コロナ騒ぎと生きるということ

コロナ騒ぎの渦中にある今、思うことを書き残しておく。

1 コロナの数値的な話

コロナにかかると、何%かの人が死亡すると言われている。実際に何%になるかは医療体制の状況や年齢によりけりのようだ。ここでは仮に1%としておこう。もし実際は2%や0.5%だったとしても、話を進めるうえでは大きな問題はない。

今後、コロナはどうなっていくのだろう。このまま対策をとらなければ、皆が感染して免疫を獲得し、これ以上、感染が広がることがなくなったところで流行は終わるのだろう。そうなるためには全員が感染する必要はないが、かなりの割合の人が感染する必要がある。ネットでは70%程度の感染が必要だという情報があった。その情報は正確ではなくても目安にはなるように思える。

つまり、世界の人口が70億人として、70億人×70%=約50億人が感染する必要があることになる。また、死亡率が1%とすると、50億人×1%=5千万人が死亡することになる。

スペイン風邪の場合は、当時の人口約20億人のうち、数億人が感染し、数千万人が死亡したということなので、この試算には大きなずれはないのではないか。

当然、飛躍的に医療が進歩しており、ワクチンや治療薬の開発も進んでいる。だが、開発には1年程度はかかるとされている。スペイン風邪が2年程度で終息したことを踏まえると、死者・感染者を半減させる程度の効果しかないように思える。

以上の僕の試算は、多分フェルミ推定と呼ばれるものだ。桁が合っている程度のざっくりとした推計を目指すものなので算出した数値はかなり怪しい。だから、推計が悲観的なものになりすぎないように、仮に、人間とウィルスの戦いが、特効薬や移動制限などにより人間側に有利に展開されたとしよう。その結果、70億人×感染率70%×死亡率1%=5千万人、という試算より大幅に死者数は抑えられ、死者は700万人だったとしよう。

これは、全世界の人口70億人の0.1%が死亡するという計算となる。

その場合でも、2020年3月29日現在の死者数が3万人なので、これから、これまでの200倍の死者が出るということになる。

仮にスペイン風邪と同じように終息まで2年かかり、それまでに均等に死者が出るとすると、700万人÷365日×2年=1万人が毎日死亡することになる。

また、日本に目を転じると、人口1億人の0.1%が死亡するとするなら、死者は10万人となる。2年間、均等に死者が出るとすると、1日あたりの死者は150人となる。

これは、世界を破滅させるような数値ではないが、現在の騒動がまだ序の口にあると思わせるに十分なものだろう。

2 将来の死の可能性への注目について

このような数値を書き連ねたのは、どうも、世間は、こういう数値に目をあまり向けていないように思えるからだ。

日々、何人が感染して何人が死亡したとか、誰が感染したというようなことはニュースになるけれど、今後の予想が話題になることはほとんどない。

そのような将来予測は専門家にしかわからないので、専門家に任せておけばいいということなのだろう。

ただ、専門家も、そのような将来予測を広く知らしめることはない。不確定要素が多すぎるからかもしれないし、専門家とはそれぞれの分野の専門家であり、全体としての予測を行うような立場にはないからかもしれない。

