1 この文章の目的

僕がこの文章を書いたのは、哲学プラクティス連絡会の機関誌「みんなで考えよう」(http://philosophicalpractice.jp/journal/journal2/から読めます。)に掲載されている漫画「真理のスイカ畑でつかまえて」(以下、「スイカ畑」)が、誤解されるのを危惧するからだ。
「スイカ畑」はぶっとんでいる。かなりの割合の人は、「なんだこれ?」と思うのではないか。「読むとテツガクが終わっちゃう漫画」と銘打たれているが、これでテツガクが終わる訳ないだろ、なんていう声が聞こえるような気がする。そして、理解されず、忘れ去られてしまうかもしれない。
僕は、この文章で、「スイカ畑」はそのように扱われるべきものではないということを明らかにしたい。よって、既に「スイカ畑」に価値があると考えている方は、この文章を読まなくていいかもしれない。なぜなら、この文章は、あなたとは違うかたちで真理のスイカを切り刻んだだけのものかもしれないのだから。

2 真理のスイカ説の評価

真理とはスイカのようなモノというのは、ぶっとんでいるようで、実は、かなり成功している比喩だと思う。
まず、真理にかたちがあるなら、球という完全な形状がふさわしい。
また、人間がひとりで抱えることができる限界に近い重さであり、身近にあるものと言えば、スイカしかない。このサイズ感と重量感は真実の比喩としてちょうどいい。
更には、甘さを真理に例えるなら、あまり甘くないところから、より甘いところに進むという、弁証法的な構造を組み込むことに成功している。これは、重層的なあり方をしている真理の比喩としては、いい線をいっていると思う。(この真理観は、コリングウッドの「哲学の方法について」で示したものに近い。)
当然、比喩なのだから足りないところはある。真理には、種はないし、縞模様もないだろう。
そこには目をつぶるとしても、真理は、スイカのように冷たく、硬いものではない。真理とは、冷たいだけでなく暖かく、硬いだけでなく柔らかくもあるはずだ。なぜなら、いずれか一方であったら、その真理はもう一方が欠けた不完全なものになるからだ。また、両者をとりこんだ弁証法的なあり方を強調するなら、真理とは、スイカのように静的なあり方はしておらず、もっと動的なものだ、とも言いたい。だけど、それを漫画で表現しろというのは、望みすぎというものだろう。

3 真理のスイカを言葉という包丁で切ることの不可能性

そして、その真理の象徴としてのスイカを「切る」という描写が「スイカ畑」では繰り返し登場する。多分作者も意識していると思うが、スイカを切る包丁とは、「言葉」の比喩であることは明らかだろう。
スイカという真理を、言葉という包丁で切ることこそが、哲学カフェでの哲学対話において行われていることなのだ。

では、哲学カフェにおいて、誰のスイカを誰が切っているのか。
「スイカ畑」では、登場人物、つまり哲学カフェの参加者がみんなで、ひとつのスイカを取り扱っているように見える。
しかし、それは誤りだろう。
僕の考えでは、一人ひとりがそれぞれ自分だけのスイカを持っている。他人のスイカは見えないし、ましてや手を伸ばして切ることなどできない。
あとがきで、この漫画はウィトゲンシュタイン的とされているけれど、まさにウィトゲンシュタインの箱の中のカブトムシのようなものとして、このスイカはあるはずだ。
なお、カブトムシの比喩とは、私的言語の文脈で登場するもので、自分だけが覗ける箱の中に入っている自分だけのカブトムシは言語ゲームに乗せることはできない、という文脈で登場する。
だから、「スイカ畑」の「天使の3分クッキング」において、スイカの切断は失敗する。 なぜなら、真理を丸ごと言語で他者と共有するなどということは、ウィトゲンシュタインが言うとおり不可能なのだから。

4 「哲学酔いどれ派」の扱い

「一人ひとりが、それぞれ自分だけがわかるかたちで自分だけの真理というスイカを抱えている」という世界観を認めてもらえるならば、「スイカ畑」における「哲学酔いどれ派」や「哲学ソウゾウ派」についても、僕なりの解釈を打ち立てることができる。
「哲学酔いどれ派」とは、星一徹のように「疑うことが哲学です」とちゃぶ台返しする人とされるが、これは、自分の手元に、自分だけのスイカがあることに気付いていない人だと言えるだろう。僕はこの「哲学酔いどれ派」を否定的に扱うが、カブトムシの比喩も用いて私的言語を否定した後期ウィトゲンシュタインは、ある意味、この流派に属するとも言えるので、哲学者のなかでは多数派なのかもしれない。
僕は、自分の手元にはスイカなどないという「哲学酔いどれ派」の主張を否定するために、プラトンが提示した探求のパラドックスを用いることにする。探求する対象を知らなければ、そもそも探求のしようがないし、一方で、既にその対象を知っていれば、やはり探求のしようがない。つまり、探求は不可能ではないか、という問題設定だ。
このパラドックスの解決策として、プラトンは想起説を提示する。何かを知るとは、つまりは既に知っていたことを思い出すことなのだ、というアイディアだ。
これは、一見して詭弁のように思える。しかし、探求のパラドックスを認め、それを正面から答えようとするなら、想起説と全く同じではないにしても、既になんらかを知っているというような考え方を取らざるを得ない、と僕は考えている。(僕は、コリングウッドが「哲学の方法について」で示したものが最もきれいな答え方だと思っている。)
プラトンの想起説的な考え方を認めるならば、人は、既に真理というスイカを抱えていることになる。プラトンならば、それをイデアと言うだろう。だが、残念ながら、そのことを忘れてしまっている人がいる。それが「哲学酔いどれ派」のおじさんだ。
自分の手元にある真理を見失い、自分の外に真理を求めるから、彼はどこまでも既に手に入れたものを疑い、疑いの先にある何かを求める。そこには何もないのに。 この滑稽さこそが、「スイカ畑」での「哲学酔いどれ派」に与えられた役割なのだ。

