1 NLPの話
NLP(Neuro Linguistic Programing)という怪しげ名前の心理療法的な技法がある。
これによれば、世の中の人は、視覚優位タイプ、聴覚優位タイプ、皮膚感覚優位タイプ、の3種類に分けられるそうだ。
(複数のタイプの混在とか、程度の違いとかもあるようなので、あくまで単純化すると。)
正直言って、疑似科学に区分されうるもので、科学的な根拠は怪しいけど、このアイディア自体は面白い。

NLPが主張する通りの違いかどうかは別として、人によって物事のとらえ方が全然違うという実感は確かにある。
そして、相手に対して、自分と違うタイプかもしれないと思って接することは、とてもコミュニケーションに役立つと思う。
そうすれば、相手と自分との間ですれ違いがあったとき、それを相手の態度や誠意のせいではなく、また自分の能力のせいでもなく、お互いの理解の仕組みの違いが原因と捉えることができる。
そうすれば、相手や自分を責めることなく互いに歩み寄ることができ、現実的なやり方で少しずつでも理解を深めることができる。
NLPに限らず、人を分類するというアイディアは、相手を既存の枠にはめて理解した気になるためではなく、お互いの違いに気づくために使う限りにおいては十分に意義がある。

ただし、互いの違いに気づいたうえで、その違いがどのようなものか具体的に明らかにするためには、NLPなどの既存のツールを手がかりとしては使ってもよいが、それだけにとらわれるべきではない。
なぜなら、相手と一緒に確認するというのが、その違いを明らかにするための唯一の道だからだ。
自分と相手の具体的な違いは何か、という問いの答えは、自分と相手しか持っていない。
NLPのような誰かが考えたツールを使ったとしても、それで本当の答えにたどり着いたか確認する作業は、自分と相手の二人で行うしかない。
他者理解のための近道はないのだ。
これは、相手と対話し、徐々にすれ違いを埋め、違いを確認するというやり方でしか他者の理解はできない、と言ってもよい。

2 皮膚感覚の話
とは言いつつ、このNLPによる三タイプの分類は興味深い。
人には五感があるとされる。そのなかでもマイナーな皮膚感覚(触覚?)を取り上げるという着眼点が面白い。
NLPにおける視覚優位タイプ、聴覚優位タイプ、皮膚感覚優位タイプの3分類によるなら、僕はかなり皮膚感覚タイプの度合いが高いと思う。

僕は身体に閉じ込められているような気分になることが時々ある。
たいていは、あんまり良い感覚ではない。
湿気とか暑さとか、そういう不快感を感じる皮膚に包まれた存在になったような気分になることが多い。
そんなときは、魂が皮膚の内側に閉じ込められたような閉塞感を感じる。
本当はもっとのびやかで自由であるはずの魂がぎゅうぎゅうに押し込まれたような不快感だ。

だから、僕は、自分の身体からの解放感を求めて、ライブに行ったり、酒を飲んだりしている気がする。
一瞬だけでも皮膚という壁を壊して、僕の魂が飛翔できるように。
また、ヨガや呼吸は換気のようなものなのかもしれない。
こもった空気を入れ替え、身体内の環境を整え、魂が住みやすくするように。

こんなことを考え、自分の身体に訪れる感覚を丁寧に思い返してみると、たまにではあるが、同じく身体に閉じ込められた感覚であっても、不快感を伴わないこともあることを思い出した。どちらかというと落ち着いた気分になる。
そんなときは皮膚という革袋に満たされた羊水のなかに、魂というか小さい自分が漂っているような感じがする。
このとき、僕をつつむこの身体は母のようなものなのかもしれない。僕の皮膚は小さな僕のことをやさしく包み込み、外界から守ってくれている、そんな存在だ。

更に思い出してみよう。もう少し頻繁にある身体感覚として、僕自身が、身体に乗り移った魂になったように感じることもある。僕は今、僕の身体に憑依しているんだなあ、という感覚だ。
これも、あまり不快感とは結び付かない。
こんなとき、僕の魂は、皮膚よりも外側に存在している気がする。厳密には、僕は、僕の身体の数センチ上から、見下ろしているように思う。
僕は僕の外側に位置するので、これは、皮膚感覚というより、皮膚感覚を手放したような感覚と言ったほうがいい。そんなとき、僕は、開放感とまではいかないが、閉塞感はない。最高ではないが、それほど悪くない気分だ。

ここまで色々な身体感覚を列挙してきたが、たいていは、僕はなにも身体感覚など意識していない。それは、たいていの場合、僕は魂の場所などというものは考えていないということでもある。
僕がペットボトルを手に取るとき、僕の意識はペットボトルにしか向いていないし、猫をなでるときは猫にしか向いていない。
そんなとき、僕の魂はどこにもない。
だが、思い返すと、そんな身体感覚がないのが不思議になることがある。例えば、僕が、先ほど挙げたような閉塞感というか不快感に襲われているとき、それまで、特に身体感覚を感じていなかったことが不思議になる。
あのときだって魂はどこかにあったのに、それを意識していなかっただけじゃないかと思えるのだ。
あのとき、魂はどこかわからないけれど、どこかにあったのだ。それはどこにでもあったと言い替えることもできる。
そこに魂はなかったと言われたら否定したくなるし、そこに魂があったと言われても否定したくなる。だから、どこにもないし、どこにもあるということだ。