だが、それらはすべてまやかしの言い訳だと思う。

本当は、皆、死から目を背けているのだ。

いや、当然、これまでの過去の死者には目を向けている。死者が何人ということは大きなニュースになるし、個々の死のエピソードにも注目は集まる。

正確には、皆、将来の死の可能性から目を背けている。誰もそれを見たくないのだ。

だが、実際に、死の可能性は目前にあり、死は僕たちを捉えようとしている。

僕のフェルミ推定的な計算結果は、多分、大きなずれはないと思う。将来、コロナによる死は0.1%の確率で僕たちを待っているのだ。

そこから年齢や健康状態などを考慮すれば、個人ごとの死亡率のばらつきはあり、例えば、0.01%~1%というような幅を広げた予測が必要となるかもしれない。

だが、無視できない確率での死が待っているということは確かだ。

3 死の意義について

このような暗い話をするのはなぜかと言えば、僕は、今回のコロナは悪くない話だと思うからだ。

僕たちは、1%か0.1%か0.01%かはわからないけれど、無視できない確率で、コロナにより死ぬ。いくら目を背けても多くの人はそのことを感じつつあるはずだ。これは、死により絶対的に失うものについて気付くということであり、失うかもしれないと思うからこそ、何を持っていたのか気付くことができるということでもある。それならば、その持っているものについて、大事にしようと思えるのではないだろうか。つまりこれは「死を思え」だ。ここにこそ、今回のコロナ騒動の意義があるように思える。

僕は、5年前にガンになった。実際には初期の胃がんで、5年生存率は95%とか99%というようなものだった。だけど、はっきりしたことは手術をするまではわからず、ガンができた場所も結構微妙だったので食道の進行がんかもしれないという話もあった。だから、5年生存率はもっと低いかもしれないと思った時期もあった。(食道は胃よりも組織が薄いので、組織からガンが漏れ出やすいようなのです。)

僕はがんになって、死なずに生きているということの意義を少し実感できた。当然、よりステージが進んだがん患者に比べればたいしたことない話だけど、ある程度の大きな数値で死の可能性を示されたことは、僕の人生において確かに大きな意味があった。僕は死を思い、生を思うことができたのだ。

つまり、僕にとってのガンと同じような意義が、コロナにはあるように思えるのだ。

皆、そろそろ死ぬ。そして、その「そろそろ」は意外と近いかもしれない。だとするならば、死なないのではなく、生きることを考えたほうがいい。そのためには、死に目を向けるべきなのだ。

4 コロナ対策について

死から生へ、と視点を変更するならば、コロナの感染を防ぐために、色々な活動を自粛することについても、よくよく考える必要がある。

コロナによる死者を減らすために、色々と対策をすることは当然必要だ。だが、それは、あくまで、死なないための取り組みに過ぎない。人間の営みとは、生きる営みであり、死なないための取り組みとは、その最低限の条件を整えるためのものに過ぎない。

死なないための取り組みの危険なところは、それ自体に、なにか大きな意義があるように感じられる魅力があるということだ。

今回のコロナで、医師が不眠不休で人の命を救ったり、製薬会社が新しい治療薬の開発に取り組んだり、市民が家に引きこもって買いだめした食材を食べてしのいだり、老人がマスクを探して薬局に並んだりしている。そこには「生」につながっているという高揚感があり、やるべきことをやっているという意義に満ちている。

だが実は、それらは全て、自分ではない誰かや、今の自分ではない未来の自分が生きるためのものだ。そこには、今の自分が生きるということへの考慮が欠けている。これらは、いわば死なないための取り組みに過ぎない。更に言えば、今の自分の「生」から目を背け、他の誰かや未来の自分に「生」を押し付けているに過ぎない。

だとするならば、他の誰かや未来の自分のために、今の自分の活動を自粛し、制限するということは、いわば、本物の金貨を差し出し、偽物の金貨を手に入れているようなものだとも言える。偽物には偽物の価値があるから、一概に悪い取引とは言えないが、そのような取引をしているということは心に留めておいたほうがいいだろう。

今回のコロナでの一番恐ろしい被害は、コロナにより死なないことを優先するあまり、この数ヶ月、または数年間、皆が生きることを忘れてしまうことだ。

人生が100年とするなら、この1年は全体の1%にあたる。若い人にとっては、実感としての割合は更に大きなものとなるだろう。

高齢者を中心に0.1%死ぬかもしれないことと、若い人も一律に1%確実に生きなくなることでは、後者のほうが問題ははるかに重大なのではないだろうか。

では、僕は具体的に何を言いたいのか。

僕はこう言いたい。「死なないしかしてない人は、生きるをしている人のことを邪魔しないでほしい。」

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