1 未来予測での科学技術の重要性

アステイオンという雑誌で「100年後の日本」という特集があり、たくさんの人が寄稿していたので、僕も書いてみることにした。寄稿するあてはないけれど。

100年後という期間設定は、ちょうど想像力が尽きるぎりぎりのところにある感じが面白い。50年後だと結構想像できそうだし、200年後だと想像もつかない感じがする。

今後100年間で確実に大きく変わっていくのは科学技術だろう。

この100年間に偶然の事件が起こる可能性はある。100年のうちに大きな隕石が落ちて地球が氷漬けになっていたり、釈迦やキリストのような特別な才能を持った人が突然登場して新たな真理を教えてくれたり、ということがないとは言えない。だが、それほどの重大事件が偶然に発生する確率は低いため、考慮に入れる必要はないだろう。

また、偶然ではない着実な人間の営みは、美術や文学など、科学技術以外の様々な分野に及ぶが、これらについても、大きな変化を想定する必要はないだろう。思えば、科学技術の発展というものがなければ、未来予測はこれほど魅力的でなかったかもしれない。科学技術の発展がない世界では、ただただ王様が交代したり、飢饉や豊作が周期的に繰り返されたり、平板な歴史が積み上げられるだけだろう。産業革命前でも、歴史を大きく動かしてきたのは、製鉄技術の発明や、稲作の伝播といった広義の科学技術の発展であった。

ただし、人間の営みのなかで、科学技術に匹敵するインパクトを有してきたものとして、宗教や思想があるだろう。宗教が共同体の団結を高めたり、プロテスタント的な合理的思考が科学技術の発展を促したり、というように宗教や思想が歴史に大きな影響を与えることは確かにあった。

しかし、宗教や思想がそれ自体として、今後の100年間で目立った変化が生じるという可能性を考慮に入れる必要はないように思える。科学技術が持つ影響力は、産業革命以降、幾何級数的に増大しているが、一方で、宗教や思想の持つ影響力は仮に増大しているとしても、せいぜい算術級数的なものであると言えるだろう。もし、宗教や思想に大きな変化が生じるならば、それは、宗教や思想それ自体としての変化ではなく、科学技術の発展により促された変化であるだろう。(そのことは後ほどとりあげる。)

だから、今後100年の未来予測のうちのかなりの部分は、科学技術がどのように発展し、それがどのようなインパクトを社会に与えるのか、というものになる。加えて、これまでの科学技術の発展がすでに社会に与えている影響、例えば人口動向やグローバリゼーションについての話を盛り込めば、未来予測の大半がカバーできるだろう。

2 科学技術の目標の分類

まずは準備のため、そもそも科学技術というものが目指していること、つまり科学技術の目標について、人間の欲求と関連させ、僕なりに分類してみる。

科学技術を科学と技術に分けるならば、科学における主な目標は、「世界を知る。」というものだろう。これは、知識欲と言ってもよく、世界の始まりが知りたくてビッグバン仮説を検証したり、新種の昆虫をみつけたくてジャングルで調査をしたり、といった代表例が挙げられる。

科学技術のうち技術における主な目標は「世の中を便利にする。」というものだろう。この目標を目指す活動としては、例えば、手で洗濯するのは大変だから洗濯機を作ったり、いつでも連絡がとれたほうが便利だから携帯電話を作ったり、というようなものが該当する。

当然、世の中を便利にしたいという動機で研究を行う科学者もいるだろうし、知識欲から新商品の開発を目指す技術者もいるだろう。だから、この区分はあくまで、相対的なものだ。

主に技術に関わる目標としては、もうひとつ、今回の話に深く関わる「長生きする。」というものがあるように思える。単に「長生きする。」だと否定する人も多いかもしれないが、若々しく、健康に長生きする、とするならば、誰もが望むものだということに異論はないのではないか。