以上、僕が感じる、魂についての身体感覚を列挙したが、そこには法則性があるように思う。実感としての魂の大きさとでも言うべきものできれいに整列できるのだ。
小さい順に並べるとこうなる。

1 皮膚内の羊水に漂う魂
2 皮膚内に押し込まれた魂
3 身体の数センチ上から憑依した魂
4 どこにもなく、どこにもある魂

このように4類型に分けると、それが僕の世界観に符合しているように思える。

「類型2:皮膚内に押し込まれた魂」は僕の独我論的世界観に直結しているのではないか。
確かなのは僕の皮膚内の魂だけであり、外界からは皮膚に遮られ、隔絶され、閉じ込められている感覚。
僕は今まで、僕の独我論的傾向は、純粋にデカルト的な思考の結果として生じたと思っていた。
しかし、そうではなく、この身体感覚が僕の独我論的世界観の根底にはあるのかもしれない。

「類型3:身体の数センチ上から憑依した魂」は、それよりは一般的な世界観につながるだろう。
この世界には、何十億の人間がいる。そのうちのこのただ一つの身体に僕の魂は宿っている。
これは、魂や意識と呼ばれるような何かが存在すると考える多くの人が持っているイメージだろう。
つまりこれは、いわゆる心身二元論だ。
身体のような物質世界に重ね合わされるように、魂のような精神世界があり、それが憑依というかたちで重ね合わされるのだ。
こう考えると、心身二元論が常識的な考え方となっているのは、このような実感を伴っているからなのかもしれない。

「類型1:皮膚内の羊水に漂う魂」は、ヨガや瞑想といった捉え方に近いように思う。
自分自身を、感覚を感じる身体という存在ではないとし、もっと小さな存在だと考える道筋だ。
僕は「ここ」に居るよ、と言ったとき、「ここ」とは、この身体ではない。
例えば、僕の指先は、僕が感覚を感じたり操作したりする客体であり、主体ではない。
感じたり操作したりする主体は、この身体ではなく、そのもっと内側にある。
とすると、主体とは、わずかな点のような小さなものだという感じがある。
皮膚内の羊水に漂う魂という感覚は、自分自身とは、点のような微々たる存在だ、という世界観につながる。

それならば、「類型4:どこにもなく、どこにもある魂」とは、ある種の汎心論につながるかもしれない。
類型1の道筋とは逆に、主体をどこまでも拡大し、世界すべてが私であるという道筋だ。
当然、世界すべてが私などというのはおかしい。だけど、そのおかしさは、一方で、世界すべてが私ではないという方向で訂正される。
だから、魂はどこにもなく、どこにもある。
世界を完全に俯瞰的に捉えるならば、世界のどこにも私の魂はみつからない。そこにあるのは私の身体だけだ。
だが、一方で、魂はどこかにはなければならない。しかし、俯瞰した世界観においては、魂には特定の居場所はない。どこかに魂を位置づけるならば、どこにでも、というかたちで位置づけるしかない。
そんな汎心論的な矛盾した広がりを持つ魂こそが、ここでの魂だ。
この道筋は、類型1とは逆のベクトルではあるが、やはりヨガや瞑想といった捉え方に近いように思う。

類型1と類型4は大小の違いはあれど、極端に推し進めると、ある種の東洋神秘的な考えに通じる。僕がヨガや瞑想といった東洋的なものに惹かれるのも、やはり、僕の身体感覚が契機となっているのかもしれない。

このように考えると、僕の哲学観は、僕の身体感覚に影響されているように思える。
または、僕の哲学は、僕の身体感覚に裏打ちされていると言ってもいいかもしれない。
もしかしたら、NLPで言う皮膚感覚優位タイプの人は、僕と似たような哲学的傾向を持っているのかもしれない。
多分、それは、あまり幸福な道ではない気がする。もし、このような身体感覚がなく、こんな哲学に惹かれることがなかったら、もっと生きやすかったのではないかなあ、とも思う。

だけど、まあ仕方ない。こんな身体とうまくやっていこう。
と僕は少し上から身体を眺め、身体をいたわってやることにする。

そんなふうに身体を捉えることは若い頃は少なかった気がする。
魂のありかを身体の位置と重ね合わせ、操作できるようになったのは、こうして年をとり、色々考えたり、ヨガをやったりしているからかもしれない。
とすると、こうして生きてきたのも無駄ではなかったかもなあ、とも思う。