詩的言語について

2016年9月28日

PDF:詩的言語について

1 「まんが哲学入門」の詩的言語

森岡正博の「まんが哲学入門」という本がある。名前のとおり、まんがで書かれた哲学入門書なのだが、少し変わっている。まず、まんがで書かれた読みやすいつくりの入門書なのに、広く浅く有名な哲学者を紹介するような内容ではなく、哲学者森岡自身の哲学を真正面から述べている点が変わっている。更には、まんがの絵まで、森岡本人が書いているという点が変わっている。(下書きまでだけど。)
そんな風変わりな本なのだが、この本の魅力もまさにそこにある。この本のクライマックスは、多分、「ひとり存在」(永井均の<私>、森岡正博の別の本での「独在的存在者」と同じもの。(p.162))という言葉では伝えにくいものを、森岡自身の手による絵でずばり伝えてしまう箇所だと思う。まんがでしか書けないので説明しないが、僕もそこは好きだ。

だが、この文章では、この本の他の箇所の魅力について述べることとしたい。
「詩的言語」という言葉が登場する箇所だ。
まんがということとはあまり関係はないけれど、僕はこの本を読んで「詩的言語」という言葉に惹きつけられた。
「詩的言語」という言葉は、ただ無いではない「無」を語ることの難しさについて触れているところで初登場する。(p.86〜87)
西田幾多郎は、ただ無いではない「無」について「絶対矛盾的自己同一」「無の場所」という言葉を捻り出し、なんとか表現しようとした。
こう触れたうえで、「「無」とは何かを明確にイメージすることはできませんし、言葉で直接にあらわすこともできません。それはイメージの力や言語の性能を超えているので、詩的な方法によって間接的にほのめかすしかないのです。哲学は、そういった言語の限界のぎりぎりのところを問うていくので、キーワードによって何が間接的にほのめかされているのかを良く考えなければいけません。」としている。
これが詩的言語だ。
それ以外にも、この本では、ハイデッガーの「存在の奥義」「性起」という言葉を詩的言語の例として挙げている。(p.90)
また、先ほど少し触れた「ひとり存在」という語についても、「詩的言語に片足を突っ込んでいるのです」(p.170)としている。

このように、「詩的言語」は、この本のあちこちに登場する重要な言葉なのだが、一般的によく使われる哲学用語なのかな、と思いネットで検索したところ、そうでもないようだ。詩的言語という言葉はあるが、この本のような文脈では使われていない。(これは森岡先生ご本人にtwitterで聞いたので間違いない。)
どういう経緯で森岡がこの言葉を使い始めたのかわからないが、これはラッキーかもしれない。
僕はこの文章で「詩的言語」について考察を進めようとしている。もし、詩的言語という切り口が新しいのならば、その考察の内容は凡庸だとしても、目新しさという価値だけは約束されていることになる。目新しさから読んでもらえたら、それだけで嬉しい。

2 詩的言語とは
詩的言語の特徴は、僕の理解では、言語によって、言語では語りえないことを語ろうとしているというところにある。森岡の言葉でも「言葉で直接にあらわすこともできません。」「言語の性能を超えているので、詩的な方法によって間接的にほのめかすしかない」「言語の限界のぎりぎり」と描写されているとおりだ。
これは、まさに言語の限界の先に片足を突っ込んでいる状況だ。
だから、この本で「ひとり存在」という言葉について「詩的言語に片足を突っ込んでいるのです」(p.170)としているのは少し不正確だ。「ひとり存在」や、その言い換えである「<私>」「独在的存在者」という言葉は「絶対矛盾的自己同一」「無の場所」と同じ程度に言語では語りえないことを語ろうとしていて、どっぷりと詩的言語だ。
これらの言葉が片足を突っ込んでいるのは詩的言語ではなく、言語の限界の先だ。詩的言語とは、片足を言語の限界の先に置き、片足を言語の限界の内側に置くようにして、言語の限界をまたいで立っている言葉のことなのだ。

