旅の話2(趣味について)

0 はじめに

11月の上海に続き、12月には台中に行ってきた。こんなことを2ヶ月連続でできるなんて恵まれているなあ。家族には感謝したい。あとこういうことを成立させてくれている世界全体にも。

今回の旅のテーマは前回に引き続き「自然体」だった。同じ中国でも、大陸と台湾では難易度が違うから、より自然な感じで旅ができた。台湾、特に台中は、たいして見どころもないし、一人旅の最難関である(寂しくなりがちな)夕食も、夜市などで楽しく過ごせたし、とっても楽な旅だった。

ということで、持っていった哲学書はあまり読み進められなかったけど、とってものんびりと過ごすことができた。のんびりしすぎて、たいしたことを考えなかったけど、一応、旅の間に思いついたアイディアを発展させて、ここに書き残しておく。

1 趣味の魅力①固有の魅力

海外旅行は僕の趣味と言ってよいだろう。18歳の初海外にはじまり、毎年のように30年くらい海外旅行をしている。数えたところ今回が32回目だった。結構ハマっているほうだと思う。

では、僕にとって海外旅行という趣味はどういう意味があるのだろう。ほとんどの人がそれぞれ趣味を持っているけれど、そもそも人にとって、趣味はどうして重要なのだろう。そんなことを考えて今回、旅をした。

海外旅行には不思議な魅力がある。楽しいことばかりという訳でもないし、疲れる。特にバックパッカー的な貧乏旅行はなおさらだ。はじめの頃はうまくいかなくて、緊張の連続だった。学生時代にインドに行ったときは、トラブル続きで、なんでこんなことをしているのだろうと辛くなった。だけど、海外旅行には苦労しても味わいたくなる独特の魅力がある。未知の世界の真っ只中に放り投げられた異邦人としての自由な感覚、日常のしがらみから離れ、ただその日にやることだけに集中すればよいという解放感、時々ご褒美のように訪れる見知らぬ人との出会い。そういったものはほかではなかなか味わえない。苦しいこともあったけど、僕は海外旅行のそんな魅力にはまってしまった。

これが海外旅行の魅力なのだけど、世の中には色々な趣味があって、それぞれの趣味には固有の魅力があるのだろう。例えば、昔、はまっていたスノーボードなら、エッジを立てて遠心力に耐えつつ滑るスピード感や新雪を滑る浮遊感のようなものが魅力として挙げられる。きっと、僕が苦手な球技、草野球やフットサルにも別な魅力があるのだろう。

2 趣味の魅力②得意の魅力

今回、旅をしていて、僕にとっての長年の趣味である海外旅行には、もうひとつ別の魅力があることに気づいた。それは、僕にとって得意なこと、という魅力だ。

たしかに僕は英語もたいして話せないし、中国語はニイハオくらいしか話せないけど、これだけ経験を積んでいるので、海外旅行はスムーズにできる。入国審査だって手慣れたものだし、なんとなく現地の路線バスに乗ることもできる。当然自力ではなく、グーグル先生に助けてもらったり、(なるべくかわいい女の子を選んで)道を教えてもらったりもするけれど、人の力をどこで借りるべきかの判断も適切にできる。そんなふうに、うまく旅ができていると、やったぜ、と心の中でガッツポーズをとりたくなる。言葉が通じない中、適当に屋台でご飯を注文して美味しいご飯が出てきたときなんて、ビールを飲みながら周りを見渡し、俺っていい感じじゃん、と得意げになる。今回、そんなふうに屋台でビールを飲みながら、ふと、僕は、海外旅行固有の魅力からだけでなく、慣れていて得意だから海外旅行をしている面もあるのではないか、と気づいた。

先ほど書いたように、はじめからそうではなかった。インドで熱中症になったり、下痢になったりして、疲れているのに変なインド人が話しかけてきたときなど、もう嫌になって、早く日本に帰りたかった。

経験を積み、色々学び、余裕ができ、旅をコントロールできるようになったから、こういう旅の楽しみ方ができるようになった。これは、上達して得意になったからこその魅力だと言えるだろう。

多分、スポーツなどの他の趣味でも同じようなものだろう。最初はまず、下手なのになぜか、その趣味固有の魅力に捕らえられるところから始まる。そこから続けるうちに、徐々に上手になっていき、上達し得意になったこと自体が新たな魅力として加わっていく。当然、長年続けていても、もともと感じた固有の魅力が消え去ることはないけれど、新たに加わった魅力との構成比は変わっていく。最初は、 固有の魅力100:得意の魅力0 だったのが 固有の魅力50:得意の魅力50 になっていく、というように。