科学技術の目標については、主に科学に関わるもの1つと、主に技術に関わるもの2つ、計3つを挙げたが、これでほぼ網羅しているように思える。ほかにも、科学者として成功して有名になりたいとか、たくさん給料をもらって金持ちになりたいとか、同じ研究室にいるあの人に認められて結婚したいとか、個人としての目標は色々とあるだろうが、それは、科学技術に限らないものなので、科学技術の目標には含めないものとしよう。

※ 微妙なものとしては、方程式の美しい解法を見つけたい、などといった美的な動機・目標もあるかもしれない。

この3つの目標をさらに2つに分けることができるように思える。ゴールが明確になっている目標と、そうではない目標のふたつだ。

「世界を知る。」という目標に向かう活動については、まず、すでにある仮説を検証する、みつかりそうな新種の昆虫を想定したうえで昆虫を探す、といったものがある。これらは、事前にゴールが明確になっている活動であり、これらは「世界のなんとなく知っていることをよりよく知る。」ことを目標としていると言い換えることもできるだろう。

もうひとつ、全く新しい仮説を考える(その結果相対性理論を思いつく)、ジャングルに網を仕掛けて無作為に昆虫を捕獲する(その結果想定外の新種の昆虫を発見する)、といった、始める前はゴールが明確になっていない活動もある。これらは「世界を新たに発見する。」ことを目標にしていると言ってもいいだろう。このように明確なゴールの有無により、「世界を知る。」という目標は更に二つに分けることができる。

「世の中を便利にする。」という目標に向かう活動については、まず、手で洗濯するのは大変だから洗濯機を作る、といった、ゴールが明確になっているものがある。これは「より簡単に物質的な成果または余暇を手に入れられるようにする。」ことを目標にしていると言ってよいだろう。

もうひとつ、インターネットを使った新しい道具を考える(その結果スマホを思いつく)といったような、始める前はゴールが明確になっていない活動もある。これは「新たな物質的成果または余暇を発見する。」ことを目標にしていると言ってもいいだろう。このように、「世の中を便利にする。」という目標についても、明確なゴールの有無により、更に二つに分けることができる。

一方で、「長生きする。」という目標に向かうものとしては、ガンの特効薬を作ってガンで死なないようにする、肉体をサイボーグ化し不死を目指すといった活動があるが、いずれもゴールが明確になっており、「長生きする。」についてはすべてが明確なゴールがある目標であるように思える。

以上をまとめると、次のようになる。

目標の分類

ゴール明確 ゴール不明確
主に科学 「世界を知る。」
「世界のなんとなく知っていることをよりよく知る。」 「世界を新たに発見する。」
主に技術 「世の中を便利にする。」
「より簡単に物質的な成果または余暇を手に入れられるようにする。」 「新たな物質的成果または余暇を発見する。」
主に技術 「長生きする。」
「長生きする。」 (なし)

※うまく表示できないのでできればPDFで見てください。

3 目標の達成状況

これらの科学技術の目標のうちいくつかは、現在、科学技術の発展により急速に実現が進んでいる。

特に、「より簡単に物質的な成果または余暇を手に入れられるようにする。」については、少なくとも富裕層に限るならば、かなり達成されつつあると言ってよいのではないか。仕事をせずに暮らすことができる大富豪が、科学技術上の問題により、何か物質的な成果や余暇が不足していて困る、などといった問題が生じることはほぼないだろう。昔ならば、冬にスイカを食べることはできなったし、数時間(人生というスパンではほぼ無視してよい時間といえるだろう)で日本からアメリカに移動することはできなかったけれど、現代においては多少の金を払えばいずれも手に入れることができる。

また、「世界のなんとなく知っていることをよりよく知る。」についても、時期を設定し、例えば、「1900年時点で仮説になるなどして既になんとなく知られていたことをよりよく知る。」とするならば、それは達成されつつあると言えるだろう。僕は、科学史は詳しくないけれど、相対性理論の正しさが日食時に検証されたことなどが具体例として挙げられるはずだ。

一方で、「世界を新たに発見する。」と「新たな物質的成果または余暇を発見する。」については、急速に進捗はしているけれど、達成の目途は立っていない。やればやるほど、どんどん新しい課題が生じてきて、終りが見えないというのが実情だろう。このいずれもが、ゴールが不明確である目標に区分されることは偶然ではないだろう。