詩的言語は言語の限界を一歩踏み出している。そんな話になってしまうと「言語の限界を超えた言葉なんておかしい。」と言いたくなる。詩的言語という、言語をはみ出た言語もどきを、少なくとも、厳密な学問としての哲学において扱う価値なんて無いように思える。
この本でも、まんがの主人公であるまんまるくん(生徒役?)は「詩的言語ってほんとうに哲学なんですか?」(p.91)「詩的言語ってやっぱり哲学じゃないような気がするんですけど・・・」(p.108)と疑問を投げかけ、もうひとりの主人公である先生も「そうかもしれません」と応じている。
しかし、切り捨てずに、もう少し踏みとどまってみたい。

3 内側の片足
なんとか踏みとどまって、このような難問に立ち向かうためには、分解してみるという手段が役に立つだろう。
詩的言語は言語の限界の内側に片足を置き、もう片足を踏み越えてしまっている。それならば、詩的言語の片足ずつを見てみてはどうだろう。

まずは、言語の限界の内側にある片足について。
言語の範囲内で解釈するならば「無の場所」という語は「無」という言葉が含まれていることからわかるように「ない」ことを意味している。咲いていた花が枯れてなくなった、そんな普通の日常的な意味での「ない」のと同じように「ない」。もし、「無の場所」という言葉に、そんな当たり前な意味での「ない」という意味が含まれていなかったら、「無の場所」と言われても何もイメージできなくなってしまう。
なお、「ひとり存在」や「<私>」についても同様だ。これらは、そのとおり、普通の意味での、「ひとりの存在としての私」をどこかで意味している。そう言える側面がなければ、「ひとり存在」や「<私>」という語を使うことの意味がわからない。
しつこいが、もし「無の場所」が「無(ない)」と全く関係がないとしたら、「無の場所」という言葉は、他の全く無関係そうな言葉、例えば、「ペットボトル」や「ナス」といった言葉と置き換えられてしまうことになる。なぜなら、いずれも同程度に全く無関係なのだから。「無の場所」ではなく、例えば「ペットボトルの場所」や「ナスの場所」と言っても、同程度に指し示せる(または同程度に指し示せない)ことになってしまう。「<私>」という詩的言語も「<ペットボトル>」や「<ナス>」でよく、「ひとり存在」という詩的言語も「ペットボトル・ナス」でよいことになってしまう。
しかし、当たり前だが、そうはならない。これはつまり、「無の場所」なら、「無」と「場所」、「<私>」なら「私」、「ひとり存在」なら「ひとり」と「存在」という言葉の日常的な意味が詩的言語には含まれているということだ。
詩的言語は、そこで使われている言葉に含まれる日常的な意味をどこかで使っている。
これが、詩的言語の、言語の内側にある片足だ。

4 外側の片足
詩的言語のもう一方の足、つまり言語の限界の外側にある足については極めて純化して解釈するなら、何も指していないという言い方ができるだろう。なぜなら言語の外なのだから。
それでも詩的言語は何かを指していると思われるかもしれないが、その思われる何かは、よくよく考えれば、全てが先ほどの言語の内側にある片足に含まれることに気付くはずだ。なぜなら、よく考え、きちんと理解するためには、言語的に扱うことは不可避であり、言語の限界の内側に留まることが必要なのだから。
そうだとするなら、このような純化した言語外の側面を強調するなら、「無の場所」「絶対矛盾的自己同一」「ひとり存在」「<私>」といった詩的言語は全て、無意味な記号、例えば記号Xと置き換えることさえ可能ということになる。そのような意味で、詩的言語は何も指し示しておらず、無意味なのだ。

