高校生のサツキへ 1 ~ハイティーン~

2015年3月7日作

手術前で、死んじゃうかもしれないと一応思っていたときの文章ですね。

PDF:高校生のサツキへ

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0 はじめに
これから高校生になるサツキに、俺のこれまでの生き方を踏まえ、何かを書き残しておくべきではないかと思いついた。君はそのうち大学生、社会人になるかもしれないが、そのときには、もう伝えるべきことなんてないかもしれないから。
と言いつつも、本当は、子供に何かを書き残す、という体裁をとり、自分の人生を振り返り、整理し、自分自身の今後の人生に役立ててみたいと思っただけかもしれない。そもそも、サツキの性格なんて考えず、サツキに役立つかどうかなんて考えずに書いている。まさに、今の俺自身か昔の俺自身あてに書いているようなものだ。だから、これからも頃合いを見て同じような文を書き続けるかもしれない。
ということで、この文章のテーマは、「人生」だ。そして、あらかじめ、この文章の着地点を示しておくと、「客観的に人生を捉えて生きることが大切だ。」ということになる。
しかしこれだけでは、どうして客観性が必要なのか、とか、客観的であるために具体的にどうすればいいのか、とか色々と疑問が生じると思うので、時間をかけて、大きく2つに分けて述べていきたい。前半で、客観的である必要性について若かりし頃の体験を踏まえて説明し、後半で現在のおっさんの視点から客観的であるための具体的な方法を説明することにしよう。
1 いけてない中学生時代
それでは、少しの間、俺自身の中学生から大学生までのことを書いていくことにしよう。(なお、今の俺にとって都合が悪く、この話と本質的には関係ない部分は端折って書いていくので、これは本当の俺の人生そのものではなく、ある程度の省略やデフォルメがあると思って欲しい。)
唐突だが、中学生の頃の俺は、本当にいけてなかった。クラスの中心人物なんかじゃ決してなかったし、いじめられっ子とまでは言わないけれど、特定の奴からはそれに近いこともあった。なんだか都合よく使われたり、あしらわれたりしていた気がする。
いじめられる側にも責任がある、とは今も全く思わない。しかし振り返ると、そういうポジションだった理由には思いあたるところがある。
俺は、要は消極的な子だったのだ。細かく振り返ると、友達とふざけるようなこともしていたし、授業中などは積極的なところもあった。しかし、全般として、人間関係で失敗するのが怖くて、積極的に人と関係を持とうとせず、どこか受け身だった。だからいけてなかったのだ。
2 高校デビュー・一つ目の気付き
中学生の頃のことだ。どこまで深く考えていたかは覚えていないが、クラスでの自分の立ち位置が嫌だったことを覚えている。だから、高校に入ることをきっかけに、現状を変えるため一つ決心をした。キャラを演じてみることにしたのだ。
自分自身の全てを変えることはできないけれど、学校のなかだけでも、今までの消極的な自分ではなく、社交的なキャラを演じてみようと思った。
その試みがどこまで成功したかはよくわからないが、高校時代を通じて演じようとする過程で、重要なことに気付くことができた。
学校の自分と、家族との自分と、ひとりのときの自分とは、全く違っていいと気付いた。というか実感できたのだ。学校での自分が軽薄でも、ひとりで考えているときの本当の自分が暗くていい。また、学校での自分だって、友達Aと友達Bの前では全く違っていいし、昨日の学校での自分と、今日の学校での自分が全く違っていたっていい。だって、演じているのだから。
演じているのだから、人間関係で失敗することも怖くない。学校での自分は、本当の自分とは別の「役柄」であり、取替可能なものだから、失敗しても、そんなに深刻にならなくてもいい。場面によって取り替え可能な自分がいていい。
これが一つ目の気付きだった。
3 高校デビュー・二つ目の気付き
しかし、自分が変化することで、あいつは人によって対応が違うよな、とか、最近キャラが違うよな、とか言われるリスクがあるとも思っていた。
(これについては、中学生のときの自分をよく知っている人はいないし、中学が同じ人なんて少数派なのだから大丈夫じゃないかなあ。だけど、もし変化を指摘されたら嫌だなあ、なんて思っていたのだけれど。)
ただ、実際には、そんなことを言われることはほとんどなかった。(言われても、深く考えての発言じゃなく、世間話的な感じだった。)
そこで、もう一つのことに気付いた。クラスメイトたちは、俺の変化になんて興味はなく、自分の人生を必死に生きている。外の世界では俺ではない他者が、俺のことを気にせず、その他者なりの人生を送っている。俺はそれほど注目されていないのだから気楽に生きていい。
これが二つ目の気付きだった。
4 二つの「外」への気付き
俺は高校時代を通じて、徐々に、場面に応じて違う自分でいいと気付き、また、自分以外の人もその人なりの人生を送っているのだから気楽でいいと気付いていった。そして、気付くことで、少しずつ消極的な俺は解消され、積極的になることができた。ただ、当時はここまで明確に言葉にできておらず、なんとなく気付いていったという感じだったような気がする。