つまり、科学技術の目標のうち、ゴールが明確なものについては、現在、達成されつつあり、ゴールが不明確なものについては、何をもって達成とするかが決まっていない、というそもそもの性質に起因し、達成に近づいていない、という状況にある。

例外が「長生きする。」であり、これについてはゴールが明確だが、達成されつつあるとも、達成に近づいていないとも言えない状況にある。インフルエンザなど病気の治療薬は色々とできているが、ガンなどは依然として克服できていない状況にある。これはどうしてだろうか。

4 長生きの問題

この「長生きする。」に関する疑問を足掛かりにして、この文章では、100年後の「死」のあり方について予測してみたい。ここには、世間ではあまり注意が向けられていない、科学技術の大きな問題が潜んでいると思うのだ。(なお、全く誰も気付いていない、とは言わない。多分、そこには、誰もが知っているけれど、多くの人があえて口にしないような問題があるのだと思う。)

では、「長生きする。」についての疑問を明確化しよう。

「長生きする。」という目標はゴールが明確なのに、なぜ、「より簡単に物質的な成果または余暇を手に入れられるようにする。」というような目標に比べて達成が難しいのだろうか。

まず考えられることは、人間の身体というのは、冷蔵庫やスマホなどに比べて手ごわいのだろう。人類は長い年月、病気やケガといった身体の問題と戦ってきた。現時点では、骨折をきれいに治したり、インフルエンザのワクチンを事前接種したり、一定の戦果をおさめつつある一方で、ガンや老衰といったものについては、まだ勝利は見えていない。人間の身体という、すでに完成しているものについて、分析し理解していくことは、すでに理解されたパーツを組み立てて、例えば冷蔵庫のようなものを創り上げることに比べて困難なのだろう。後者については詳しい仕組みはわからなくても、とりあえず使えればいい、という解決策をとることさえできるのだから。

だから長生きは難しい。人間には、早く移動したい、楽に生活したい、おいしいものを食べたい、といった色々な欲求がある。これらの欲求はかなり満たされつつあるが、長生きをしたい、という欲求は、それらに比べて、100年くらい遅れているのではないだろうか。

それならば、100年後には医療や生命工学等の分野の研究は進展し、長生きという目標もかなり達成されているのではないだろうか。100年前はお腹いっぱいご飯を食べることは当然ではなかったが、今では当然となっているように、100年後には、長生きは当然なものとなっているのではないだろうか。科学技術の幾何級数的な発展状況を踏まえると、これまでの100年に比べて、今後の100年は大きな進展があることは確実だろう。100年後の人類は、少なくとも富裕層に限るならば、陳腐な例だが、サイボーグ化するなどにより、ほぼ無限の健康な生命を手に入れることができるとさえ想像できる。

だが、これをもって、「長生きする。」が達成されたと言っていいのだろうか。そこには科学技術の進展だけでは達成できない、長生きに固有の問題点があるように思える。

その問題とは、「いつまで長生きすれば、「長生きする。」が達成されたことになるのだろうか。」という問題だ。

多分そこには、限界がないのではないか。さきほど「長生きする。」とはゴールが明確な目標だとしたが、実はゴールは不明確なのだ。ゴールが不明確だから、どんどんゴールが先延ばしされていくこととなり、いつまでも達成に近づくことはない。これは、先ほど挙げた「世界を新たに発見する。」や「新たな物質的成果または余暇を発見する。」といった目標と同じ問題を抱えているということだ。

いや、この説明は正確ではないだろう。ガンによって死なないようにする、という目標については、ゴールが明確だ。ガンの特効薬を作ればいい。一方で、不死の存在となる、という目標については、ゴールが明確ではない。肉体をサイボーグ化し理論上、永遠に生きられるようになったとしても、具体的に何年生きればゴールなのかが明らかではない。正確には、「長生きする。」には、「寿命まで健康で生きる。」というゴールが明確な問題と、「寿命を延長する。」というゴールが不明確な問題とが含まれており、その二つを切り分けるべきなのだ。