3 得意の魅力・自己肯定感

この得意の魅力は、自己肯定感の魅力と言い換えることもできる。僕は、長年旅をしてきたから、うまく旅ができる。うまく旅をしている自分を味わうのが心地よい。だから僕は旅が好きだ、とも言えるからだ。これはまさに自己肯定感と名付けてよいだろう。

ただ、自己肯定感というと、どうも何かと比較して高低を判断しているような感じがあるけれど、もっと根源的な心地よさだということも強調したい。例えるならば、旅先で、見知らぬ土地を走るバスの窓を開けると、そこから異国の風が吹き込んでくるような心地よさだ。

僕は旅が得意だから、僕は旅において上手な立ち振る舞いをすることができる。その結果、僕は素敵な世界に関わることができる。いわば、世界の素敵な部分を引き出し、僕自身がその素敵な世界のなかに存在することができる。そこにあるのは、僕自身も含めた世界全体が肯定され祝福されているような感覚だ。これは、旅を通じて、僕が世界と馴染み、僕と世界とがダンスを踊るようにステップを踏み、ともに存在として高められていくような感覚だと言いたい。(伝わらないと思うけれど、雰囲気だけでも伝わるとうれしい。)

そのような意味で、自己肯定感のうち「自己」というのは余分で、そこにあるのは世界全体の「肯定感」であり、旅行が得意であることの魅力とは、世界とうまく関わり合うことができることの魅力と言い換えてもいいようにも思える。

ここまで旅を例にしてきたけれど、旅以外の趣味でも同じことが言えるだろう。スポーツのほうが、よりわかりやすいのかもしれない。スノーボードできれいにジャンプができたとき、僕は世界と最適なかたちで接続し、世界全体に溶け込み、祝福されている。多分、野球でホームランを打ったときや、サッカーで絶妙なパスからシュートを決めたときなども同じような感じなのではないだろうか。球技は苦手だからそんなのは感じたことがないけれど。

4 趣味の魅力③達成感という魅力

もうひとつ、海外旅行には達成感という魅力もあるように思う。僕がインドから無事に日本に帰ってきたときには大きな達成感があった。課題を乗り越え、成長したという感覚と言ってもよいだろう。僕にとっての海外旅行の魅力は、この達成感が大きかったようにも思う。最近はそれほど感じないけれど、若い頃はこの達成感を求めていた側面が大きかったように思う。

この達成感という魅力は、様々な趣味に共通のものだろう。スノーボードなら、難しい斜面を滑りきったときや、上手にジャンプを決めたときには達成感があった。きっと、草野球で勝利したときや、編み物で大作を完成させたときにも同じような達成感があるに違いない。

残念ながら、達成感という魅力は、同じ趣味を続ければ続けるほど、失われていく。それに抗うように目標設定を引き上げ、より冒険的な旅をしたり、より高いジャンプ台からジャンプしたり、より強いチームと勝負したりすることも可能だが、それにも限界がある。同じことを続けていて、いつまでも新鮮な気持ちを持ち続けることはできない。達成感にも限界効用逓減の法則は働いているのだろう。

5 3つの魅力の関係

ここまでで、趣味には3種類の魅力があることが明らかになった。まず、海外旅行ならば、自由な感覚、解放感、出会いのような、趣味それ自体の固有の魅力。次に、肯定感とも言い換えることのできる、得意であることによる魅力。最後に、達成感という魅力だ。

このうち、第2の魅力と第3の魅力は、時間の経過とともに全く逆の動きをするという点に注目したい。その趣味を長期間続けることにより、得意の魅力は徐々に増加し、達成感の魅力は逆に減少していくのだ。

この2つの動きは、全く独立のことではない。その趣味を長期間続け、経験を積んだからこそ上達する一方で、経験を積んだからこそ達成感も減少していく。旅先でトラブルに会うと、学習して旅がうまくなる一方で、次に似たようなトラブルを乗り越えても達成感を感じなくなる。スノーボードでたまたま上手にジャンプを決めることができると、それが上達につながる一方で、次に同様のジャンプができても達成感にはつながらなくなる。上達と達成感は、いわば経験から帰結することの表裏なのだ。趣味において経験を積むということは、達成感の魅力を得意の魅力に変換していくことなのだと言ってもよいだろう。

