示している。

言語ゲーム論は、論理哲学論考より言語の力の捉え方が徹底しており、論理哲学論考で行うことができた、思考による言語の外の把握ができない。なぜなら、思考とは、その足跡がこのように文章で記録できる限り、言語そのものであり、言語ゲームだからだ。論理哲学論考においては言語の外にあるとされた無意味な記号列であっても、それが思考のなかで用いられる限り言語ゲームに取り込まれてしまうことになる。(これが、ウィトゲンシュタインの私的言語論なのだと私は理解している。)

しかし私は、言語ゲーム内にはないことを一つだけ知っている。それは「言語ゲームが存在している」ということだ。言語ゲームつまり言語の外に、言語の存在はある。私はこの、何故か知っている「言語の存在」という言語の外と対比するかたちで、言語の限界を知ることができる。

しかし、「言語の存在」という言語外のものと対比することで言語の限界を指し示そうとして語り始めると、どうもうまく説明できない。なぜなら、説明するという行為が、すでに言語のなかにあるからだ。言語の限界の外に「言語の存在」がある。しかし、それは言語では語りえない。

「言語の存在」を言語の限界の外にある語りえないものとして切り捨てることで、言語ゲーム論は意味論的独我論として成立する。私にとっての意味論的独我論は、このように説明することができる。

なお、「言語の存在」は語りえないのだから、「言語の存在」と呼ぶことが適切かどうかもわからない。現に、これを永井は「<私>の存在」と捉えている。そう私は理解している。そのことについては、次の存在論的独我論で論ずることにしたい。

1-4存在論的独我論

それでは、次に、永井の<私>の独在論に代表される存在論的独我論に移ることにする。

先ほど言ったように、当初から私は、永井の<私>をめぐる議論が正しいとは思えなかった。その理由は、まず第一に、先ほどの<私>という言葉についての意味論的な疑問、つまり、<私>という言葉は何を指すのか、<私>という言葉が何かを指すとはどういうことなのか、といったについての答えがなかったからだ。

なお、後日気づいたが、正確には、永井はこの疑問について論じている。私は永井の本の全てを読んでいないし覚えていないが、例えば「転校生とブラックジャック」第一章において、悪霊の懐疑を意味論的に行う部分がそうだ。そこでは、デカルトの悪霊の懐疑を拡張し、「いる」「間違い」という言葉さえ、悪霊が欺いているかもしれないと疑う。それならば、「<私>」という言葉の成立だって疑うことができるのではないか、そのような疑問を提起している。しかし、その答えは永井の哲学のなかにはない。とにかく、当初、私が感じていたのは、永井が論じているほどに明確に捉えられてはいなかったけれど、こんな疑問だった。

しかし、先ほどの意味論的独我論の議論を経たうえであれば、永井が言っていることの正しさがなんとなくわかる。意味論的な議論とは別に、「言語ゲーム」だか「私」だかはともかく、何にせよ、「言語の存在」にあたる何かが存在しなければならない。「私」という言葉が余分かもしれないけれど、その限定なしであれば、とにかく、永井がいうとおり「存在」は必要なのだ。

永井も、近年の文章によれば「<私>」のうちの「私」ではなく「< >」について着目しており、何らかの「存在」が必要という私の考えに、より近づいているようだ。(というか永井先生の影響を受けて、私が近づいているだけかもしれないけれど。)しかし、永井は、「< >」が付くのは、「<私>」「<今>」のような特定のものだけだとしており、限定がないという私の理解とは、まだ違いがある。

私の考えは、入不二の絶対現実、無内包という用語によるほうが、より正確に表現できるだろう。少なくとも、存在というものを「言語の存在」として捉えるならば、「< >」で囲まれるのは、世の言語で表現されるもの全てでなければならない。だから、<ペットボトル>でもなければならない。この無限定さが入不二の絶対現実、無内包につながる。つまり、何かが存在するのではなく、「何でもない」が無内包に存在するのである。まさに存在のお化けが、ただ存在するのである。だから、先ほどの意味論的な悪霊の懐疑も届かない。なぜなら、騙すべき内容がそこにはないからだ。