こうして、詩的言語は、片足を言葉の日常的な意味に置きながら、そこから片足を無意味に踏み出している姿として描写することができる。

5 踏み出す動作=否定
以上は、いわば、詩的言語の静的な描写だ。しかし、詩的言語は言語の限界を一歩「踏み出す」という動作として、動的に捉えることもできるはずだ。
それならば、この一歩は、動作として、どのように踏み出しているのだろう。
この問題を考えるには、詩的言語の名づけ方に手がかりがある。いずれの詩的言語も「否定が含まれている」という特徴がある。
最もわかり易い例で言うと、永井の詩的言語「<私>」の「< >」は、もともと「><」だったそうだ。否定のバツだ。<私>という言葉には、日常的な意味の「私」ではないという意味での否定が含まれているのだ。
また、西田の「絶対矛盾的自己同一」もそうだ。ただ、この場合、もっと美しくて、矛盾と同一をつなげてひとつの語にすることで、矛盾を否定し、同一を否定するという2つの否定が含まれている。僕は西田哲学についてよく知らないけれど、多分、そんなイメージから、このような名付け方をしたのだろう。
「無の場所」もそうだ。「無」なのに「場所」があるということは、無の否定であり、場所の否定でもある。
森岡の「ひとり存在」も同様だ。通常の用法での「存在」とは、「AさんとBさんがテーブルを挟んで存在し、テーブルの上にはペットボトルが存在する。」というように、多数の人や物が並んで存在することを前提に使われる。(あまり存在とは言わないけれど。)そんな「存在」という語を「ひとり」という語と結びつけることにより、「ひとり」と「存在」のそれぞれを否定していることになる。
これは、詩的言語を動的に捉えるならば、そこには「否定」という一歩を踏み出す動作が含まれているということを意味する。

6 非A的A・カモノハシ・人工衛星
しかし、詩的言語の否定は完全な否定だけでは終わらない。
なぜなら、先ほど述べたように、詩的言語の片足は、あくまで言語の範囲内に残され、通常の語の意味が残されているのだから。
「<私>」には「私」という語の通常の意味が残されたうえで、それが否定されている。「無の場所」も、「無(ない)」と「場所」という語の通常の意味が残されたうえで、それが否定されている。これ以上繰り返さないが、他の詩的言語も同じだ。
それは、否定的要素を持つ肯定と言ってもよい。
森岡はtwitter上で、別の文脈においてだが「非A的A」という言葉について呟いていた。僕は、これが詩的言語の基本的構造なのではないかと目をつけている。それが言い過ぎなら、詩的言語についての、目下のところ、最もコンパクトな描写なのではないかと思っている。
「<私>」について最も短く描写するなら、「非私的私」であり、「無の場所」なら「非無的無」かつ「非場所的場所」とでもなるだろう。

だから詩的言語とはカモノハシのようなものなのかもしれない。
カモノハシは哺乳類だけど卵を生む。哺乳類ではないような特徴を持つ変な哺乳類だ。カモノハシは「非哺乳類的哺乳類」だ。
「非」という否定の力により、カモノハシは日常的な哺乳類の枠から一歩踏み出そうとする。それでも、哺乳類であることから完全に逃れることはできない。
別のイメージを使うなら、この一歩は、地球を周回する人工衛星のようなものかもしれない。人工衛星は「非地球的地球」だ。打ち上げられ、ロケットから切り離された後は、慣性と重力により、どこまでも地球に引き寄せられ、落ち続けながらも、落ちきることができない。そこにあるのは、地球を回り続けるという、どこまでも達成されない永い一歩だ。

7 理解できたり、できなかったり
しかし詩的言語について、いくらカモノハシや人工衛星に例え、否定的要素を持つ肯定とか「非A的A」とか言っても、その内実に切り込むことはできない。
「<私>」や「ひとり存在」について、「非私的私」と言い、「無の場所」について、「非無的無」かつ「非場所的場所」と言っても、それだけでは何も伝わらない。
「非哺乳類的哺乳類」とだけ言っても、カモノハシをそのままでは指さないのと同じように。

