5の1 当面の誤り
哲学の正しい述べ方についてはこれまで述べたとおりだが、それでは、哲学の正しくない、誤った述べ方とはどのようなものだろう。
これまでの話の流れを受ければ、飛躍しすぎて、丁寧でない述べ方をしたということが作者にとっての誤った述べ方だろう。読者の観点からは、感動せず、心が動かなかったということが誤った述べ方ということであり、文自体の美しさという観点で言えば、飛躍しすぎて抽象画でも具象画でもなく、落書きになってしまい美しさが失われたような状況が誤った述べ方ということになるだろう。要は、誤った述べ方とはそういうことだ。
しかし、それはあくまで単一の文に着目した場合であり、先ほど述べたように私は「作者と読者が双方向的に継続的に重層的な伝達を行うなかで、関心、疑問を共有するという相互関係」にこそ、正しい述べ方の根源があるとしているということに留意しておく必要がある。多少説明が飛躍しすぎて丁寧でなくても、読者の指摘を受けてあとで説明し直せばよい。例えば、「ワンと鳴くペットはイヌだ。よって、浅田真央のペットはイヌだ。」と作者が読者に語りかけたときに、読者に「どうしてそうなるの?」と疑問を投げかけられたとしても、作者がきちんとフォローすれば誤りにはならない。作者が「ごめんごめん。浅田真央のペットはワンと鳴くってことを説明するのを忘れてたよ。」と言えば誤りはならない。
また、それでも読者に「ペットって何?」と更に疑問を呈されたとしても、作者が「ペットとは人間が愛玩のために飼う動物のことだよ。」と説明して読者に理解してもらえれば、誤りとはならない。追加の説明により読者の心が動き、文自体が美しさを獲得できればよい。つまり、事後に訂正される「当面の」誤りは誤りではない。
繰り返しになるが、私は、正しさとは、作者の説明の内容や読者の理解力や個別の文章のなかにあるのではなく、現に作者と読者とで関心や疑問が共有されたということにあると考えている。だからこそ、作者と読者の間で共有に向けた努力が行われた後の最終的な結果をみなければ、それが正しさに至ったか、それとも誤りで終わったかはわからない。
私にはそこに特筆すべきことが隠されているように思えるので、もう少し丁寧に、別の述べ方で、事後に訂正される「当面の」誤りは誤りではないということを見てみよう。
例えば、「私のペットはニャーと鳴く。ニャーと鳴く動物はイヌだ。だから私のペットはイヌだ。」というような典型的な誤りの文があるとしよう。この文章は常識的な観点から誤っている。この誤った文が訂正されるまでの過程をAとBの会話形式でみてみよう。(なお、文の行数を横に書いておく。)
1A「私のペットはイヌだ。」
2B「どうしてイヌだと言えるのか。」
3A「私のペットはニャーと鳴く。ニャーと鳴く動物はイヌだ。」
4B「違う。ニャーと鳴く動物はネコだ。」
5A「そうなのか。確かに私のペットはネコだ。」
かなり不自然な会話だが、このようなやりとりにより、誤りは訂正されると考えてみる。
ここにはいくつかの誤りがあるように思える。1行目の文は、実はAのペットはネコだという観点からすれば明らかに誤りだ。また、3行目の「ニャーと鳴く動物はイヌだ。」としていることも常識的に考えて誤りだ。
しかし、私は、このように個別の誤りの文があるという考え方を否定したい。Aのペットはネコだと外から指摘するということは、実は、こういう会話をしているということである。
1A「私のペットはイヌだ。」
2あなた「違う。あなたのペットは実はネコだ。」
ここで、あなたは会話に参加している。そして、次のような会話が続く。
3A「どうしてネコだと言えるのか。」
4あなた「ニャーと鳴く動物はネコだからだ。」
5A「そうなのか。確かに私のペットはネコだ。」
もし、このようなやりとりにより誤りが訂正されたなら、既にAとあなたの間で双方向的に継続的に重層的な伝達を行うなかで、関心、疑問を共有されたということだから、そこには誤りはない。違いは、ただ、あなたが会話に参加したということだけである。
この例により言いたいことは、当事者ではない第三者の視点から誤りを指摘することはできないということだ。指摘するということは当事者として哲学を述べることに参加するということだ。私にとっての哲学を述べるということには、このような側面がある。
念のため、AとBの会話に戻り、次のようにBが納得してしまった場合を想定してみよう。
1A「私のペットはイヌだ。」
2B「どうしてイヌだと言えるのか。」
3A「私のペットはニャーと鳴く。ニャーと鳴く動物はイヌだ。」
4B「そうなのか。それならば、あなたのペットはイヌだ。」
これも、AとBとの間で双方向的に継続的に重層的な伝達を行うなかで、関心、疑問を共有されたということだから、述べ方として正しい。もし、あなたが、それは違うと声を上げたとしても、先ほどの例のように、ただあなたが会話に参加することになるだけだ。
