永原真夏さんの歌

昨日、永原真夏さんのライブに行った。SEBASTIAN X 時代に行ったきりだから、7,8年ぶりかもしれない。(対バン?のむぎ(猫)目当てもあったのは内緒。。。)
ひさしぶりに、彼女の力強い声と、跳ね回る姿にパワーをもらった。

そのなかでも、昨日のMCでの彼女の言葉がとてもよかった。
歌い、踊りながら彼女は言った。「みんなも、歌ったりするといいよ!」と。

僕にとっての「歌う」とは、きっと、文章を書くことなのだろう。
僕は、彼女の歌声のような、彼女のステップのような、自由な文章を書きたい。僕は、僕の全存在が震えるような、魂を叩きつけるような、世界をハグするような、文章を書きたい。
というか、書いているつもりだ。
僕は、僕の文章に、愛とか喜びとか暴力とか、そういう僕の命の全てを込めようとしている。

僕が書く文章は哲学的なものだ。だから僕は、僕の文章が、論理的で、冷静なものであるように心がけている。
だけどそうするのは、僕にできて、僕がやりたくて、僕がやることが誰かに望まれている(かもしれない)ことが、たまたま、論理的で冷静な、哲学的文章を書くことだったからに過ぎない。それが僕の「歌う」なのだ。

「歌う」とは、やはり彼女のキーワードである「遊ぶ」に置き換えてもいいだろう。
だから、僕が、僕の文章の中で、誰かの主張を 論理的に論破し、 否定したとしても、それは、その人を否定したり、低く評価したりしている訳では全くない。更に言えば、その人の主張を否定した訳ではないとさえ言えるかもしれない。誰かの主張に注目することは、面白いおもちゃを見つけることに近い。文章のなかで誰かの主張を否定したり、分析したり、ずらして解釈したりするのは、ミニカーを並べたり、粘土をこねまわすことに似ている。怪獣にやられたミニカーをひっくり返したり、粘土をテーブルに叩きつけたりしても、それはミニカーや粘土を否定したことにはならないし、僕が文章のなかで誰かの主張を否定しても、それは誰かの主張を否定したことにはならない。
だから、少なくとも、僕が、僕の文章の中で、僕の主張が論理的に優位に立っていることを明らかにしたとしても、そのことが、「正しさ」のような、客観的に測ることができる価値に結びつくことはない。なぜなら、僕はただ歌っているだけなのだから。

昨日、彼女は、「言葉にしようとすると、どんどん逸れていってしまう気持ちがある。」とも言っていた。その気持ちとは、ステージ上で、まさに彼女が抱えている気持ちのことだ。
その気持ちを言葉にすることはできない。だから、彼女は、歌い、踊るのだ。

僕も同じように、決して言葉にできないから、僕なりの「歌う」として、哲学的な文章を書く。
そこに、僕の場合の「歌う」のややこしさがある。
僕の「歌う」は、「論理的で、冷静な、哲学的な文章を書く」ことだ。だけどそれは、「説明する」ことに似ている。だから、僕がやっていることは、決して言葉にできないことを、説明することのように見えるかもしれない。
明らかにそれは不可能だ。だから、僕がやっていることは、ある人からは、傲慢で、根源的な間違いを犯しているように見えるはずだ。
だけど、僕が哲学的な文章を書くときにやっていることは、あくまで、「説明をする」ではなく「歌う」だ。僕は、彼女のように、歌い、踊っているだけなのだ。

哲学における誤解や混乱の多くは、ここにあるように思える。
哲学以外の「歌う」がある人が、哲学に「説明をする」を持ち込み、哲学にしか「歌う」がない人が歌うのを聞き、それは説明としておかしいと問題視するようなことが起きる。
または、哲学にしか「歌う」がない人が、誰かの「説明をする」としての哲学を、歌だと勘違いし、それにあわせて一緒に歌おうとするようなことも起きる。
そういうことが続くと、僕は、誰かと哲学的とされるようなやりとりをすることが嫌になる。文章の上でのものであっても、リアルのコミュニケーションであっても。

だけど、昨日のライブに行き、そういう誤解や混乱さえもこねくり回して楽しむことこそが、「歌う」なんだろうなあ、と再確認した。彼女の内に宿っている、そんな根源的な肯定性に、僕は癒やされるんだろうなあ。

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