よって、先ほどの表は次のように書き換えるべきだろう。

目標の分類

ゴール明確 ゴール不明確
主に科学 「世界を知る。」
「世界のなんとなく知っていることをよりよく知る。」 「世界を新たに発見する。」
主に技術 「世の中を便利にする。」
「より簡単に物質的な成果または余暇を手に入れられるようにする。」 「新たな物質的成果または余暇を発見する。」
主に技術 「長生きする。」
「寿命まで健康で生きる。」 「寿命を延長する。」

※うまく表示できないのでできればPDFで見てください。

このように整理するならば、「寿命まで健康で生きる。」という目標については、ゴールが明確な他の目標と同様に、100年後にはほぼ達成されていると考えてもよいだろう。ガン特効薬は開発されるし、よほどの大怪我をしても移植により死なずに済むようになる。

5 ユートピアの実現

表の全体を眺めてみよう。100年後、表の左側のゴールが明確な目標はほぼ達成され、表の右側のゴールが不明確な目標だけが残っている。これは、明らかに、ゴールが明確な目標と不明確な目標とでは、その問題の質が異なるということを意味している。もしかしたら多くの方が既に気付いているかもしれないが「ゴールが不明確な目標」という言い方自体が矛盾をはらんでいる。これは目標とすら言えない、いわば「目標もどき」または「偽目標」なのだ。100年後、科学技術の目標はほぼ全て達成され、そこには偽目標しか残っていない。そういう時代を人類は生きることになる。

僕は、もう50歳に近いけれど、僕が子供の頃、科学技術にはまだ、リニアモーターカーや火星旅行といった、流線型の未来があった。達成を待っているゴール達が至るところに転がっていた。しかし、いつの間にか、そのようなゴールは直接的に達成されるか、別の形で間接的に達成され色あせていった。

※ 間接的な達成とは、リニアモーターカーではないけれど、短距離の飛行機移動が一般的になったり、有人の火星旅行ではないけれど、無人の探査機が人間の目よりも詳細のデータを集めたり、ということを指している。

それでも、残っている科学技術上の目標として、現在はまだ病気との戦いがある。早く移動したい、楽に生活したい、おいしいものを食べたい、といった目標はかなり達成されてしまったが、病気に打ち勝ちたい、という目標の達成はまだ遠い。

近年、医療分野が注目されることが増えているように思う。今回考察するまでは、なんとなく、日本が高齢化したからなのかな、と思っていた。しかし、改めて考えてみて、そこにしか、科学技術が活躍できる場が残されていないからなのだと気付いた。今後数十年、医療や生命工学といった分野に人類の資源のかなりの部分が投下されていくことになるのではないだろうか。

そして、100年後、いよいよ、科学技術の最後のフロンティアが開拓され尽くしたとき人類はどうなっていくのだろうか。言い換えれば、「科学技術上のたいていの疑問は解決していて、物質的な欲求は十分に満たされていて、十分な余暇があって、望むだけ若々しく健康に長生きできる。」という状況が手に入れられたとき、人はどうやって生きていくのだろうか。これは、つまり、ユートピアにおいて人はどのように生きていくのか、という問題だ。

正確には、100年後であっても、様々な問題が残っているだろう。一部の富裕層はユートピアに到達していたとしても、そこには大きな貧富の差が残っているのは明らかだ。また、地球温暖化などの環境問題も現在よりも大きな問題となっているに違いない。だから、まずは、これまでの科学技術の発展が、その他の分野に及ぼした歪みと向き合っていく必要がある。科学技術的な目標は達成されても、そこには社会的な問題が残っている。

いつの日か、それらの問題は解決されていってほしい。できれば100年後の未来には解決されていてほしい。しかし、ここでの議論の範囲で重要なのは、もし解決されなくても、富裕層のなかでも、ある程度利己的で自分のことにしか目がいかない種類の(僕のような)人は、一足早く、このユートピア問題に直面することになることは確かだということだ。多分、このユートピア問題は、かなりの高確率で近い将来に訪れるものなのだ。