5 「哲学ソウゾウ派」の扱い

「スイカ畑」では哲学カフェ界隈の滑稽な人種として、もうひとつ、真理のスイカを理解しつつも、それを調理したがる人である「哲学ソウゾウ派」が挙げられている。
「スイカ畑」においては、「哲学ソウゾウ派」は否定的に扱われている。なぜなら、真理というスイカは丸ごとそのままに他者と共有することが可能なものとされているからだ。共有できるものを、あえて切り刻む必要はない。そこにも滑稽さがあるという訳だ。
しかし、残念ながら、その点は同意できない。
スイカを丸ごとそのままで誰かに手渡すことなどできない。真理というスイカを誰かに伝えようとするなら、言葉という包丁で切り刻み、なんとか伝えようと試みるしかない。
(また、今回の話からは脱線するが、自分自身で、自分が抱えるスイカを吟味し、このスイカがどのようなものかを、より明晰に把握するためにも、言葉という包丁を経由せざるを得ない。)
しかし、残念ながら、切り刻んだスイカは、もとのスイカとは似ても似つかないものに成り果てている。なんとか誰かに自分の真理を味わってほしくて、スイカのフルーツポンチを作ったと思っても、自分の手元には、全く伝わらなかったものとして、丸ごとのスイカだけが転がっている。 誰かと真理を共有しようとするなら、どこまでもスイカを切り刻もうとする「哲学ソウゾウ派」であることは免れることはできない。それが、どこまでも失敗する試みだとしても、だ。どうも、僕自身は、この「哲学ソウゾウ派」に近いようだ。

6 「スピリチュアル派」登場

なお、「スイカ畑」の作者のような人種は、あとがきで揶揄されているように「スピリチュアル派」と名付けるのはどうだろう。
先ほど言ったように、これは、いわば、真理というスイカを自ら抱えていることを知っていて、更に、それを、丸ごとそのまま誰かに手渡すことも可能だとする考え方だ。
このような考え方をする人は、それほど少なくはないように思う。
「哲学ソウゾウ派」である僕から見ると、仏教のような東洋哲学的なものに真理を見出している人や、愛や、魂や、時空や、因果や、科学といった、なにか特定の概念に真理を仮託している人は、「スピリチュアル派」という同じジャンルに分類できるように見える。
確かに彼らは真理というスイカをしっかりと抱えているのだろう。愛にせよ、魂にせよ、時空にせよ、因果にせよ、科学にせよ、仏教的な概念にせよ、彼らが用いる言葉が、そのスイカを描写していないとは言わない。
しかし、いくら難解な言葉であっても、いくら気の利いた言葉であっても、残念ながら、どのような言葉を使っても、その言葉を使った時点で、スイカは切り刻まれてしまっており、僕のもとには、その無残な残骸しか届かないのだ。彼らと、スイカを共有することはできない。
(このことを僕は、「スイカ畑」が載っている本と同じ本に、スペシャルワードという言葉を使って描写しています。)

7 三つの流派の関係と「スイカ畑」の評価

ここまで「哲学酔いどれ派」、「哲学ソウゾウ派」、「スピリチュアル派」と三種類の人種が登場したが、この三者の関係は複雑だ。
確かに、丸ごとのスイカを重視する立場にある「哲学ソウゾウ派」である僕は、「哲学酔いどれ派」に対する限りでは「スイカ畑」の作者のような「スピリチュアル派」と共同戦線を組むことができる。
しかし、言葉という包丁も重視する立場にある「哲学ソウゾウ派」は、「哲学酔いどれ派」と手を組み、究極的には言葉を否定せざるを得ない「スピリチュアル派」に対峙することもできる。
哲学カフェ界隈では、そんな三角関係が展開されているのではないだろうか。

以上は、哲学のかなり奥底に至ろうとしている話であり、「読むとテツガクが終わっちゃう漫画」というのは言い過ぎにしても、「スイカ畑」が、そこにいざなう深さを持つ漫画であることは間違いないように思える。

8 対話の場の力 「哲学ソウゾウ派」視点

ここからは、「スイカ畑」を離れ、僕自身の哲学の話になるが、「哲学ソウゾウ派」と「スピリチュアル派」は、ある特別な関係にあると思う。二人が手を携えれば、「哲学酔いどれ派」を置き去りにして、スイカを丸ごと皆で味わうことができる世界にたどり着けると思うのだ。

