恋愛と哲学カフェ

PDF:恋愛と哲学カフェ

哲学カフェで知り合った人と飲んだときに、2つの話が出た。「モテるにはどうすればいいのか。」という話と「哲学カフェでの対話のペースは人によって違うから進行役は難しい。」という話だ。この2つは関係なさそうに見えて、実は結構関係あるのではないかと思ったので、文章にしておく。

「モテるにはどうすればいいのか。」という問いの答えとして、そのとき僕が思いついたのは、「相手が望むことの半歩先を提供する。」というものだった。
会社の営業などでよく言われるようなことだけど、男女の恋愛でも同じではないか。
(文字数を減らすためLGBTs的な観点は抜きでいきます。)
例えば、意中の女性を落としたいなら、女性がしてほしい行動の半歩先を読んで行動するといいと思う。ケーキが食べたいと相手が口に出す前にケーキを食べようと誘う。できれば、相手がケーキを食べたいと思いつく直前にケーキを食べようと誘う。(まあ、できないし、落とそうとしないけど・・・)
または、こんなことをされたら落とされてしまうと思うのは、僕がその女性に投影しているイメージの半歩先を提供されたときだ。僕が知らなかった少しマイナーな本を紹介されたり、思いもしなかったタイミングで笑顔を見せてくれたり。こういう半歩先があると、ころっと落ちてしまう。(まあ、そんなことされないし、落ちないけど・・・)

よく言われることなので簡単にしか言わないけれど、「半歩先」というのは重要だ。一歩先では歩幅が大きすぎる。ケーキを食べたいと思う1時間前に「ケーキを食べよう」と言われても、まだ食べたくないし、いくら僕が哲学好きでも、いきなり自筆の論文をプレゼントされたら引いてしまうし、脈絡なく全力で笑顔を振り向けられても困ってしまう。
「想定内」と「想定外すぎて意味不明」の間のグレーゾーンを狙う必要がある。
そのことを強調するためには、半歩先は「小さな驚き」と言い換えたほうがいいかもしれない。「ケーキを食べたい」と言われてから、「じゃあケーキを食べよう」と言われても、そこには驚きはない。一緒にパフェを食べた直後に「ケーキを食べよう」と言われたら、驚きすぎて引いてしまう。「あ、気づかなかったけど、そういえばそうだね」というくらいがちょうどいい。

ここから、恋愛から哲学カフェの話につなげていきたい。

この驚きは、哲学カフェにおける驚きと同じものだと思う。

ケーキのことなんて考えてもいなかったのに、「ケーキを食べよう」と言われてみたら、そういえば、私、ケーキが食べたかったんだ、と気付いたとき。
哲学が好きなんだ、と話していたら、相手から、知らなかったけど、確かに読んでみたくなるような哲学書を紹介されたとき。
家の事情で人知れず落ち込んでいたら、同僚が励ますような笑顔を向けてくれたとき。
そこに小さな驚きを感じる。
これは、他者に対する驚きだ。
より長い言葉で表現するなら、「他者が自分の心に染み込んできて、自分の心の中の気づかなかった思いを見つけて、掬い取ってくれたような感覚に対する驚き」とも言えるだろう。
確かに私はケーキが食べたかったんだ、確かに僕はこの本を読みたかったんだ、確かに僕はこの笑顔が欲しかったんだ、というように。

似たようなことは哲学カフェでも起こる。

例えば、哲学カフェで、「正しさ」をテーマに話していたとする。
僕は、論理的整合性みたいなことしか思いつかずに話していたけど、そこに、誰かが倫理的な正しさの話をぶち込んでくる。
僕は、あれ、そんな話してたっけ、と一瞬驚く。
だけど、よく考えてみれば、「正しさ」の話なのだからつながっているし、論理的整合性と倫理的な正しさとは、どんな関係があるのだろう、と展開することもできる。これはとても興味深い問題だ。
その結果、実は僕は、倫理的な正しさの話もしたかったんだ、と気づくことができる。
これは、哲学カフェでの相手の言葉が自分の心に染み込んできて、自分の心の中の気づかなかった思いを見つけてくれて、掬い取ってくれたと言ってもいいだろう。