それならば、100年後の未来について考えるためには、このユートピア問題について、詳細に検討することが有益なのではないだろうか。

6 ユートピアの実態

さきほど、科学技術にはゴールが明確な目標と、ゴールが不明確な偽目標があるとした。そして、前者は達成されつつあり100年後にはほぼ達成されるが、後者はその性質上、達成されることはないとした。

前者の目標は、具体的な欠如を埋めたいという欲求に基づいていると言ってよいだろう。すでに誰かが保有している「あれ」を保有したい、という羨ましさを満たすような欲求を満たすためのものだと言ってもいいかもしれない。

なお、この羨望する先にある誰かとは、特定の個人ではなくてもいい。洗濯機を手に入れたいという目標ならば、それは例えば、隣の家にいる洗濯が上手なあの召使いがうちにも欲しい、という欲求に基づくものだと言えるかもしれない。それならば、羨望する先にいるのは隣の家の主人であろう。しかし、まだ飛行機が発明されない時代に、日本からアメリカまで船旅をしながら、数時間でアメリカまで着いたらいいのに、と望む先にあるのは、具体的な人物ではない。そこにいるのは、目標が叶えられた理想的な自分自身だと言ってよいだろう。

つまり、様々な場合を想定して汎用的に定義するならば、ゴールが明確な目標とは、願いが叶えられた理想的な自分自身を思い描きながらも、そこに至ることができないという具体的な欠如があり、そのギャップを埋めたいという欲求に基づくものなのだ。

一方で、ゴールが不明確な偽目標については、そのような具体的な欠如がない。スマホが発明されるまでは、スマホを使っている自分自身を思い描きながら、スマホを手に入れられないという具体的な欠如を感じていた、などということはなかっただろう。また、相対性理論を発見するまでは、相対性理論的なものをなんとなく気付きながら、明確化できないことに欠如を感じていた、ということもなかっただろう。

当然、スティーブ・ジョブズやアインシュタインには、その欠如に気付いた瞬間があっただろう。ただし、スマホや相対性理論の欠如に気付いた瞬間、スマホや相対性理論のアイディアを思いつくはずだ。それにより、即時にその欠如は充足される。

当然、このような描写は誇張されすぎていて不正確だろう。実際には、スマホは携帯電話やパソコンから徐々に派生されたし、多分、相対性理論も、その前準備となるような数々の仮説のうえに見いだされたものなのだろう。だが、不明確なゴールを目指すという矛盾を表現するためには、このような描写も必要であり、この描写はジョブズやアインシュタインが成し遂げたことの、ある一側面を捉えていると思う。

さて、100年後に一部の富裕層に訪れるユートピアにおいて、残っているのは、ゴールが不明確な偽目標だけだ。そこで科学技術においてできることは、アインシュタインのように新しい科学的発見をしたり、ジョブズのように新しい技術を開発したり、ということしかない。それらは、既存の問題の解決にはつながらない、いわば遊びのようなものだ。なぜなら、ユートピアにおいては、解決すべき問題など残っていないのだから。

誰も問題を感じたことがないことをわざわざ掘り返して、新しい科学的発見をしたり、誰も欲したことなどない新製品をわざわざ開発したりする。そのようなものなどなくても世の中はうまくまわっているのに、あえてそこに余計なものを付け加える。そのような自己満足の遊びだけが、ユートピアでできることなのだ。

いや、ユートピアでできることはもうひとつ残っている。長生きすることだ。

寿命まで健康で若々しく生きるということならば、ゴールが明確な目標だと言ってよいだろう。若くして命を落とさず、せめて平均寿命くらいの年齢までは生きてほしいとか、人類の最高齢は120歳くらいだから、そのくらいまで皆が生きられるようにしたいとか、そのような具体的な願いは、ゴールが明確であり、多分100年後には科学技術上は達成可能となるだろう。つまり、これらはユートピアの問題ではない。