これが、私が理解している存在論的独我論である。

なお、永井の論の進め方には、もう一つ正しいと思えない理由があった。

永井は、<私>の独在性を説明するうえで、他者と比較した<私>の特別さを強調する。何人もの人間がいる、いわば常識的な世界において、そのなかの一人が何故か<私>であることの不思議さを疑問の出発点としている。

しかし、私は、永井がなぜ、何人もの人間がいることを前提にできるのか疑問だった。そんなことは、デカルト的な認識論的懐疑によれば、前提にできる訳がないのではないか。この世は私が見ている夢かもしれないのに、どうして、実は人間ですらないかもしれない私の夢の登場人物と私とを比べて、私にだけ独在性がある、などという話をしなければならないのだろうか。他者との比較を経ないと<私>というものを述べられないというのは、論じ方として不徹底ではないか。そんな疑問を感じたのだ。

この疑問は、<私>から、永井の「< >」、入不二の絶対現実、無内包へと拡張され、「私」という語に囚われなくなっても拭うことはできない。存在論的独我論を説明するためには、どうしても余計な操作を加えなければならない。それは、入不二の無内包であっても同じだ。一旦、<ペットボトル>というような内包を認めたうえで、それを除去するかたちでしか、入不二にとっての「< >」つまり無内包を述べることはできない。

そこには、意味論的独我論や存在論的独我論に留まらない問題、つまり認識論的独我論の分野に含まれる問題があると、私は考えている。

1-5認識論的独我論

それでは、最後に残った認識論的独我論に移ることとしよう。

私にとっての認識論的独我論は、デカルトの夢の懐疑を踏み台にし、夢の懐疑の拒否を経て成立する。今、目の前にペットボトルがあると思っているが、これは夢であり、実はそこにはペットボトルはないかもしれない。しかし、私が目の前にペットボトルがあると思っていることだけは疑うことができない。確かなのは、私が目の前にペットボトルがあると思っていることだけである。このように、私にとっての認識論的独我論を素描することができる。

ここで注意しておきたいが、これは、デカルトの「我思う故に我あり」ではない。デカルトは夢の懐疑を認め、更に悪霊の懐疑を持ち込み、目の前にペットボトルがあると思っていることも、悪霊が騙しているかもしれないと疑う。そして、私が疑っているということだけは疑い得ない、という結論に至る。これがデカルトの「我思う故に我あり」だ。しかし私は、その懐疑の成立を認めない。

夢の懐疑の否定を経て成立する私の認識論的独我論は、要は「実は違った」という別の視点からの判断の拒否である。デカルトは、「実は違った」という視点のずらしを認め、その視点のずらしの遂行を行う主体としての私だけは疑い得ないとする。ここにデカルトの不徹底さがあると考える。

どういうことかというと、デカルトの論が成立するためには、一旦認識が成立し、更に、その認識の「ずらし」が成立しなければならない。つまり二つの出来事が成立しなければならない。認識というものについて、一旦成立した後はずらすことができるものとして導入することは、無根拠であり議論として不徹底である。

それに比べ、私の認識論的独我論によれば、ペットボトルがあると思う、という認識があるだけである。そこには「実は違った」という更なる出来事が成立する余地はない。

悪霊の懐疑であっても同じである。悪霊の懐疑に付される以前の、ただ一つの視点だけがあり、その視点によれば、ペットボトルがあると思っている、ということは疑うことができない。というか、複数の視点というものはなく、「どの視点によれば」という限定は無意味である。よって「実は、悪霊に騙されていただけで、ペットボトルがあると思っていなかった。」という別の視点が成立する余地はない。

これが私の認識論的独我論である。

なお、先ほどの話で出てきた入不二の無内包という語を踏まえるならば、このペットボトルとは具体的な内包のことだと言い換えることができよう。よって、私の認識論的独我論をキャッチコピー的に示すならば、「私が認識する具体的な内包があることだけは確かだ。」ということになる。

なお、このキャッチコピーの「私」は余計である。なぜなら、「私」という限定を付するのは、「私」ではない「他者」を想定するからだが、そもそも「他者」というものを想定する必要はないからだ。