しかし、明らかに「ひとり存在」よりカモノハシのほうが説明は簡単だ。
カモノハシについても、卵を生むということ以外に、オーストラリアに住むとか、口がくちばしのようになっているとか、泳ぐのが得意だとか。そのような説明を尽くす必要があるだろう。場合によっては絵を描いたり、写真や動画を見せたりする必要があるかもしれない。そのうえで、カモノハシを知らない人がカモノハシを理解したことになる。それなりに大変だが、その苦労はたいてい報われる。
一方で「ひとり存在」のような詩的言語については、より長い説明が必要になる。この本でも何ページもかけて「ひとり存在」という詩的言語の内実を指し示そうとしている。率直に言って、この説明はカモノハシの何倍も苦労している。また、永井は、「ひとり存在」と同一視できる詩的言語「<私>」について、それこそ何冊も本を書いている。
そして、困ったことに、それでも結局伝わらないこともある。少なくとも僕は、なんとか僕なりに理解できたと思っているが、理解できない人もいるはずだ。カモノハシなら、ほぼ100%の人が理解するが、「ひとり存在」については理解できない人がいるはずだ。
「理解できない」というと受け手の能力の問題のようになってしまうが、そうではない。たまたま、僕は「ひとり存在」については理解できたが、哲学の世界には、僕にはわからない詩的言語が溢れている。それらの詩的言語については、僕は理解できない人に分類されるのだろう。その言葉と受け手の相性の問題から「伝わらない」と言ったほうがいいかもしれない。

8 具体的な経験
では、この理解のできなさ、または伝わらなさとは何なのか。
まず、カモノハシが理解でき、伝わるのは、指し示す対象が明確にあるというのが大きいだろう。哲学的には色々と問題はあるかもしれないが、「ひとり存在」というような実体の無いものに比べたら、カモノハシという語は明らかにはっきりと、あのカモノハシを指している。だから、写真や動画を見せるという手法だって使える。それに比べて、実体のない詩的言語はわかりにくい。

ただし、実体が無いというのは物質でないこととは違う。物質ではなくても、例えば「痛み」「黄色」「恋愛」のような言葉は物質ではないが簡単にわかる。(哲学的に本当にわかっているのか、というような議論はあろうが、少なくとも、「ひとり存在」のような詩的言語のわからなさとは違う。あえて言えば、だいたいわかる。)
これらがわかるのは、具体的な経験があったからだろう。机の角に足の小指をぶつけて痛かった、黄色い花をつけたひまわりを見た、中学3年生のときに初恋をした、というような具体的な経験があったから、「痛み」「黄色」「恋愛」と言われれば、「ああ、あれか。」とわかるのだろう。
だから、詩的言語は、実体がないというより具体的な経験を伴っていないと言ったほうがいいのかもしれない。

9 知っていたことを思い出す
「具体的な経験」という捉え方で、先ほどの「詩的言語には、わかる詩的言語と、わからない詩的言語がある」という問題の理解も進みそうだ。僕は「ひとり存在」という詩的言語は理解できたつもりだが、実は「無の場所」についてはそれほどわかっていない。いや、本の長い説明を読み進めると、なんとなくはわかるのだが、そこに具体的にどのような意味を込めているのか、どこかぼやけている。
それに比べて、「ひとり存在」というような詩的言語は、ふとわかる瞬間があった。筆者がどのような思いで、言葉にならないその何かを、この詩的言語に込めようとしたのかわかる瞬間があった。
それは、まるで、実は既に「具体的な経験」を経て、その何かを知っていたのに、知っていたことを忘れていただけで、それを思い出したような気さえする。
僕は、「ひとり存在」について、すでに経験し、知っていたのに忘れていただけなのだ。