6 過去・現在・未来

では、経験を積み、達成感の魅力を得意の魅力に変換していくという取引は、いい取引なのだろうか、それとも悪い取引なのだろうか。達成感の魅力と得意の魅力では、どちらが重要なものなのだろうか。

そのことを考えるためには、過去・現在・未来という時間のことを考慮に入れるといいかもしれない。(僕は時間について考えるのが好きなので、僕にとってはいいアイディアなのだ。)

さきほど、上達し、得意になったことにより感じる魅力は、肯定感とも言い表すことができ、世界とうまく関わり合うことができることの魅力と言い換えられるとした。この得意の魅力は現在に属すると言えるだろう。なぜなら、旅先で、見知らぬ土地を走るバスの窓から異国の風が吹き込んでくるとき、スノーボードできれいにジャンプができたとき、野球でホームランを打ったとき、サッカーで絶妙なパスからシュートを決めたとき、その瞬間に感じられるものだからだ。

一方で、達成感は現在を素通りし、過去と未来に属している。

まず達成感が過去に属するのは明らかだろう。旅における達成感とは旅が終わってから感じるものだ。日本に戻ってから、ああ、あれを乗り切ったんだな、というように振り返るようなかたちで。スノーボードならば、滑りきった急斜面を見上げ、ああ、あそこを降りてきたんだな、なんて振り返る。草野球なら、試合のあとに居酒屋で祝勝会をして、ビールでも飲みながら振り返るのだろう。草野球の話はあくまで想像だけど、とにかく、達成感は過去に属する。

達成感が未来に属するということについては、少々説明が必要かもしれない。

達成感が未来に属するのは、達成感を感じるためには予測が必要だからだ。インドに行ったらお腹を壊すおそれがある、とか、あの国の入国審査は面倒だ、という知識があり、その知識に基づき、旅を成功させるために乗り越えるべきハードルを設定する。そして、そのハードルを乗り越えることで達成感を感じる。達成するためには、未来に向けてハードルを設定することが必須となる。

もし、未来のことを全く考えず、ぼんやりと旅をしていたら、それがどんなに過酷な旅だったとしても、達成感はないように思える。全く前提知識がないまま、紛争地帯を戦場カメラマンのように旅をして、たまたま運良く無事帰ってきても、そこには達成感はないだろう。たとえ運悪くテロ組織に拘束され、その後、無事釈放されるというようなドラマがあったとしても、前提知識がないなら、それは、家の近所で誘拐されて釈放されたのとなんら変わりはない。そこに安堵感はあっても達成感はないはずだ。達成感を感じるためには、将来を予測し、それを乗り越えようと、主体的に関与する必要がある。その意味では、達成感には、予測、つまり未来が大きく関わる。

このような意味で、得意の魅力は現在に属し、達成感の魅力は過去と未来に属する。

7 過去・現在・未来 その2

いや、この区分は少々荒っぽいかもしれない。当然、達成感の魅力において、現在は無関係ではない。なぜなら実際に達成するのは現在においてだからだ。ただ、予測し目標設定した時点(未来)と、それを成し遂げた時点(過去)との間の、まさに渦中にある時点(現在)においては、達成感など味わう余裕はない。その意味で、達成感の魅力は、現在を素通りしている。

また、得意の魅力においても、当然、過去と未来は無関係ではない。過去において旅の経験を積んだからこそ、旅が得意になっている。つまり過去は、僕の血肉となり、得意の魅力の基盤として支えてくれている。

未来についても、まっさらな無垢な未来があるからこそ、そこで想定外の新しい出来事が起きる。そこで想定外の出来事を乗り越えるからこそ得意の魅力を発現させてくれる。もし想定内の既知の出来事しか起こらなかったら、旅が得意だと感じることもなく、世界とうまくやっているという実感が生じることもないだろう。

正確に述べるなら、得意の魅力においては、現在が顕在化し、過去と未来は背景に退いている。達成感の魅力においては、過去と未来が顕在化し、現在は背景に退いている。そう表現したほうがいいかもしれない。

8 タージマハル

このように考えると、得意の魅力と達成感の魅力とは、きれいに互いを補い合っている関係にあることから、同じものの2つの側面であると解釈したほうがよいと思うかもしれない。同じ旅の魅力について、旅をしている最中、つまり旅の現在においては得意の魅力として感じ、旅を終え、過去を振り返るときには達成感の魅力として感じるのだ、というように。