そこに恋愛感情がないだけで、さきほどのケーキの話での他者に対する驚きと同じものだ。
僕は、哲学カフェの最大の魅力は、この驚きを味わえるところにあると思う。

しかし難しいのは、哲学カフェでも、この驚きは、半歩先の小さな驚きでなければいけないということだ。
「どうして過去の記憶が正しいと言えるのか。」という話をしているときに、いきなり「だけど、全部、愛だよね。」と言われたら、たいていの人は意味がわからず戸惑ってしまうだろう。
よくよく話を聞いてみると、「この世界の根本原理には愛がある。→愛という原理によりこの世界は整合している。→過去の出来事も過去の記憶が正しいという思いも世界のあり方として整合しているはずだ。」(例なので適当です。)というように、その人の頭の中では確かに話はつながっているとわかるけれど、ちょっと歩幅が広すぎる。
(あえて言えば、なんとか話を繋げられたなら、まだ半歩の範囲内とも言えて、本当に半歩を超えてしまう例としては、繋がりが不明のまま終わってしまった発言のほうがいいかもしれない。)
飛躍があり、かと言って飛躍しすぎない、自然な対話のペースのなかで受け止められるような半歩先の小さな驚きというのが哲学カフェでは大事となる。

ここでやっと、冒頭での「哲学カフェでの対話のペースは人によって違うから進行役は難しい。」という話につながる。
僕は進行役をしていて、人によって、どのくらいの強さ、頻度での驚きを好むかに違いがあると感じる。
驚きというのは、あればあるほどいいものではない。
僕が好ましいと思う驚きとは、ただ相手の言葉に驚くだけでなく、言葉が自分の心に染み込んできて、自分の心の中の気づかなかった思いを見つけて、掬い取ってくれるというプロセスを経るものだ。
これは、つまりは、自分の心の中を再構築し、自分が変わるということと言ってもよい。
このためには、ちょうどいい半歩先の驚きであることが重要となる。今出した例のような飛躍しすぎた一歩先では飛躍が大きすぎるが、飛躍がなさすぎてもつまらない。また人によってどの歩幅がよいかは違う。ある人にとっては半歩先でもある人には一歩先になってしまうことはある。
また、この自分の心の再構築という大事業を頻繁にやっていたら疲れてしまい、体がついていかなくなってしまう。どれだけの驚きを受け止められるかどうかには、体力の問題が関わるだろう。
また人によって自分の心の中を吟味するのに要する時間も違うだろう。頭の回転の速さの違いもあるだろうけど、問題意識の違いがより大きいだろう。普段考えなかったことなら吟味にも時間もかからないけれど、自分にとって重要な問題なら吟味に時間を要するはずだ。
自分の考えを再構築し変えることに対する慣れもあるだろう。自分の考えを変えることは快感もあるけど不安だ。このくらいの変化ならマイナスよりプラスが大きいと予測し、安心して変化を受け入れるためには慣れが必要となる。
更には、進行役をしていての実感だけど、受け流す技術というのもあると思う。本当なら自分の根幹を揺るがすような驚きのはずだけど、それを受け入れていたら進行役なんてできなくなってしまうので、とりあえずは軽い驚きとして消化し、先に進めるという技術だ。これは推奨される技術ではないが、この技術を持っている人と持っていない人との違いは確かにある。
違いの原因の話はとりあえずここまでにしておくけれど、様々な理由から、人によって、どのくらいの強さ、頻度での驚きを好むかに違いがあるのは確かだ。

そして、この違いが、対話のペースの違いにつながる。ぽんぽん対話を展開し、たくさん驚き、たくさん発言する人から、多くを語らず、ゆっくり対話し、一つの驚きを大事に抱え、もしかしたら哲学カフェが終わったあとも考え続ける人まで。
みんなが一緒にいないと驚きも生まれないけど、一緒にいると人によっての違いが際立ってしまう。
進行役としては、うまくペースを合わせ、この驚きという哲学カフェの最大の魅力をより多くの人が味わってもらいたいから苦労するのだ。
一方で、僕は進行役であっても、僕自身のペースで、僕自身が好ましいと思う驚きを追い求めることしかできない。そして、たいていの場合は、それでもなぜかうまく回ってしまう。だから苦労していないとも言える。そこにも対話の不思議がある。

・・・

これで予定していた話はおわりなのだけど、読んでみても、やっぱり恋愛での驚きと哲学カフェでの驚きは違うと思う方も多いかもしれない。
やはり2つの驚きは同じものだと伝えるためもう少し話を続けることにする。