10 否定は全て
詩的言語がこのようなわかり方をする原因は、詩的言語では否定が大きな役割を果たしているということに関係すると思われる。

否定には、特殊な力がある。
一言で言うと、否定により立ち上げられた排中律は、全てを指し示すのだ。
(ここは、入不二基義「あるようにあり、なるようになる」の「排中律が指し示す「全体」」(p.48~)の議論をそのまま使わせていただくので、この一言で済めばそれでいいです。)
読んでいない方に、どういうことか僕なりに説明すると、例えば「ネコである」の否定は「ネコではない」だ。この否定は、まず「イヌ」「ネズミ」「ヒト」といったネコではない色々な動物を立ち上げるだろう。これらは「ネコではない」。また、「リンゴ」「ヒマワリ」といった植物も立ち上げるだろう。これらも「ネコではない」。更には「ダイヤモンド」「月」といった非生物を立ち上げ、「直角」「歴史」といった概念まで立ち上げる。これらも「ネコではない」。だから「直角はネコではないよね。」と問われたら、少々戸惑いつつも「そうだね。」と答えることになる。
この作業を突き詰めると、世の中の全てのものは「ネコではない」ことになる。ただしネコを除いて。「ネコではない」とは、「全て-ネコ」であり、「ネコ」+「ねこではない」=ほぼ全てなのだ。(ここでの論点とは別の視点から例外はあるかもしれないので、「ほぼ全て」にしておく。)
なお、例としてネコを使ったが、ネコロスなのでネコを多用しているだけで、ネコには特に意味はない。絵本でも雲でも何でもいい。力があるのは、ネコではなく否定の方だ。

だから、否定という「ほぼ全体」を立ち上げる力が働いている詩的言語はなかなかぴんとこない。
「<私>」という詩的言語は、先ほどの言い換えをするなら「非私的私」となるが、その前半の「非私」とは「全て-私」のことである。つまり、「非私的私」とは、「全て-私」で「私」ということであり、つまりは、「ほぼ全て」ということになる。
だから、「<私>」とは、先ほどの「ネコではない」の例で挙げられた全て、つまり「イヌ」「ネズミ」「ヒト」「リンゴ」「ヒマワリ」「ダイヤモンド」「月」「直角」「歴史」の全てを含み、しかし「私」だけは含まない「非私」であり、かつ「私」であるということになる。
これは、「ほぼ全て」ということではあるが、それが具体的に何なのか、正直よくわからない。
この、否定が立ち上げる領域の広さこそが、詩的言語をわかりにくくしている原因なのだ。

11 否定は全てではない
一方で、日常的には否定を使っても、そのような困難に遭遇することはない。どうして詩的言語だけがそうなってしまうのだろうか。
日常の言葉では否定は何を意味するのだろうか。例えば「ネコではない」という場合、何を指すのだろうか。
「ネコではない」ものとして「イヌ」「ネズミ」「ヒト」といったものが登場する文脈は容易に思いつく。「なんか物音がするけど、ネコではないな。」なんて言ったら、そのネコではないものはだいたい「イヌ」「ネズミ」「ヒト」あたりだろう。
また、「ネコではない」ものとして「リンゴ」「ヒマワリ」といったものが登場する文脈も無理をすればなんとか思いつく。先生が小学1年生に「ねこではない生き物は何がありますか。」と質問して、生徒が「リンゴ!」「ヒマワリ!」と答える場面だ。
しかし、「ダイヤモンド」「月」」「直角」「歴史」となると、日常の文脈ではなかなか登場しようがない。
つまり、日常的に「ネコではない」というのがだいたい何を指すか、文脈によって、その範囲は既に決まっている。
この「決まっている」は「知っている」に置き換えてもいいだろう。
暗く人の気配のない古い洋館を探索している好奇心旺盛な若者たちが、少し開いた重い木の扉の向こうで物音がしているのに気づき、「あれはネコではない」という会話をしたなら、皆、その「ネコではない」何かは、だいたい幽霊だと知っている。実は月や直角だったりすることはない。
これが、日常的に否定を使っても困らない理由だ。既に知っていて、範囲が決まっているから、日常に否定を持ち込んでも困らないのだ。
先ほど「非A的A」の例として非哺乳類的哺乳類であるカモノハシを出した。この「非哺乳類」という言葉は、だいたい鳥類や爬虫類を思い出させる。カモノハシを知らなくても、非哺乳類的哺乳類と言えば、ニワトリみたいな哺乳類かな、それともヘビみたいな哺乳類かな、と想像を巡らせることができる。非哺乳類には鉱物も含まれるから、ダイヤモンドみたいな哺乳類かな、とは思わない。
だから、カモノハシが卵を産むと言われれば、ニワトリやヘビの卵のようなものを想像することができる。(本当のカモノハシの卵のことは知らないけれど。)