作者が正しいと信じてこのように述べ、読者もそのように理解したならば、作者と読者以外の誰も誤っていると指摘することはできない。作者でも読者でもない観点に立つことはできない。つまり、文が個別に誤りであるということはない。
それでは、一般的に個別の文の誤りとされているのはどういう場合なのだろうか。私は、それは、最終的に正しさに至り、事後的に「当面は」誤っていたということがわかった場合のことをいうのだろうと考えている。
最初の例に戻れば、5行目のAの「私のペットはネコだ。」という結論に至った視点から、1行目の「私のペットはイヌだ。」という発言を振り返り、1行目の発言は「当面は」内容が誤っていたと述べているということだ。つまり、文の誤りは、正しい文章のなかの一部としてしか存在しない。
更に、最初の例には続きがありうる。
1A「私のペットはイヌだ。」
2B「違う。あなたのペットは実はネコだ。」
3A「どうしてネコだと言えるのか。」
4B「ニャーと鳴く動物はネコだからだ。」
5A「そうなのか。確かに私のペットはネコだ。」
という会話の先に次のような会話が続きうる。
6科学者「Aさん、遺伝子検査の結果、あなたのペットはニャーと鳴く新種のイヌであることが判明しました。」
このような事後的な視点というものがありうる可能性も踏まえれば、それぞれの文に固有の正しさや誤りというようなものはなく、作者と読者の間で関心、疑問が共有されたかどうかという、最終的な観点からの述べ方の正しさ、または誤りしかないという私の主張は、決して荒唐無稽なものではないのではないだろうか。
私は、この文章の冒頭において哲学の内容ではなく、哲学の形式に着目し、どのような述べ方が正しいのかを考察することとした。その大きな理由として私の力不足があることは確かであるが、もう一つの大きい理由としては、そもそも内容の誤り、そして内容の正しさとは、事後的な視点から「当面は」文が誤っていたとか正しかった、という評価をしているということを指しているに過ぎないのではないだろうか、という問題意識があったからだ。
なお、先ほど同一律の比喩に着目し、トートロジーは極めて正しい述べ方であるとも述べたところである。しかし、この正しさは作者としての述べ方の正しさに留まる。厳密には、トートロジーであっても作者と読者の間で関心、疑問が共有されたかどうかという観点で、その正しさは評価されるべきである。そして、その共有が失敗することはありうる。失敗のあり方として私が思いつくのは、ルイス・キャロルのパラドクスである。亀がアキレスに、述べようとすることの前提を問い続け、述べようとすることとその前提との同一律の比喩が成立する根拠を問い続けるような場面である。これは、同一律の比喩についての読者との関心、疑問の共有が成立しない一例であると言えよう。ここで、根源としての作者と読者の間での関心、疑問を共有するという正しさではなく、そこから派生するものとしての作者の述べ方の正しさにのみ着目して「トートロジーは極めて正しい述べ方である」としたことは訂正し、「正しい可能性が高い述べ方である」という程度に弱めておく必要があるだろう。

5の2 語り終える
以上、「当面の」誤りと対比することで、本当の述べ方の誤りとは、最終的に作者と読者の間で関心、疑問が共有されなかったということである、ということが、より明確に整理できたのではないだろうか。
確認のため例を示せば、
1A「私のペットはイヌだ。」
2B「どうしてイヌだと言えるのか。」
3A「私のペットはニャーと鳴く。ニャーと鳴く動物はイヌだ。」
4B「・・・」
と、Bが関心を失い、会話が終わることが述べ方の誤りである。
しかし、この誤りについては更に語るべきことがあるように思う。
個別の文に誤りはないといっても、Aが「私のペットはニャーと鳴く。ニャーと鳴く動物はイヌだ。」と述べたことは、姿勢としては問題があるかもしれない。率直に言って、「ニャーと鳴く動物はイヌだ。」と言い切る前に、もう少し考えて欲しいと思う。考えてもわからなかったのなら仕方ないが、Bに「ニャーと鳴く動物はネコだ。」と言われて簡単に自説を曲げるなら、もう少し考えて欲しい。
また、同じことは「ごめんごめん。浅田真央のペットはワンと鳴く、ってことを説明するのを忘れてたよ。」と言った人に対しても言える。自分の説明が不足していないか、誤解を与えないか、少し考えて欲しい。
相手が会話についてきてくれたからよいが、もし相手が関心や疑問を失い、会話についてこなければ、そこで話が終わってしまう。もし、そこで終わってしまえば、作者と読者との間で関心や疑問が共有されなかったということであり、誤りに陥る。
こう考えると、簡単にあとで訂正されるような文を語ってしまうことに誤りが潜んでいるとも言いうるのではないだろうか。