これまで僕は、恋愛も哲学カフェも「相手の言葉(や笑顔などの仕草)が自分の心に染み込んできて、自分の心の中の気づかなかった思いを見つけて、掬い取ってくれるという小さな驚きがある」という点で共通点があるとしてきた。
これは、別の言い方をするなら、「他者が自分の変化を促す力になってくれる」ということだ。
自分だけでは、ケーキを食べることはできなかった。(なぜなら、言われるまでケーキを食べたいと気づかなかったから。)
自分だけでは、その哲学書に出会うことはできなかった。(なぜなら、紹介されるまで、その本を知らなかったから。)
自分だけでは、その笑顔で救われるとは思えなかった。(なぜなら、その笑顔をされるまで、笑顔に出会えるとは思ってもいなかったから。)
自分だけでは、「正しさ」には論理的整合性とは別の意味があるとは思えなかった。(なぜなら、言われるまで、倫理的な正しさという側面があるとは気づけなかったから。)
だけど、その相手が気づかせてくれて、新しい自分への変化を促してくれたのだ。

更に言えば、この変化とは、成長するということであり、未来を切り開くということでもある。
成長というと、なんだか大人という理想形があって、未熟な子供がその理想形というゴールに向かっていくという感じがするかもしれない。だけど僕がここで成長という言葉に込めたいのは、そうではなくて、ポジティブな変化という程度の意味合いだ。自分が望ましい方向に向かって、今、この瞬間に変わっていくこと、それが成長することだ。

この成長のためには、ここまで話してきた「驚き」が重要となる。
変わるためには、新しい何かに気づかなければならない。これまで知っていたことではなく、新たに何かを知らなければならない。
しかし、それは、完全に新しい自分の外にあるものでは駄目だ。完全に自分から離れたものには気づくことさえできない。
新たに気づけるものは、実は自分のなかにあったものを、新たに再発見するような、半歩先の小さな驚きを伴うものでしかない。

そして、このような驚きは、恋愛であれ、哲学カフェであれ、他者しかもたらすことはできない。
どうして他者なのかといえば、それは、他者とは、自分ではないけれど、全く自分からかけ離れたものではない、という中間的な特別な存在だからだ。
実は自分の中にあったものを再発見するというような中間的なことは、このような中間的な存在にしかできない。

他者は自分ではないのは当たり前として、他者は自分からかけ離れたものではないというのは異論があるかもしれない。自分とは全く違う他者もいる、と言いたくなるかもしれない。
しかし、それは僕の他者という言葉の使い方とは違う。
どんな嫌なやつでも、聖人でも、他者とは、完全に自分と違う人ではない。全く自分と違うなら、それは全く意思疎通もできない宇宙人か、または石ころのようなものになってしまう。(宇宙人は微妙で、宇宙「人」と認めるなら、それは他者とも言える。イルカのような動物も同じ。)
殺人者であれ、ヒトラーであれ、釈迦であれ、そこに人間性を認めるなら、それは他者だ。他者とは、その相手を自分と同じ人間として認め、相手の言葉をきちんと聞き、尊重することができる人のことなのだ。
そして、恋愛し、または対話するとは、そのような他者を自分に影響を与え、自分に変化と成長をもたらしうる存在として受け入れ、ともに生きることなのだ。

とても駆け足なので疑問もあると思うけど、ここまで話が進むなら、恋愛も哲学カフェもそんなに変わらない、ということはなんとなくわかってもらえるのではないだろうか。

・・・
おまけ 飲んだときに話したことのフォロー


恋愛について出した半歩先の驚きの例は、大きく2つに分類できる。
一つが、期待する行動の半歩先であり、もう一つが、投影するイメージの半歩先だ。ケーキを食べようと誘うのは行動の半歩先で、本のプレゼントや笑顔は投影するイメージの半歩先となる。
飲んでいたときは、なんとなく、前者が女性の思考回路であり、後者は男性の思考回路だと思っていた。女性は現実的な行動で判断し、男性はイメージ、あえて言えば妄想で判断するという訳だ。
まあ、男女の脳の構造の違いなどから、実際、そのような傾向があるのかもしれない。だけど、よく考えてみれば、それは、あくまで程度の差であり、あえて男女の差を強調する必要はないだろう。人によりウェイトの置き方に違いはあっても、人には現実的な行動を重視する側面と、妄想を重視する側面との両方がある。デート中に「ケーキを食べよう」と言われてうれしいのは、ケーキを食べるという行動ができるからだけではなく、「ケーキを食べよう」と誘ってくれるような男性だと妄想できるからでもあるはずだ。


恋愛における僕の(多分多くの男性の)一番強力な妄想は、「僕のことを評価してくれて、認めてくれる女性がどこかにいる。」という妄想だろう。この妄想の半歩先が提供されたらもう・・・力を入れていた大仕事を終えてホッとしているときに、「先輩のプレゼン、勉強になりました!」なんて可愛い後輩に言われたら、まずい第一歩を踏み出してしまうかもしれない・・・

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