一方で、その欲求が、寿命までではなく、いつまでも長生きしたい、となった途端、それはユートピアの問題になる。際限なく、どこまでも長生きを続けることは、ユートピアでできる、数少ない自己満足の遊びのひとつとなりうる。

多分、ジョブズやアインシュタインほどに才能がない人にとっては、ユートピアでできる唯一の遊びでさえあるだろう。

このようにして、僕の100年後の未来予測は、ひとつの到達点にたどりついた。そこにあるのは、ユートピアという名のディストピアだ。富裕層の一部は、科学技術の発達の恩恵により、退屈に、ただ長生きだけを目指して生きていくこととなる。できることはそれしかないのだ。僕は、そのような未来が到来する情景を具体的に思い描くことができる。

7 「死」について考える

多分、多くの人にとって、天国というのは、実は、あえて行きたくなるようなところではないのだろう。ただお花畑だけがあるところで、永遠に生活させられるなんて、想像しただけでも怖くなる。死後に行く天国ならば、多分そこにたどり着く過程で、なにか精神的に悟ったりして、大きな変化があるのだろうが、100年後の未来においては、そのような精神的なフォローは何もなく、いきなり行きたままユートピアに放り込まれることになる。

それならば、自分の子孫たちがこのような事態に陥る前に、僕たちは準備作業をしておくべきなのではないだろうか。その準備とは、「死」について考えることだと思う。無限に生かされるユートピアというおぞましい未来を見据え、いつ、どのように死ぬのかを今から考えておくべきなのだ。

ここで、死に関する僕の考えを述べてもいいけれど、それでは未来予測という趣旨から外れてしまうので、最後に、価値中立的に今後100年で「死」について想定されることを列記しておこう。

① 少なくとも、苦痛を伴わずに自らの永遠の生命を終えること、つまり安楽死は一定程度認められることになるだろう。

② サイボーグ化などの積極的な人体改造を伴わずに生きることのできる年齢の上限、多分100歳くらいで、死を選ぶかどうかの判断の機会が与えられるだろう。

③ 皆と同じものがほしい、というような生き方は否定され、ジョブズやアインシュタインのような、新しいものを創造する力が生きる価値、人間としての価値として、高く評価されることになるだろう。なお、この創造は、科学技術だけではなく、文学や芸術といった分野のものでもいいだろう。

④ 一方で、そのような新たな創造ができない場合のために、生の限界を知り、死を選ぶことを正当化するような思想や宗教が発明され、力を持つだろう。

⑤ その思想や宗教の内容は、人生を将来や他者のために使うのではなく、自分自身の現在のために使うことを推奨するようなものになるだろう。

 ※ 人生を将来や他者のために使うとは、世界を便利にするとか、人命を救うとか、というようなことを人生の目標にすることを指す。これらは、完全なユートピアにおいては無意味なものとなる。

⑥ 知的集合体としての一体化など、死とは違う形での生の終わらせ方が発明されるかもしれない。

以上が、僕の100年後の未来予測だ。僕は、このようなかたちで、産業革命以降、数百年に及ぶ、科学技術それ自体が重要な役割を果たしてきた時代は終わりを告げると予測する。それは、生や死や個人や生命というものの意味合い自体が大きく変わっていく時代の幕開けとなるのではないだろうか。そこで重要になるのは、文学や芸術や、そして哲学なのではないかと考えている。

8 おまけ 100年後のその他の予測

この文章で行った考察に関わるかもしれない、今後100年のその他の未来予測を列記しておく。

自動翻訳による言語の問題の解消

遺伝子レベルでの外見や能力のデザイン

マトリクス的な仮想現実での、反社会的な欲求や承認欲求の充足

脳の操作による自己肯定感の充足

テレパシー的なかたちでの、他の人間との一体感の醸成

AIの脳への接続

AIによる文章の理解・評価・思考の深化

冷凍保存による未来への片道タイムトラベルの実現

人類絶滅に備えるための月・火星への一部移住

人体改造による宇宙進出