作者が読者に哲学を語るということに、自問自答をして思考をすることを含めているということを思い起こしていただきたい。Aが頭の中で「簡単に、私のペットはネコだと言ってよいかな・・・」などと自問自答することと、AとBの間で会話をすることとは全く同じことである。単にAとAとの間の会話なのか、AとBとの間の会話なのかという登場人物の違いに過ぎない。
そして、頭の中でのAとAでの自問自答の思考を打ち切り、Bに向けて発話することと、AとBの間での会話が打ち切られるということには、同じ誤りが潜んでいる。いずれも重層的な伝達のある階層での伝達を打ち切っているという意味では同じような事態が生じている。
それならば、正しい哲学の述べ方として、これまで、適度に丁寧な比喩を行うという配慮を作者に求めてきたが、加えて、述べようとしていることが正しいかどうかしっかり自問自答して考えてから発言するという配慮も作者に求める必要がありそうだ。
しかし、具合が悪いことには、どんなに作者と読者との間の関心や疑問が共有されて正しいものだとされても、更に、事後の視点から見れば、実は誤りだったということはありうる。先ほど述べたように「私のペットはネコだ。」と合意をしたとしても、「実は私のペットは新種のイヌだ。」ということはありうる。
そのような事後的な視点も考慮するならば、作者がどれだけ配慮しても、誤りから免れることはできない。語り終えることで作者と読者のコントロールから離れ、確実に誤りを避け、正しさに辿り着くことはできない。
つまり、作者に求められることは、しっかり考え、配慮するというようなことには留まらない。確実に誤りを避けるためには、作者は語り始めたなら語り終えてはならない。これが、作者として正しいあり方なのかもしれない。

5の3 他者の信頼
しかし、この文章も含め、ほとんどの文章は語り終えられている。(今は書き終えていないが、この文章を誰かに読んでもらうときには書き終えているだろう。)
それならば、この文章の作者である私も含めた作者たちは、求められている作者の義務を果たしていないのだろうか。
その問いについて考えるにあたっては、私の考える伝達とは重層的であるということを思い出しておきたい。先ほどのイヌとネコをめぐる会話で言えば、AとBのそれぞれの文ごとに伝達は完結している。しかし、会話全体としてみれば、会話が終わるまで伝達は完結していない。また、事後的な視点からみれば、更に会話が続く可能性もある。
この文章にしても、重層的な層のうちある層においては伝達を終え、ここで一旦書き終わる。しかしその後、私が続きを書き始めるかもしれないし、別の誰かが引き継いで思索を進めるかもしれない。書き終えたこの文章を私自身かもしれない誰かが読者として受け取り、受け取った読者が今度は作者となり新たに哲学を述べ始める。そのようにして更に上位の階層においては伝達が継続するかもしれない。
正直に言って、私は、あなたがこの文章を読んで何らかの感想を持ってくれればよいのに、と期待している。私は、この文章を踏まえて、あなたがあなた自身に対して哲学を述べ、双方向的で、継続的で、重層的な伝達が続いていくことを期待しないではいられない。
一方で、この文章が誰からも関心、疑問が共有されず、誤りに陥ったまま語り終えられる可能性は厳然としてある。いくら期待を重ねてもその可能性を否定することは出来ない。
ここで私は考えずにはいられない。伝達がこのようなあり方をしているということにはどのような意味があるのだろうか。この文章を含めたおおかたの文章が一旦は書き終えられ、そこで伝達は終わるかもしれないが、それでも続いていくことを期待するということはどういうことなのだろうか。文章は、一旦語り終えることにより、誤りを潜在化させることとなる。もし、読者が哲学を述べることを引き継がなければ、その文章は誤りに陥ることになるかもしれない。そのような危険性を冒してまで語り終えるということに、どのような意味があるのだろうか。
私はそこに、他者の信頼という意味を読み込みたい。作者は読者が語り続けてくれることを信頼するからこそ語り終えることができる。更には、読者が作者を超え、新たな道を切り開いてくれるのではないかという期待さえも、その信頼のなかにはある。とするならば、語り終えることには積極的な意義があるとさえ言えよう。
他者の信頼により、作者が語り終えることができるからこそ、他者である読者が語ることを認め、双方向的で、継続的で、重層的な伝達を駆動することができるのではないだろうか。つまり、他者を信頼することが哲学を述べるということの原動力であるとも言える。
以上、まとめると、他者の信頼を原動力に、作者と読者の間で双方向的で、継続的で、重層的な伝達を行い、現に関心、疑問を共有するということが正しい哲学の述べ方である、ということになる。
ここに、私は、極めて倫理的な意味を読み込む。哲学を述べるならば、他者を信頼しなくてはならない。