今でも、高校時代のことを思い出すと、曇り空の隙間から光が差し込むように「自分の世界」の「外」があることに気付かされ、また自分が背負った荷物が軽くなるような皮膚感覚が蘇る。鎖から解放され、目の前に広大な世界が開かれたようだった。
5 渾然一体の世界
その変化について、もう少し考えてみよう。
今振り返ると、中学生の頃の俺にとっては、「世界」とは渾然一体となっていて、ひとつしかないものだった。自分自身とか、身の回りの環境とか、そういうものが分離されずくっついたまま、ひとつの「自分の世界」だけがあった。
言葉としては、親、先生、クラスメイトといった自分以外の人たちは、別の人間で、その人なりの人生があるということは知っていた。しかし、実感がなかった。どこかで俺が中心となった世界の登場人物に過ぎないように感じていた。俺が中心であり主役なのだから、他の登場人物たちは俺に注目し、気にしている。なんとなく、そう感じていた。
当然、言葉としては、「自分の世界」と「外の世界」の違いは知っていた。地球の外には広大な宇宙が広がっていることも知っていた。歴史上、戦国時代の世界や、幕末の志士の世界があることも知っていた。
しかし、そんな知識としての世界と、現に触れ、実感している自分の身の回りの世界とがつながっているとは感じられなかった。大人になったら家を出て、全く違う人間関係の中で生きていくとか、学校が嫌なら転校して、人間関係をリセットできる、なんていうのも、あくまでお話しでしかなく、どこか、自分に関係のないことだと思っていた。
中学生の俺にとって、世界とは俺が主役の舞台であり、注目されているからうまく演じなければならないという緊張があった。また、実感として、世界は「自分の世界」として閉じており、その「外」はなかった。渾然一体となった唯一の「自分の世界」の「外」はなく、家族やクラスメイトとの人間関係で問題が生じても逃げ場がなかった。それが怖かった。緊張し、怖かったら、消極的になってしまうのは当たり前だろう。当時の思いを言葉にするのは難しいけれど、この息苦しさが伝わるといいな、と思う。
6 時間的な気付きと空間的な気付き
高校時代の、二つの「自分の世界」の「外」の気付きは、俺にとっての少年時代から青年時代への転換点だったのだと思う。この文章のタイトルに即してカタカナで言うなら、ローティーンからハイティーンへの変化のほうがいいかな。
一つ目の気付き、つまり場面に応じて違う自分でいいと気付くということは、時と場合により、「自分の世界」から「外」に出ることも可能だと気付いたということだ。これは、時間的な意味での「外」の気付きと言ってよいだろう。
二つ目の気付き、つまり自分以外の人はその人なりの人生を送っているということに気付くということは、「自分の世界」に並行して、「外」に人間の数の分だけの世界があると気付いたということだ。これは、空間的な意味での「外」の気付きと言っていいだろう。
俺の場合は、こんなふうに、時間的な気付きと空間的な気付きの二つがあったように思い起こされる。だけど、もしかしたら、もう忘れてしまった別の気付きがあったのかもしれないし、人によっては、別の気付きがあるのかもしれない。だから、この二つの気付きしかないとは思わない。
ただ、少年時代から青年時代に移り、ローティーンからハイティーンへ移るなかでは、誰もが何かしらの気付きがあるのではないだろうか。そんなものはないと言う人もいるかもしれないが、それは忘れてしまったか、言葉にできていないだけなのではないかと思う。
7 客観化
「自分の世界」の「外」という、当時感じていたキーワードを、この文章のテーマである「客観」という言葉につなげるなら、「自分の世界」の「外」に気付くということが客観化ということだ。なぜなら、「自分の世界」の「外」が見渡せるよう、一段高い位置に立つということが客観的になるということなのだから。一段高い位置に立ち、「今現在、ひとりでいるときの自分の世界」「今夜、夕食時に家族といるときの自分の世界」「明日学校に行った時の自分の世界」といったものを同時に見渡すことで、それぞれの世界を出入りすることが可能になる。また、一段高い位置に立ち、「自分の世界」とは別の「友人Aの世界」「母親の世界」といったものを同時に見渡すことで、自分だけが「自分の世界」の主人公になるという過度の負担を負わずに済む。
客観的になることで、「自分の世界」への囚われから解放される。これが客観的になることが大事である理由だ。
こうして「客観」という言葉までつながったところで、この文章の前半は終了したいのだが、残念ながら続きがある。
8 なんでもありの不安
確かに俺は、客観的な視点を得て解放された気がした。しかし一方で、すごく不安になった。自分に無限の選択肢があると同時に、その無限の選択肢のうちのどれかを選ばなければならない。選択の責任は自分で自分自身に対して負わなければならない。そのような状況で、人生というものは、どのように生きていくべきなのだろうか。そんなことを考えてしまった。
親や先生や教科書のようなもののなかには答えはない。親や先生や教科書の作者というような大人達は、皆、「外」の世界の住人であり、その人なりに懸命に人生を生きている。俺のことを気にかける余裕なんてない。自分のことは自分で決めるしかない。