夢の懐疑は私についての疑いである。もし、他者について疑うならば、それはロボットの懐疑となってしまう。

ロボットの懐疑は他人というものが存在することを前提としている時点で、夢の懐疑よりも浅い。夢の懐疑は、他人が他人というものとして存在すること自体を疑っている。夢の懐疑によれば、他人なんて、夢から覚めれば実はペットボトルかもしれない。ペットボトルかもしれないものにロボットの懐疑は生じない。だから夢の懐疑に加え、ロボットの懐疑を持ち出し、他者というものを考慮に入れる必要はない。

ここまでの三つの独我論についての議論をまとめると、意味論的独我論のキーワードは「言語」であり、存在論的独我論のキーワードが「存在」であるならば、認識論的独我論におけるキーワードは「内包の認識」である。「認識」と更に縮めてもいいのだが、デカルトのコギトと異なり、そこに具体的な内包についての認識という意味合いが入っていることを明確にするため、「内包の認識」としておいたほうがよいだろう。

1-6脱線・伏線:独我論という用語

ここまで列挙した独我論は、いわゆる独我論なのだろうか、という疑問があるかもしれない。独我論とは、言葉のとおり「私だけだ」という論だが、ここまでの議論において、私というものはさほど着目されていない。

しかし、これまで、それぞれの論において、「それしかない。だから私という語を使う意義はない。」という独特のやり方で「私」を消去してきたことに着目してみよう。これは「私を登場させる必要がないほどに私に満ちている。」ということだとも言える。そのような構造を独我論と呼ぶことはできるのではないか。

または、独我論という言葉にこだわらなくてもいいとも言える。多分、私が重視しているのは、「私」ということではなく「一つ」ということである。一元論と言ってもいいかもしれない。その場合、「意味論的独我論」は「意味一元論」、「存在論的独我論」は「存在一元論」、「認識論的独我論」は「認識一元論」となるだろう。そのほうが理解しやすければ、そのような言い換えで読み進めて頂いてもいい。

しかし、私は、そのような一元論の用法があるのはどうかは知らないし、そもそも、独我論的な疑問から、この議論が始まっているということを尊重して、これまで通りの言い方を続けることにする。

とにかく、私の理解、興味は、「私」を離れて、こんなところにあるようだ。

1-7認識論的独我論の先行性

認識論的独我論とは、夢の懐疑の拒否を経て成立する「内包の認識」しかない、という立場である。

ここで、存在論的独我論について述べる際に触れた話、「存在論的独我論を説明するためには、どうしても、余計な操作を加えなければならない」という話を思い出して頂きたい。入不二の無内包であっても、一旦、<ペットボトル>というような内包を認めたうえで、それを除去するかたちでしか、入不二にとっての「< >」つまり無内包を述べることはできない、という話だ。

ここに、存在論的独我論と認識論的独我論を比較した場合の認識論的独我論の先行性がある。まずは、ペットボトルのような具体的な内包の認識があるとする認識論的独我論がある。そこから、ペットボトルという内包を除去することにより、無内包の存在論的独我論にたどり着く。内包の除去という操作が、存在論的独我論を語るためには必要となる。つまり、認識論的独我論は存在論的独我論に先行する。

また、認識論的独我論は、意味論的独我論にも先行する。

意味論的独我論を説明するためには、まず、言葉というものを説明しなければならない。一旦、抽象的な言葉が導入された後であれば、例示としての「ペットボトル」といったような具体的な言葉のあり方、使われ方については意味論的に説明できるだろう。しかし、まず「ペットボトル」といった具体例を導入しなければ、抽象的な言葉というもの自体を説明できない。意味論的独我論というもの自体を説明し、論じる前に、まず、具体例としてのペットボトルというものを知っていなければならない。つまり、ここまで出てきたキーワードを使うならば、ペットボトルの具体的な「内包の認識」を獲得していなければならない。このような意味で、言語ゲーム的な意味論的独我論の前提として、具体的な内包の認識があるという認識論的独我論が成立していなくてはならない。つまり、認識論的独我論は意味論的独我論に先行する。

これは、言語の学習の場面における、言語に対する内包の認識の先行性だと言ってもいいだろう。子供は、言語という一般概念を生まれつき知っているのではなく、「ペットボトル」などといった個別具体的な内包の認識を経て、言語を学んでいく。