否定は、確かにほぼ全てと言っても良い広大な領域を立ち上げるけれど、日常においては、その否定が指し示すものの察しがだいたいついているから混乱は生じない。だから察しがつかない詩的言語はわかりにくい。
それならば、「ひとり存在」のような理解できる詩的言語は、どうして理解できるのだろう。

きっと、詩的言語についても、ネコではないものや、カモノハシのように、だいたい察しがついているということなのだろう。僕が「ひとり存在」と言われて理解できるなら、その何かについて身に覚えがあり、だいたいあたりがついている。だから理解できる。
僕は、「ひとり存在」について、すでに経験していたのに忘れていたのを、思い出しただけなのだ。そして、「無の場所」について僕がわからないのは、経験していないのか、思い出せないだけなのかはわからないけど、「無の場所」という言葉自身に含まれる否定が立ち上げる広大な領域の中に迷い込んでいるからなのだ。

12 哲学の美しさ
詩的言語は、既に経験している身に覚えがある何かを思い出すことで理解できる。詩的言語は、「<私>」や「ひとり存在」のような用語、それだけで独立した詩的言語なのではない。永井の「<私>」についての考察や、森岡の「まんが 哲学入門」のまんが表現も、思い出すためのプロセスとして、詩的言語を構成する。そのような営み全体を指して、詩的言語というべきなのかもしれない。

だから、読み手の経験をうまく引き出し、詩的言語をうまく伝えようとして、哲学書の書き手たちは試行錯誤する。
当然、「<私>」や「ひとり存在」のような鍵となる用語については、注意深く言葉を選ぶだろうし、その用語を説明する際にも、手を変え品を変え、色々な切り口から説明を尽くそうとするだろう。アフォリズム的に断片的なイメージを重ねたほうがいいと思えばそうするし、思考実験を使って具体的イメージを喚起したほうがいいと思えばそうするに違いない。
そして、そのような工夫により、よりうまく詩的言語が伝わるということこそが、哲学的な文章の美しさなのではないだろうか。
だから、いわゆる美文ではなくても、哲学的に美しい文章というものがある。
僕にとって、森岡が「ひとり存在」を伝えるために「まんが哲学入門」で描いた例のまんが表現は美しいし、永井が「<私>」を伝えるために行っている分裂の思考実験の記述は美しい。

13 非言語的言語
最後に、詩的言語も日常の言語も大差ないという話を訂正しておきたい。
そこには明確な違いがある。
「ネコ」のような日常の言葉は、普段は確かなものとして使っていて、わかったようなつもりでいても、哲学的に考えるとなんだかわからなくなってくる。
ネコについて子供に説明するときに、猫カフェかなんかで、「ほらあそこにいるでしょ。ほらあそこにも。あれがネコだよ。」なんて指差しで説明しても、「じゃあ、あれは?」と別のネコを指さされたらきりがない。
それならばと、「四本足でニャーってなく動物だよ。」と言っても、交通事故で足を失った奴や、内気でなかない奴のことを示すことができなくなる。
日常の言葉は、こんな、ちょっとした思考実験をするだけで、その不確かさが浮かび上がってくる。
一方で、「ひとり存在」のような詩的言語は、最初はわからないが、一旦わかってしまったら、もう揺らぐことはない。ある種の確かさがある。
日常的な言葉は一見確かなように見えて、その根底には実は不確かさがあり、詩的言語は、逆に、最初はぼんやりとしか捉えられないが、その根底には実は確かさがある。
そのような逆転が生じるのは、「詩的言語」という言葉自体が、非言語的言語とでも言うべき詩的言語だからかもしれない。

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