しかし僕は、あえて、この2つは全く別物であり、得意の魅力こそが本当の魅力であり、達成感の魅力はかりそめの魅力であるという方向で考えたい。つまり経験を積み、達成感の魅力を得意の魅力に変換していくという取引は、いい取引なのだ。

なぜ、そのように考えたいかというと、まず、僕が歳を取りつつあるからだ。僕は年令を重ね、経験を積み、得意の魅力を味わえるようになる一方で、達成感の魅力は味わいにくくなっている。今後、ますますその傾向は強まるだろう。今後手に入りにくいものより、手に入りやすいもののほうの価値があったほうが嬉しい。そう思いたい。

もうひとつの理由としては、本当に、達成感の魅力よりも、得意の魅力のほうが根源的なものだと心から思うからだ。

ただ、そう思う根拠を説明しようとすると、話がとても長くなってしまう。説明できなくはないけど、この文章もそろそろおしまいにしたい。だから説明はあきらめ、雰囲気を伝えるに留める。

達成感の魅力というと、タージマハルに行ったことを思いだす。タージマハルは本当に絵葉書のように美しい。だから、ちょうど絵葉書みたいに見えるところに立ってタージマハルを眺めると、タージマハルが想定どおり絵葉書のように見える。当然それが観光のピークとなり、写真をたくさん撮ったりもする。だけど僕はそのとき、じゃあ絵葉書でいいじゃん、と思ってしまった。これは、つきつめれば、よく夏休みにやっているスタンプラリーと変わりはなく、とてもつまらない。未来の予測と過去としての振り返りだけのためにタージマハルに行ったようなものだ。僕はこれが達成感の魅力の本質だと思う。

なお当然ながら、スタンプラリーは実はとてもつまらなくなどない。友達と一緒に行くのは楽しいし、色んな電車に乗れるのも楽しいし、うっかり通勤ラッシュに巻き込まれてしまったりといったハプニングも面白い。同じようにタージマハルはつまらなくなどなく、実は2日連続で行ってしまった。空いている時間にひんやりした大理石の上に座りのんびりするのはとても心地よかった。これらは、未来の予測や過去としての振り返りからは無縁な旅の現在において感じる魅力であり、これこそが得意の魅力であると言いたい。

当然両者は混ざり合っているから、現実にはきれいに区分けできないかもしれないが、達成感の魅力よりも、得意の魅力のほうが重要だということがなんとなく伝わるとうれしい。

9 2種類の過去・現在・未来

きちんとした説明は諦めつつも、もうひとつの別の切り口から、達成感の魅力よりも、得意の魅力のほうが重要だということを指し示したい。

そのために、さきほどの過去・現在・未来の話について、もう少し整理しておきたい。思い出していただくと、このような話だった。

第6章:達成感の魅力は過去と未来に属し、得意の魅力は現在に属する。

第7章:正確には、得意の魅力においては、現在が顕在化し、過去と未来は背景に退き、達成感の魅力においては、過去と未来が顕在化し、現在は背景に退いている。

つまり、過去・現在・未来は、それぞれ顕在化した過去・現在・未来と、背景に退いた過去・現在・未来とがある。列挙しよう。

過去1(顕在化した過去)思い出としての過去

思い出としての過去とは、タージマハルがきれいだったとか、タージマハルの大理石がひんやりしていた、といったような思い出としての過去のことだ。通常、過去というとこちらの過去をイメージするだろう。

過去2(背景に退いた過去)身体に取り込まれた過去

身体に取り込まれた過去とは、いわば、経験が血肉となったということを指し示す。僕はタージマハル観光をすることで、オートリキシャーがパンクしたのを乗り切ったり、ひんやりした大理石が気持ちいいことを学んだりした。その後の旅では、モスクがあるとつい立ち寄ったり、車が故障したらどうするかを頭の片隅で考えるようになった。過去の経験はそのようにして身体に取り込まれ、経験は血肉となり、旅の上達につながる。

現在1(顕在化した現在)瞬間としての現在

瞬間としての現在とは、タージマハルがきれいだ、タージマハルの大理石がひんやりしていた、とまさにそう思っている瞬間の現在だ。通常、現在というとこの現在をイメージするだろう。