この、存在論的独我論、意味論的独我論に対する、認識論的独我論の先行性は、永井の「なぜ意識は実在しないのか」における第一次内包の先行性と対応する。具体的には、第一次内包=認識論的独我論、第二次内包=意味論的独我論、第ゼロ次内包=存在論的独我論というような対応関係にある。

また、この対応関係については、単なる対応ではなく、拡張であるとも言えよう。「なぜ意識は実在しないのか」における内包についての議論は、この独我論の文脈においては、世界の捉え方そのものに拡張される。なぜなら、認識論的独我論においては、内包の認識こそが世界そのものだからである。

1-8逆襲などなど

このように、認識論的独我論が先行したうえではあるが、一旦、三種類の独我論が語られて成立した後は、それぞれの独我論は対等に緊密なネットワークにより結び付けられる。その一端は、先ほどの認識論的独我論の先行性として述べたし、また、意味論的独我論、存在論的独我論、認識論的独我論と、関連性を持たせながら、場面を移しつつ、それぞれの独我論を説明する際にも既に触れている。

ここで、これまでに述べた三種類の独我論の関係性について整理しておこう。

認識論>意味論:言語に対する認識の先行性、言語の学習

( > は認識論的独我論の意味論的独我論に対する優位性を意味する)

認識論>存在論:内包の除去による無内包の存在の把握

存在論>意味論:言語外にある言語の存在

存在論>認識論:(未言及)

意味論>存在論:(未言及)

意味論>認識論:(未言及)

というようにまとめることができるだろう。

ここで、埋められていない欄を埋めておくことにしよう。

まず、認識論的独我論、存在論的独我論に対する意味論的独我論の優位性(意味論>存在論、意味論>認識論)についてだが、これは、言語のある種絶対的な力、つまり、認識論的独我論、存在論的独我論も含めたすべての言明は、例外なく言語的に行われるということに尽きるだろう。永井の<私>の独在論も、デカルトのコギトも、私の認識論的独我論も、言語ゲームだ、ということだ。これについては更なる説明は省略させて頂く。

つまり、

意味論>認識論:認識論的独我論の言語による言明

意味論>存在論:存在論的独我論の言語による言明

となる。

あと残るのは、存在論的独我論の認識論的独我論に対する優位性(存在論>認識論)だが、これについてはもう少し丁寧に話を進めることにしよう。

この優位性は、「内包の認識が存在するということは、認識論的独我論からは導かれない。」という点に現れる。内包の認識が「存在する」ということに言及するならば、その言及は、存在論的に行われなければならない。これは、存在論的独我論の意味論的独我論に対する優位性が、言語の「存在」は言語外に存在論的にあることに由来するのと同じ構造である。

ここで、私が感じている、存在論的独我論について述べることの難しさについて触れておきたい。この難しさは「存在」というものを捉えることの難しさである。正確には、何の困難もなく捉えられていることについて説明することの難しさである。

この難しさは永井の哲学においても、大きな問題である。だから永井の本においても、「<私>と<<私>>の対比」というようなかたちで、この説明の試みが形を変え、繰り返し行われ、彼の本のなかで、かなりの分量を占めることとなっている。

なお、この文章で鍵となる概念は、「言語」にしても「内包の認識」にしても、極めて根源的であり、その概念自体を捉えることに、ある種の難しさがある。

しかし「存在」については、それらと同様の難しさに加え、<私>と<<私>>の違いについてわからない独在性盲を想定しうるという点で、より大きな困難がある。独在性盲、つまり「転校生とブラックジャック」におけるC君を極端に推し進めたような人を想定してみよう。この独在性盲に、<私>には<<私>>にはない独在性がある、といくら言っても、理解されない。伝わらないものは伝わらない。これは、存在論的独我論が成立するためには、独在性盲ではないということが前提となるということのように思える。存在論的独我論には、独在性盲ではないという前提、いわばドグマが混入しているように思える。