また、これまでの過去の自分のなかにも答えはない。自分なんて時と場合によって変わっていいものだから、これまでの自分になんて囚われず、より望ましい自分に変わっていいはずだ。過去の自分に引きずられるということは、怠惰でしかない。そこには正しさなんてない。
9 どうしたら正しく生きられるのか
高校生から20歳頃までにかけて、この不安を解消するため、俺は、どのように生きていくべきかという問いの答え、つまり、人生における正解、正しい人生というものを探し求めた。
俺が高校生のときに直面した「正しく」生きることにまつわる現実的な問題は、「友達を傷つけてもいいのだろうか。」という問題だった。更に具体的に言うと、「友人関係を乗り換えることで、これまでの友人を傷つけていいのだろうか。」という問題だった。自分が変化する際には、これまでの人間関係の変化も伴う。そうしたとき、例えば、新しい友人と一緒に下校しながら、今まで一緒に帰っていた友人が一人で下校するのを見なければならない。それは、友達を傷つける正しくない行為なのではないだろうか。
また、あくまでハイティーンな(子供に話していい)範囲で恋愛についても触れるなら、「好きな女の子に告白をしてもいいのだろうか。」という問題でもあった。相手が自分のことを好きでなかったら、迷惑をかけることになってしまう。また、うまく付き合えたとしても、自分には、相手を幸せにする自信なんてない。結局は、相手に嫌な思いをさせてしまうのではないだろうか。そう考えると、告白するという行為自体が正しいものではないように思える。
つまりは、俺が人間関係に関わる行動を起こすことで、人間関係に波風を立たせ、誰かを傷つけてしまうかもしれない。それならば、何もせず、現状維持のほうがいい。当時、俺はそんなことを考えて苦しかった。
10 強くなければ生きていけない。優しくなければ生きる資格が無い。
しかし思った。ちょっと待てよ。誰もがその人なりの人生を行きているのと同じように、俺だって自分の人生を生きている。そして、他の人は、それぞれ自分自身のことを気遣って生きているのだから、俺だってそうしなければ自分自身が可哀想だ。俺だけが自分自身を気遣わず、他人を気遣うなんて、それこそ思い上がりで間違っているのではないか。
それに、俺の選択により、一人で下校することになった友人や、好きでもない男に告白された女の子だって、巡り巡って、何かの拍子で、そのことがプラスに働くことがあるかもしれない。それならば、結果的には、俺の行為は正しい行為とも言える。
当時、俺はそんなふうに気付いた。他者を気遣い何もしないことは正しい側面もあり、間違っている側面もある。自分自身のことを考え、別の友人と付き合ったり、告白したりすることも正しい側面もあり、間違っている側面もある。完全に正しく生きること難しい。両立困難だ。
悪く言うならば、人間は汚く、利己的であらざるをえない。また、良く言うならば、その汚さの中にも、ある種の正しさが潜んでいる。そんな二面性がある。
「現実問題として、完全に正しく生きていくことなんてできない。」これが俺の「正しい人生」を探した結果の答えだった。
あえて、当時の「正しい人生」についての自分なりの答えをかっこ良く言葉にするならば、「人はどうしても人を傷つけてしまう。だからその分、自分らしく強く生きなければならない。それが正しい人生ということだ。」とでもなろうか。俺が大学生のとき好きだった言葉は、ハードボイルドの代名詞「強くなければ生きていけない。優しくなければ生きる資格が無い。」だった。この言葉にもそんなニュアンスを込めていた。(その言葉が出てくる作品自体は読んだことないけど。)
11 客観化再登場
こうして振り返ってみると、この大学生時代まで引きずった問題は、先ほどの客観化の話の繰り返しだったことに気付かされる。
先ほどの、この問題に対する俺の答えは、言い換えれば、「自分の人生や、友達の人生や、好きな女の子の人生を並べて見渡すことができる客観的な視点に立ち、現実的に少しでもマシな判断をするしかない。」としてもよい。これは、先ほどの空間的な客観性の気付きの話そのものと言ってもいいだろう。
要は、中学生の頃は自分だけが注目されているという勘違いだったのが、高校生、大学生の頃は自分だけが完全に無垢で正しくなければならない、という勘違いに変わっただけのことだったのだ。若いときは、自分のことだけを特別扱いして、観念的で極端な考えに振れてしまいがちなのだろう。
当時は気付く余裕もないほど苦しかったけれど、振り返るとそういうことだったのだろう。なんだか気が抜ける。
12 蛇足:哲学について
ただし、俺は現実的に少しでもマシな判断をすることで満足している訳ではない。正しく生きるという問題を解決するためには、ここまで述べたような現実的なアプローチとは別に、観念的なアプローチも可能だという考えを捨て去ることはできていない。観念的で極端な考えは、単なる若気の至りではなく、なんらかの正しさが含まれているのではないかと思うからだ。
ただし、この問題は、俺にとって重要な現在進行形の哲学的問題だから、ここで簡単に語ることはできない。そこで、自分のためのメモとして次のことを書き残しておく。
「観念的に哲学的につきつめて考えていっても、世界の把握において、客観化という観点を完全に消し去ることは難しい。」

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