ラブレターみたいな文章

僕は時々、ラブレターのような文章を書きたくなるときがある。ただ、ある一人のためだけに書き、その人には是非読んでほしいと願う。なお、その人以外の人も読んでいいという点では、ラブレターとは違うけれど。
そういう文章を書くとき、僕は、その特定のある人が読むことで、喜んだり、何か感じたり、何か考えさせられたりして、その人の人生のなんらかのプラスになればいいと願っている。その人とは、友人や知人でなくてもいい。見ず知らずの名前しか知らない誰かでもいい。もしかしたら既にこの世にいない、遠い過去の人でもいいのかもしれない。

たいてい、その誰かとは、何か、僕に考えるきっかけをくれた人だ。行動や文章で、僕に何かを問いかけてくれた人だ。妻と喧嘩をしたことで、何かを考えさせられたなら、妻にあてて書くし、哲学的な文章により考えさせられたなら、筆者に向けて書く。

では、ラブレターのようでない文章とは、どういうものだろう。
文章は、大きく分けて3つありえると思う。誰か特定の一人に向けて書いた文章、複数の人に向けて書いた文章、そして自分に向けて書いた文章だ。

複数の人に向けて書いた文章にも、更に、数名の友人のような少数の人に向けたものと、不特定多数の人に向けた文章というような違いはあるだろう。
だが、ここで問題としたいのは、人数はともかく、複数の人に向けて文章を書くということが、そもそもありうるのか、ということだ。
例えば、僕が職場から、LINEで家族グループに対して、「晩ごはんは要らないよ。」とメッセージを送る。そのとき、僕は、家族という多数を思い浮かべて文章を書いてはいない。妻を思い浮かべ、そして、娘を思い浮かべ、それぞれに対して、メッセージを伝えることを考えている。当然、そこまで明確に意識はしていないけれど、そうであるはずだ。妻と娘を個別に思い浮かべ、個別事情があることに気づいたら、個別事情に応じてメッセージを変えるだろう。もし、娘が旅行中なら、「そういえば、そっちは何を食べたの?」なんて書き添えるだろう。
多数に向けて書く文章とは、誰か特定の一人に書く文章を、いくつかまとめただけのもののように思える。「晩ごはんは要らないよ。」というメッセージは、妻と娘とそれぞれに分けて送ってもいいけど、たまたま同じ内容でよいから、まとめて送っただけとも言える。(同時に送ることで、妻と娘が互いに同じメッセージを受け取っていると知ることができる、という意義もあるけど、その意義の話は別の機会に。)

僕が、誰か一人のために書いた文章がラブレターのようで特別なものだなあ、と思うのは、僕の文章は、大抵が僕自身のために書いたものだからだ。
僕は、いつも、僕自身という、僕のことをよくわかっている理想的な読者のために文章を書いている。僕は忘れっぽいから、昔自分が書いた文章を読み返すと、こんな文章を書いた意図さえ思い出せないこともある。だが、そんな文章でも、当時は自分だけはこの文章を理解してくれると思って書いていたはずだ。
僕は、そんな日記のような文章ばかり書いているから、時々書く、誰かのための文章は特別なものとなる。

僕自身は、誰かのために書いたラブレターよりも、自分のために書いた日記のほうが、哲学的に深いところに到達していて、哲学的な意義があると思っている。だけど、たいてい評判がいいのは、ラブレターのような文章のほうだ。(評判がいいと言っても、ほとんど読む人などいないから、なんとなくそう感じるだけ。)
また僕自身としても、読み返して理解しやすく、まとまっていると感じるのも、自分自身ではなく誰かのために書いた文章のほうだ。独りよがりの日記より他者のためのラブレターのほうが理解しやすいのは当然なのだろう。

だとするならば、僕の文章のクォリティ向上のためには、ラブレターを書きたいと思うような人との出会いが結構重要なのかもしれない。

ちなみに、この文章は、自分自身のための、独りよがりの日記パターンです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です