しかし、私はそれは誤解であると思う。独在性盲ではないという前提は、通常の意味での前提ではない。

一見、C君を極端に推し進めたような独在性盲がいるかもしれない、というのは意味のある疑いのようにも思える。しかし、独我論において、他者についてどうこう疑うことは意味が無い。独我論においては、私が独在性盲でなければ、私でない他人について独在性盲かもしれないと疑うことに意味は無い。つまり、私が独在性盲でないならば、独在性盲の可能性について疑う意味はない。そして、現に私はこの問題に立ち入っていることからもわかるように、「私は独在性盲ではない」ということは明らかなのだから、「私が独在性盲でないならば、」というような疑いを考慮する必要はない。

言い換えれば、「存在」については、私がなぜか「存在」というものを知っているということに、その理解の基盤があるという点で把握の難しさがある。しかし、「他者」を持ち出す必要がない独我論においては、そのことが存在論的独我論の成立の論拠の弱さにつながるものではない。

存在論的独我論の認識論的独我論に対する優位性の話に戻ることとしよう。

このような議論を経て、内包の認識が「存在」するということに特別さを見出すならば、そこには何らかの「存在」が必要だということになる。そして、その「存在」については、認識論から離れ、存在論的に把握せざるを得ない。

つまり、

存在論>認識論:内包の認識の存在

となる。

これで全ての欄が埋まったことになる。

整理できたとおり、三種類の独我論の間には、それぞれが相互に何らかの優位性を有する関係があると言えよう。

「なぜ意識は実在しないのか」における逆襲とは、この優位性からなる緊密なネットワーク関係のある側面を断片的に捉えたものなのではないだろうか。

1-9圧縮の試み

私がこれまで興味を持った哲学者達の議論は、ある側面では、この三種類の独我論を一つに統一しようとする試みであったとも言える。

例えば、永井の<私>の独在論は、存在論的独我論と意味論的独我論との関連性に重きを置き、そこに認識論的独我論を取り込むかたちで三者を統一しようとしたものと考えることもできる。夢の懐疑に晒されない、当たり前の世界を認めたうえで、そこに<私>という観点からの存在論的独我論を持ち込み、更に言語的な累進構造を認めることで、存在と言語という2者の相克関係としての統一的世界観を構成しようとしたものと考えることができる。

しかし、ここまで述べたとおり、認識論的独我論には、永井の見積もりよりも、より強い力がある。夢の懐疑を否定することにより成立する内包の認識には、存在と言語の二者関係に割って入り、内包の認識も含めた三者関係に持ち込む力がある。つまり、永井の描写は、間違えてはいないが不徹底である。(または、永井の興味は私の興味とずれており、永井の描写では、私を満足させない。)

ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論も同様だ。言語ゲーム論は意味論的独我論に重きを置く。そして、内包の成立と言語の成立を一挙に言語ゲームの内部で行うことで、内包の成立にまつわる問題を無化しようとする。

しかし、言語ゲーム自体の成立の場面について論じようとするならば、言語ゲームの外から、言語ゲームが存在するということと、内包の認識により具体的な言葉が学ばれるということを述べなければならない。

そのことさえも、述べるということの性質上、言語の力により、言語ゲームのなかに取り込まれざるを得ないが、それでもこの問題は、更に、語り得ないものとして、言語ゲームから逸脱し続ける。

つまりは、語り得ないものを語り得ないものとして認めるならば、ウィトゲンシュタインの試みは成功せず、言語の外に存在と内包の認識の居場所が確保され、言語と存在と内包の認識という三者関係が維持されざるをえない。

このように考えると、この、言語、存在そして内包の認識という三者関係は、なかなか、これ以上圧縮することは難しそうだ。

なお、私が感じた論理哲学論考の独我論の特別な正しさはここにあるのではないかと思う。ここまで挙げてきた三つの要素は、それぞれ、認識は思考、言語は像、存在は世界というように、論理哲学論考の独我論に対応する。私がここまでで辿り着いた構造を最もよく表している既存の理論は、論理哲学論考だということだ。

ここで、なぜ、この三者なのだろうか、という疑問が生じる。この三者を更に二者、一者と圧縮することが難しいならば、逆に、同等に重要な何かを加え、四者関係とする必要はないのだろうか。何かを見落としていないだろうか。

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