その道筋は哲学カフェの現場で見つけることができる。
僕は「哲学ソウゾウ派」として、自分の真理を言葉で切り刻み、なんとか理解し、そして、なんとか他者に伝えようとしている。
その試みは、これまで述べたとおり、ウィトゲンシュタインの箱の中のカブトムシの比喩にあるような困難により、失敗せざるを得ない。
しかし、それでも、なぜか、哲学対話においては、その伝達が成功し、確かに他者に伝わったと感じる瞬間があるのだ。
それは自分が聞き手の側であっても同じだ。哲学カフェにおける誰かの発言が、その人の真実のスイカを垣間見せてくれたと感じるときが確かにある。
日常の生活ではなかなかないことだけど、哲学カフェにおいては、対話がうまく進み、盛り上がったとき、ほんの一瞬でも、参加者が皆、ひとつのスイカを見つめ、真実を共有していると思える瞬間がある。実体験として、僕はそう感じる。
そのとき、スイカは、対話の輪の中心に浮かんでいる。対話の場においてこそ、完全な丸ごとのスイカが、皆の前に姿を現すのだ。 そのとき、その丸い物体をより正確に例えるならば、それはスイカではなく、コミュニティーボールとしたほうが適切かもしれない。真理とは、ときには、毛糸のように柔らかく、手に馴染み、姿を変える存在でもあるのだ。

9 対話の場の力 「スピリチュアル派」視点

一方で、「スピリチュアル派」からも似たような道をたどることができるだろう。
「スイカ畑」には、スイカを共有した3人の主人公たちが登場する。彼らは、彼らの間では真理を共有していることを前提に、それを語ることができる哲学カフェを探している。
つまり「スピリチュアル派」の人であっても、最初から全ての人が真理を共有しているとは考えていない。仏教であれば仏教を信じる人だけが真理にアクセスできるように、「スイカ畑」では彼ら3人だけが愛という真理を知っている。その限定がある一方で、なぜか、これから、仏教にせよ、愛にせよ、選ばれし者のみが知っている真理は、多くの人に広めることができる、ということになっていなければならない。そうでなければ、この「スイカ畑」の物語は成立しない。
そのファンタジーを成立させるためには、どこかで、対話の場では真摯な言葉で真理を伝えることができる、という対話の場の力を導入しなければならない。主人公たちが理想的な対話の場を探しているということは、その象徴だろう。
以上は、対話の場で「哲学ソウゾウ派」がたどった道を、逆向きにたどるということにほかならない。「哲学ソウゾウ派」は、対話の場において、スイカという真理を伝えられることに不思議を感じる。それに対して、「スピリチュアル派」は、それを当然の前提として考え、それをただ求め、そして時に伝わらないことに傷つく。という違いがあるだけなのだ。

10 丸ごとのスイカを味わう

「哲学ソウゾウ派」によれば、言葉による真理の伝達など不可能なはずなのに、哲学対話の場では、なぜか奇跡的に成立することがある。しかし、ホーリズム的な視点も踏まえれば、真理などというたいそうなものではなくても、例えば「鳥」などという言葉がきちんと伝わることも奇跡と言える。「鳥」という言葉の意味を定義するためには、「脊椎動物」という言葉を使わなければならないが、「脊椎動物」という言葉を定義するためには「鳥」という言葉を使わなければならない。というように、すべての言葉は互いに絡み合ってひとつの構造となっており、その中からひとつの言葉だけを取り出して論じることはできないというのが、ここでのホーリズム的な考え方だ。だが、それでも、なぜか「鳥」という言葉で鳥について伝達できる。これが奇跡だ。
この奇跡を認めるならば、どこかで「スピリチュアル派」が言うことを渋々ながら認めなければならない。
一方で、「スピリチュアル派」も、これだけ伝わらない現状を踏まえるならば、謙虚に「哲学ソウゾウ派」の批判を受け入れるべきだろう。
「スピリチュアル派」の問題は、その派閥内で、愛やら魂やら科学やら、はたまた仏教用語など、どの言葉を重視するかで分裂し、派閥内での統一ができないことに象徴される。そのように混乱したままで、真理とまでいかずとも、何かをきちんと伝えることは困難だろう。

思うに、言葉によって人が人に何かを伝えることができる、という不思議が当然に成立することをうまく描写するためには、多分、完全に「哲学ソウゾウ派」であってもうまくいかないし、完全に「スピリチュアル派」であってもうまくいかないのだろう。
不思議と当然が同居するかたちで言語が成立するということは、僕も、「スイカ畑」の作者も、そして実は「哲学酔いどれ派」を自認する誰かも、どこか「哲学ソウゾウ派」であって、どこか「スピリチュアル派」であるということを意味する。
これが、僕が考えるスイカを味わう道だ。 つまり、言語が成立ということは、既に、ある一面では丸ごとのスイカを味わっているということなのだ。もう一方の面では、完全に味わうことを取り逃がしているとしても。