現在2(背景に退いた現在)素通りされた現在

素通りされた現在とは、作業を行っている現在と言ったほうがいいかもしれない。タージマハル観光をしている現在だ。観光という作業をすることで、タージマハル観光が達成される。瞬間としての現在との違いを強調するなら、そこで現に何を感じたかではなく、そこで現に何をしたか、に着目した現在だと言ってよいだろう。

未来1(顕在化した未来)予測される未来

予測される未来とは、予測どおりだったか予測と違ったかに関わらず、予測でアクセスできる未来という意味だ。タージマハルを例にするなら、僕は、絵葉書のようにきれいだと予測してタージマハルに行った。実際、絵葉書のように美しかったのだが、実は絵葉書のようには美しくなかったとしても、それは予測と違ったという意味で、予測される未来の範疇だと考えてよい。タージマハルが美しいと予測することには、予測が外れて美しくないかも知れないと考えることも含む。タージマハルが美しかったり、美しくなかったりする未来が、予測される未来だ。

未来2(背景に退いた未来)想定外の未来

想定外の未来とは、タージマハルの大理石がひんやり冷たかったり、タージマハルに行くときに使ったオートリキシャー(3輪のタクシーみたいなの)がパンクしたり、といったような物事についてのものだと言ってよいだろう。旅をしていると、突然の人との交流や、ふと立ち寄った街の景色が心に残る。このような出会いは、実際にあるまでは、全く予測できない未知のものだ。生まれる前の子供のようなものだと言ってよいだろう。まだ出会っていない偶然の出会い、まだ起きていない偶然の出来事、そのようなものこそが想定外の未来である。(これこそが、本当の未来だと言いたい。)

10 得意の魅力の優位

以上のように、過去・現在・未来がそれぞれ2種類に分けられるとするならば、達成感の魅力と、得意の魅力は、更に詳細な描写ができる。

達成感の魅力:予測される未来と素通りされた現在と思い出としての過去に属する。

(理由)達成感とは、事前に設定されたハードル、つまり予測される障害を乗り越えることで感じられるものであり、現在は作業として素通りされ、それを感じるのは、常に達成したあと、思い出として振り返るときだから。

得意の魅力:想定外の未来と瞬間としての現在と身体に取り込まれた過去に属する。

(理由)得意とは、想定外の出来事に出会い、それを現にその瞬間において楽しみ、そしてその経験が血肉となるというあり方をしているから。

僕の好みなのかもしれないが、こう並べてみると、明らかに僕は、達成感よりも得意のほうに魅力を感じる。達成感の魅力とは、得意の魅力の劣化版なのではないかと思えるほどだ。それは、ツアー旅行と個人旅行との違いに似ている。

当然、予測することは大事だし、色々感じてばかりではなく作業に没頭することも必要だし、たまには思い出にひたり達成感を感じるのもいいだろう。

だけど、今の僕には過去を振り返る暇はない。達成感など要らない。僕は、今を味わい、そして、想定外の未来のほうを向いていたい。達成感なんていうものに囚われず、趣味を楽しみ、そして、肯定感を持って世界と関わり、世界になじんで生きていきたい。

11 趣味に込めた意味・天命

最後に、なぜこんなに趣味について熱く語るのかについて少し説明する。

実は、僕は、趣味という言葉に通常よりも大きな意味を持たせている。ここでの趣味とは、いわば、楽しみ、味わうことのできること、全てを指している。仕事だって楽しいなら趣味としてよいし、家族への愛や恋人との恋愛だって、そこに喜びを見出しているなら、その側面では趣味としてよい。というか、実はどれも趣味と同じものだと思っている。これら全てをひっくるめて、生きるうえでの「こだわり」と言い換えてもよい。

更には、人生のポジティブな側面のすべてを趣味と捉えることが許されるならば、僕はそれを、天命とさえ呼びたい。人生がまったくののっぺりとした平板なものではなくて内容があり、内容があることに価値があるのなら、そこにあるこだわり、つまり趣味こそが天命なのだとしてもおかしくないだろう。趣味とは、まさに人生を賭けたこだわりであり、生きるということそのものなのだ。

そこまで話を大きくするならば、趣味という言葉に、もうひとつ、他者のためにやることではない、という意味があることを強調したくなる。僕は誰かのためになど行きていない。僕は僕の天命のために行きている。その意味では、人は趣味に生きるしかないのだ。

だから、海外旅行をしている僕も、日常を生きる僕も、地続きの天命を行きている。こう考えれば、日本に戻り、日常に帰ることは、決して寂しいことではない。

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